4 それでも彼女は変わらない
「立花くん、昨日はありがとう」
「は?」
突如頭上から降りかかった言葉にそんな不機嫌そうな返答をしてしまったのは、昨日自分に配達を押し付けた生徒たちの視線を無意識に思い出したからだろう。
その返答を聞いて、声をかけてきた人物は動揺を見せた。
「え? ご、ごめん、何か嫌だった?」
「――いや、ちょっと眠かっただけ。で、何で委員長がお礼を?」
適当に言い訳して桃火が問いかけると、普段なら誰も話しかけてこない朝に話しかけてきた女子生徒――クラス委員長の柊奏は体の前で合わせていた指を小さく動かしながら、
「あれ、本当は私がやるように言われたの。だけど別の仕事が入っていて……。その時に倉本くんに教室にプリントを置いておくように頼んだんだけど、違う意味で取られたみたいで……」
その説明になるほど、と桃火は頷く。あれ、とはまず間違いなく昨日のプリントの配達のことだろう。倉本とかいう男子と面識は無いがそれを置いておくとしても、昨日の仕事の押し付けは事故で起こった事だと分かれば桃火には十分だった。
「時間が余ってた俺が勝手に判断してやった事だから、別に謝らなくていいよ」
「ありがとう、立花くん。それとなんだけど、雫さんの様子、どうだった?」
おずおすと奏が訊いてくる。その様子を見るに奏はまだ彼女の容姿を確認できていないらしい。
(綺麗だった)
そんな感想が一番に出てきて、そっと内心に押し込める。次に出てきたのは病室の右奥に一人で本読む雫の姿。白い部屋に白い髪の少女。窓からは雲ひとつない青空。やはりどこをとっても綺麗という言葉が表現にぴったりの少女だった。
「……まあ、吸血鬼みたいだったよ」
「そう……」
とはいえ正直に綺麗なんていう褒め言葉を言えるほど桃火の心は真っ直ぐではない。仕方なく二番目に受けた印象を言語化する。奏も雫の噂くらい知っているだろう。
その言葉を聞いた奏は自分の後ろにある雫の机を見て、再度桃火の方を向く。顔には簡単には読み取れない複雑な感情。もしこの表情を桃火以外の生徒が見ていたとしたら、彼女の艶やかの黒髪と相まって思わず見惚れてしまうに違いない。
「……あ、今日からは私がプリントを届けに行くから」
「……ん? プリント渡しに行くのってあれが最後じゃないの?」
違和感を覚えて桃火が尋ねる。プリントなんて毎日届ける必要はない。3日に一度とか、1週間に一度届ければ問題ないのではないのか。
そんな桃火の疑問に奏は頷いて、
「うん。去年もクラスメイトがプリントを届けに行って、それと同時に雫さんの様子を見てクラスの人に伝えることも目的にあったんだって」
それは長期にわたって休学する生徒が、復帰した時クラスで孤立しないようする為でもあるのだろう。まあ復帰が一年越しになってしまった今となってはその努力も無駄だったようだが。
桃火は机を指で叩きながら、
「その役、去年は誰がやってた? クラスの委員長?」
「うーん、確か、雫さんの隣の席の人がやってたらしいけど……」
奏が桃火の机を見る。そして、あ、と一言。まるでたった今何かに気づいてしまったかのように。
昨日の帰り際の雫の言葉を思い出す。
また明日。
この配達係兼報告係の事も、雫は知っていたのだろう。仮に知らなくても病室に来る生徒がいつも自分の隣の席の生徒だったら何かしらの規則性には気づくはずだ。
(なるほど)
納得した。納得してしまった。しかし、このまま適当に返事を返せば会話が終わるのもまた事実。そこには奏が配達係を務めるという事実が残るだけだ。
いつもの桃火ならそうしただろう。
そして今回もそうするはずだった。
「――あのさ、委員長」
「なに?」
「その役、俺がやってもいい?」
昨日の帰り際の、振った手の奥にあった雫の笑顔の意味がなんとなく分かった気がした。
〜〜〜
「うん、予想通り。こんにちは、桃火くん」
来るのが二度目となった病室で、雫はあらかじめ用意していたような言葉で桃火を出迎えた。
「先輩もお元気そうで」
「そりゃ1日しか経ってないからね。血乏病は死に至る病じゃないし。それと、先輩はやめよう。私と君は同じ学年なんだから」
