14 交渉
意外にも、桃火に喫煙を見られた後も香織は平然と煙草を吸い始めた。
「……誰にここ聞いたの?」
「竹田先生から」
「あー、ここって保健室から見えるのか……」
納得した様子で窓から保健室を睨んだ香織は、それが無意味だと分かって息を吐くと椅子に座った。
同じく近くの椅子に腰掛けた桃火が尋ねる。
「なんで煙草を?」
「いつの間にか吸ってた。それだけ」
「やめないの?」
「飽きたらね。というか、ここに来たってことは話があるんでしょ。煙草の件を使って脅しとか?」
そう言って香織は懐から取り出した携帯灰皿に煙草を押し込むと、灰皿と一緒に取り出したウェットティッシュで手や髪を拭いていく。その動作には迷いがなく、日常的に行っているかのような手際の良さだった。
「慣れてるね」
「まあね。で、話があるなら早くして。昼休み終わっちゃうから」
香織がスマホを振りながら急かす。その表情には余裕が見え、桃火はどうしようか迷った。
一番最初に思いついたのは香織が言っていたように脅しだった。
しかし香織の余裕そうな立ち振る舞いを見るに、恐らく喫煙の件で脅されようが香織は桃火の要求を断るだろう。
(お願いするだけの奴は嫌い、か)
確かに今朝の自身の行動を省みるに、何処か押し付けるような言い方があった。そしてそんな奴の頼みは、どんな要素が絡んだところで目の前でタバコを吸い続ける彼女は首を縦に振らない。
ならば。
(お願いするだけじゃダメだ。ならその誠意を見せろ)
雫をクラスに復帰させる為に全力で働く、その覚悟。
私欲で動いていていながら誠意というのは何だかおかしい気もするが、桃火ができる最大限の証明はこれだけだった。
意を決して桃火が口を開く。
「香織さんって、今願い事とかある?」
「は? 何いきなり。バカにしてんの?」
「そうじゃなくてさ、こう、テストで良い点取りたいとか、なんなら授業サボりたいとか、そういう身近な願い事あるかなって」
我ながら下手な言い方だ、と桃火は内心で悶える。
しかし先程の言葉で意味は伝わったようで、香織はスマホを弄る手を止めて、
「……強いて言うなら、体育大会のバレーで優勝したいかな」
その願いは当然といえば当然であった。
香織が前々から言っており、去年もあと少しの所で惜しくも敗れたバレーのリベンジ。成績に一番貢献している香織らしい願いだ。
「私は今年こそ優勝したいと思ってる。……行事に熱くなりすぎだとか思われるかもしれないけど、私は自分の力で優勝したい」
「自分で……」
香織の瞳には偽りがない。その場しのぎで出した願いではなく、絶対にそうするという強い意志が困った願いだ。
闘志を燃やす瞳には射抜かれて思わず後ろに下がろうとする足を必死に押さた桃火は今度こそ足を前に踏み出す。
そして、言い切った。
「分かった。じゃあ優勝しよう」
「……はぁ?」
香織の印象からは全く想像のつかない間抜けな声が漏れる。
「何言ってんの? 優勝なんてそんな簡単にできるわけ――」
「うちのクラスでバレーに出る人は6人。そのうち現役は一人で、現役じゃなくとも問題なくバレーができるのは香織さんと雫さんと正河。俺含めた残り2人は初心者だ」
体育大会のルールとして各種目に出場できる、現役でその種目をやっている生徒の上限は1種目につき二人までだ。なら桃火のクラスは現役が一人いるだけでもラッキーな部類である。
だがそれで勝てないとなると、原因は明らかに穴埋め等で選ばれた初心者だ。なら話は簡単で、
「俺が香織さん、少なくとも雫さんくらいに上手くなれば勝率は上がるよね?」
「そりゃあ確かに、他のクラスより有利にはなる、けど……あんたって確かバレー下手くそだったよね? そんな奴が理想論掲げたって意味ないでしょ」
「うん、確かに意味がない。だから俺は、今日からバレーの練習をする。そして来週の月曜日、香織さんに見てもらいたい」
