3 それはあまりにも白く
病院に到着した桃火は、念のため受付で橘雫がいる部屋を聞くとその部屋がある二階へと足を進めた。
薬品の匂いと清潔感のある通路を進む。30年以上続いているこの病院は昨年改修工事を終えたといつかの新聞記事で目にしたことを思い出す。無駄な事ほどよく覚えてしまうのはなぜだろうか。
「――ここか」
柔和な笑みを浮かべる老人の集団に挨拶し、真新しい通路に反して時間に置いていかれたような中年の医者とすれ違った頃、桃火の姿は『201』と扉に書かれた扉の前に立っていた。
扉の横のホワイトボードには『橘雫』という名前が一つだけ。ここで間違いない。
桃火は特に躊躇する事なくその病室の扉を開けた。
扉の先は一般的な病院だった。左右にそれぞれベッドが三つずつ。
6人は使用できる病室に一人だけという事に少しだけ違和感を覚えながらも、桃火は室内で唯一使われているベッド――右奥の、リブレールから垂れ下がったカーテンで仕切られたベッドの前に歩みを進める。
風にゆらめく白い壁の前に立った桃火は、そのカーテンに手をかける前にまず声を出した。
「あの、橘雫さん、ですか? 2年1組の立花です。担任の先生からプリントを預かって――」
瞬間、桃火の頬を風が撫でる。
それから先の言葉は続かなかった。正確には、桃火が声を出すのを無意識にやめた。
しゃっ、とカーテンが開かれていく。しかしその慣れた手つきで行われる動作に桃火は言葉を失ったのではない。
落ち着いて、揶揄するような声が桃火に届く。
「へぇ、先生じゃないんなんて珍しい。余程物好きなんだね、君」
カーテンの、その向こう。雪を編んだような白い髪を肩ほどまで垂らし、ベッドに文庫本――読書中だったらしい――を置いてこちらを見てくる少女。その奥の窓から見える青空と相まってその姿はあまりにも非現実的で、清潔の代名詞である病院の印象を受けて自分が幻覚を見ているのかと思ったほどだ。
少女は右手を文庫本の上に手を置くと、その上を指でとん、と叩いた。
「けど早く帰ったほうがいい。私は吸血鬼だからね。いつ誰の血を吸うか分からないよ?」
そう言って笑う、桃火にとってはそのカーテン一枚でさえ高嶺と感じてしまいそうな少女が、そこにいた。
〜〜〜
「なるほど、押し付けられたのか。それは災難だったね。あ、これ食べる? 私は甘いの苦手なんだ」
「は、はぁ……。どうも」
雫に無事プリント類を渡した桃火は、何故か椅子に座って雫と談笑していた。いや、何故かというのは少しだけ表現に語弊がある。
原因は単純だ。桃火がベッドの脇に置いてあった椅子に座ったからである。
会話の一つも交わさずに病室を出て行く事に少しの申し訳なさを感じた故の行動だと理解はできるが、初対面の女性を前に話す事があるかと言われれば唸らざるを得ないわけで、桃火は数分前の自分の行動を呪った。
貰ったお菓子を無心で咀嚼する桃火を見て、雫は興味深げに視線を上下に動かす。そうすれは必然的に沈黙が場を支配していく。
先に声をあげたのは桃火だった。
「あの、橘先輩は血乏病、なんですよね?」
血乏病――通常の食事が取れず、血液しか摂取できなくなる奇病、らしい。桃火も先ほど雫に説明されて理解するとともに吸血鬼という噂もあながち間違いではないと思ったところである。
雫はベッドの脇にある点滴スタンドにかけられている赤い塊――輸血パックを揺らしながら答える。
「さっき言ったとおりだよ。2年に上がると同時に血乏病に罹って即入院。今に至るってわけ」
「それは……、災難ですね」
「いや、災難でもないさ。お陰で1年間休めたし」
言いながら笑う雫の顔に嘘の色はない。同級生が先に3年に進級していってしまったのに、それを気にするそぶりも見せない彼女に桃火は少しだけ違和感を覚えたが、終ぞそれを言及することはなかった。
その後も他愛ない会話が続く。誰かに話すのも躊躇われるような、そんな日常話。当初は少し話して帰ろうと思っていた桃火も、とっかかりが掴めずにずるずるとその会話に巻き込まれていった。
会話が終わる合図となったのは、不意に彼女がした伸びだった。
両手を上げて仰け反るように伸びをする。服越しに体の細さが際立って桃火は無意識に目を背けた。
「……そろそろ帰ります」
「ん、そっか。退屈しのぎにはなったよ、ありがとう」
雫が手を振る。手を振り返そうかと迷ったが、結局そうせずに頭だけ下げた。
「あ、最後に一つ」
「なんですか?」
「君、私の隣なんだよね?」
先程の会話で雫の席について桃火は話している。そしてその隣の席のことも。
桃火が頷くと、雫は演技じみた手つきで顎に手を当てて考えるポーズをとる。大人じみた口調のせいか妙に様になっているその姿に桃火は思わず笑いそうになった。
雫はたっぷり一分間考えた後に顔を上げて、
「……そっか。うん、じゃあまた明日」
「はい、さようなら」
再度手を振る雫に今度は言葉で応じて病室を出る。
先程と同じ道を通って病院を出ていく。行くときは新しいと思った廊下の床も、今は少しだけ汚れているように見えるのはあの白い彼女のせいだろう。
「……また明日?」
桃火が彼女の言葉に疑問を持ったのは、病院を出て自宅に到着した後のことだった。