桃火が昨日と同じように椅子に座ると、雫は手に持っていた文庫本を膝に置く。それと同時に欠伸を一つ。読書くらいしかやることがないのか、暇を持て余しているようにも見える。
雫は桃火が持ってきた数枚のプリントを眺めて嫌そうな声を出す。
「うへえ、課題プリントか。やっぱり登校復帰は来年にしようかなぁ。嫌になってきた」
「あれ、せんぱ……雫さんって今年から復帰するんですか?」
「あれ、聞いてない? 病気による体の変化にも慣れたし、来週から復帰するよ」
この髪も一年前は黒かったんだ、と雫が付け足す。
来週――今が火曜日だから、6日後には桃火の隣には雫が座るらしい。隣が涼しかった桃火にとっては良いニュースだ。
壁にかけてあるカレンダーを睨んでいることに気づいたのか、雫はベッドの隣の棚にあるお菓子入れからお菓子をひとつ取り出すと、桃火に投げ渡した。
「あげる。というか全部食べていいよ。私のクラスメイトたちは私の病気のことを知らないから、こうして定期的にお菓子を送ってくるんだよ」
「病気のこと言ってないんですか?」
少し意外に思う。
彼女のような飄々とした性格――桃火から見た印象だが――ならばお見舞いに来たクラスメイトにもべらべらと喋りそうだからだ。
自分にも言えるなら恥ずかしい訳でもないだろう。
そんな桃火の疑問に、雫は悩む事なく答えてくるかと思いきや、
「……まあ、ちょっとね」
彼女と出会ってまだ2日目ではあるが、雫の印象からして言葉に詰まっている彼女の姿は珍しい。
思わず首を傾げたくなる光景に、しかし桃火は、
(俺には関係ない)
打算という言葉を脳内に思い描く。立花桃火という男は自分に関わりのない物事には干渉しない。それが彼の長所であり、彼自身もそれを自負している。
お菓子をひとつだけ貰いながら桃火は立ち上がると、それにつられて雫の視線が上を向いた。
「もう帰るの?」
「ダメでしたか?」
「ダメではないけど、ほら、暇なんだよ」
雫が手に持った文庫本をゆらゆらと揺らす。確かに、ずっと読書だけというのはどこかで飽きがきてしまうだろう。
桃火は病室にかけられている時計を見る。
時刻は丁度午後四時をまわったところだ。もう少しここに長居しても問題はない。
無視して帰宅するという結論が頭を過るが、配達係に自分からなった以上最低限それの役目は果たすべきだと桃火は考え、
「……じゃあ少し話しましょうか。といっても、俺に話題を振られても無理ですよ」
そっちが話題を考えてくれ、と遠回しに言った桃火だったが、雫はそれを気にしていないように笑った。
「大丈夫大丈夫。桃火くんのクラスについて少し訊きたいだけだよ」
「俺のクラスですか?」
「うん。私がどう思われてるか知りたいんだ」
少しだけ雫の声のトーンが下がる。その様子から彼女が、自身が異質な存在として見られている事を知っている事になんとなく気づく。そしてそのうえで自分がどう捉えられているのか知りたがっていることも。
桃火は考えた末に、
「……吸血鬼って言われてましたよ」
「え、私の病気バレてる?」
「いや、多分容姿とかそっちの方かと」
「そっかぁ……。まあ確かに、普通の人がいきなりこんな姿になれば当然かな」
白い髪をやわらかく撫でる雫。その仕草でさえどこか幻想的な雰囲気を桃火に抱かせる。それはここが病室という白の代表ともいうべき場所だからだろうが、それだけでは無いことを桃火は分かっていた。
桃火は言うことのなかった冗談を言ってみる。
「牙は無いんですね」
「そりゃあね。私は吸血鬼じゃないし。……うん、もう十分。ありがとう、桃火くん。引き止めてごめんね」
冗談を意に介すことなく笑った雫は、ひらひらと桃火に手を振ってくる。こうなれば桃火の選択肢はただ一つだった。
「じゃあ帰ります」
「うん、さようなら。それとまた明日」
「はい、さようなら」
昨日も聞いたような言葉を背に受けながら、桃火はおとなしく病室を後にする。
「……吸血鬼か」
そんな独り言のような呟きは、桃火の耳には届かなかった。