「見てどうすんの」
「見てもらって、俺が戦力になるって判断できたら、今朝に頼んだ手伝いを受けて欲しい。自分勝手なのは分かってる。でも、お願いします」
そう言って、桃火は頭を下げた。
自身も相手の役に立とうとする意欲を見せ、その対価としてこちらの手伝いを受けてもらう。今回の桃火はお願いするだけではなかった。
頭を下げて何秒くらい経っただろうか。たった十秒かもしれないし、一分くらい経ったらかもしれない。
頭を下げる体勢が辛いと感じ始めた頃、やっと桃火の頭上から声がかかった。
「……いいよ。乗ってあげる」
「! あ、ありが――」
「ただし。約束の日に見込みが無いって判断したらそっちのお願いは受けない。勿論私も真剣に判断する。これでいい?」
「う、うん、それでいい。ありがとう、香織さん」
「……別に。私は審査するだけだし」
「それでも、応じてくれて本当にありがとう」
改めて頭を下げる桃に、香織はふと気になった事を聞いてみた。
「……ねぇ、なんでそこまでするの? そんなに雫さんをクラスに復帰させる事が大事?」
誰かが不登校になっても、それを解決するのは保護者と教師だ。生徒が一人で奔走するものではない。
そんな当然の疑問に桃火は苦笑を浮かべながら、
「待っててって言っちゃったからさ。それに、俺は雫さんと一緒のクラスがいいんだ」
「……なにそれ。惚れてんの?」
「うん」
「……ふうん、そっか」
その時、頭上で授業開始を告げる鐘が鳴った。どうやら時間を気にせず話しすぎたらしい。
慌てる桃火をよそにスマホの画面をちらりと見た香織は、すぐに踵を返して美術室の出口へ向かう。
「あんたも早くしたほうがいいよ。あ、窓閉めるのよろしく」
「え? ああ、うん」
言われるがまま空いている窓を閉めて鍵を閉める桃火。
その間に香織は美術の扉に辿り着き、その扉を開けようと手を伸ばして、
「……あ、一つ忘れ物」
そう言ってくるりと回った香織は、再び桃火の方へ歩き出した。
「何か落とした?」
「いや、ちょっとね」
そう言って近づいてくる香織を見て、桃火はいつの間にか彼女の左手の指の間に煙草が挟まっていることに気づく。もう一服するつもりだろうか。
「もう時間だからタバコを吸う余裕は――」
「よっと」
注意しようと一歩踏み出した桃火の視界は、しかしその直後にぐるりと回転した。
肩から側頭部にかけて圧力を感じる。それが桃火の肩に回された香織の左手、そしてその状態のまま香織の方へ引き寄せられたのだと気づくのには数秒の時間を要した。
咄嗟に距離を取ろうと体を動かす桃火だったが、力に自信のない彼が香織の腕から逃げられるはずもない。
「ちょ、ちょっとなにを――」
「はい、チーズ」
ぱしゃり、と電子音が鳴ったと思った頃には桃火を包んでいた圧力と温かさは消え失せ、かわりに美術室の扉を開けてこちらを見る香織の姿が目に入る。こちらに見せつけるように向けられたスマホの画面には、口にタバコを加える香織と、その香織の手を肩に回された桃火の姿が写っていた。
香織の顔に笑みが浮かぶ。
「じゃ、これで共犯ってことで」
「ちょ、ちょっと待っ――」
そう言って、桃火が反論する隙も与えず香織は廊下へと消えて行った。
足音がゆっくりと遠ざかっていく中、桃火は窓越しに新校舎の保健室の窓を見る。当然中までは見えないが、きっとそこにはいつものようにコーヒーを飲んでいる女性がいるのだろう。
「……ありがとうございます」
桃火に課された問題は大きい。だがこうして舞台が整った。なら後は、どうにかしてその舞台を完成させるだけだ。
香織に撮られた写真が気がかりではあったが、それ以上に先程の数十分間の会話の中に確かな達成感を感じながら、桃火は美術を後にした。
当然、桃火は授業に遅れた。
今月中には完結します。




