2 頼み
吸血鬼は流水を嫌う。
トイレを出て手を洗っているときにそんな事を考えてしまったのは、正河から聞いた胡散臭い噂のせいだろう。
「……馬鹿馬鹿しい」
水道の蛇口を閉め、手を拭こうと思ってポケットに手を伸ばし、ハンカチを忘れたことに気付く。仕方ないからその場でばっさばっさと手を振る。水飛沫が桃火の横顔を映し出している鏡にかかる。掃除する人に申し訳ないが頑張ってくれと桃火は心の中でエールを送った。
教室に戻ると、そこには殆ど生徒は残っていなかった。窓から見える空はまだ昼前である事を教えてくれる。
休み明け初日に行われる行事は当然ながら始業式で、これが終われば下校していいことになっている。今教室に残ってある生徒もこれから遊びに行く場所を決めているようだった。
教室前でたむろしている生徒たちの間を通り自分の席へ。
「……ん?」
あらかじめ荷物を突っ込んで机の上に置いていた鞄を手にとろうとして、その隣に置いてあった紙の束に気付く。桃火の記憶には鞄の横に紙束を置いた記憶もないし、紙束を持ってきた記憶もない。
首を傾げながら、桃火は目に付いた紙の上に貼られた付箋に書いてある文字に目を通した。
『橘雫さんに。鴫沢病院201号室 鈴木』
はて、と桃火は思う。
鈴木の事はすぐに分かった。このクラスの担任の苗字だ。病院の場所も分かる。つまりは鴫沢病院にいる橘雫という人物にこの紙束を届けろという事だろう。だが問題は、橘雫という人物を桃火が知らないということだった。
脳内に自分と交流のある数少ない人物を列挙して考えていた桃火だが、不意に閃いたように声を上げる。
「――あ、こいつか」
この教室に橘雫という名前の生徒はいない。ならば考えられる予想は一つで、桃火は自分の席の隣の空席に目を向ける。
とはいえ疑問は残るわけで。
(なんで俺なんだ……?)
桃火自身、今から帰宅しても別にやることもなく惰眠をむさぼるだけだと分かっている。少なくとも何かを頼まれたら面倒くさいと思いながらも引き受けるくらいには。
ぐるりと教室内を見渡す。すると妙に生徒たちと目が合う、気がした。そしてそのどれもか桃火と目が合うと同じ極の磁石のようにどこかへ逸れていく。
なるほど、と桃火は理解した。
「……まあやってやるか」
いつもなら紙束を教卓において帰るような桃火であるが、今はまだ昼前だ。時間はある。
紙束を鞄に突っ込んで、いつもより少しだけ重くなったそれを肩にかける。
桃火が教室を出ていく直前、背後で安堵のにも似た溜息の気配がする。どうやら予想は合っていたらしい。
「吸血鬼ね……」
今頃元気に校庭を走っているであろう正河が言っていた噂を思い出す。正河が知っていたという事はクラスメイトの大体は例の噂を知っていたのだろう。信憑性はともかく、変な噂を持つ人物と関係を持つなど損以外のなにものでもない。その点においては、あそこにいた生徒達の判断は正しいといえる。
さなから今の俺は生贄だろうか、と桃火は苦笑する。
吸血鬼は架空の存在だ。それは何かの比喩かもしれないし、本当に吸血鬼じみた奇行を犯したのかもしれない。しかし桃火の結論はいつだって一つだけだ。
「考えても無駄だな」
どんな出来事で橘という人間が吸血鬼と呼ばれるようになったかも、桃火には関係ないことだ。得でも損でも無く、はたまた結論が分かりきっているのであれば無視するのが一番の選択だろう。
いつのまにか到着していた昇降口で靴を履き替えて外に出る。空は雲ひとつない晴天だ。絶好の帰宅日和。やや自虐気味に笑いながらその空の下を桃火は歩く。
病院までの道のりは徒歩でも十分に踏破できる距離だ。多少時間はかかるが、桃火が家に帰る頃にはいつも通りの下校時間になっているだろう。
「でも、まあ」
桃火がぽつりと呟く。
「自転車で来れば良かったかなぁ」
今日、唯一損をした自分の行動に桃火は後悔にも似た言葉を吐いた。