12 捨てる勇気
翌日、本来なら家で怠惰な時間を過ごしているはずの桃火の姿は、とある一戸建ての前にあった。
「……よし」
『橘』という表札を確認した桃火は、短い気合と共にインターホンを押す。すると直ぐにインターホンから小さな声が漏れてきた。
「はい、どちら様ですか?」
「日笠高校の立花桃火です。橘雫さんにプリントを届けにきました」
一瞬の沈黙。
もしやそのまま切られてしまうのでは、と危惧した桃火だったが、それは杞憂に終わった。
インターホン越しに呆れたような、感心したような声が響く。
「……よく分かったね。察するに竹田先生かな?」
「ご想像にお任せします」
「……分かった。ちょっと待ってて」
その言葉を最後にぶつりと音が途切れる。そしてその数秒後、今度は目の前の扉からガチャリ、と何かが解除された音が響いた。
ゆっくりと扉が開く。そこにいたのは、制服ではなく寝巻きを纏った雫だった。
「この格好見られたくないから、早く入って」
「……ふっ、はい。お邪魔します」
周りをキョロキョロと見回しながら言う雫を見て、桃火は思わず吹き出しながら頷いた。
〜〜〜
案内されたリビングで、桃火はソファに座っていた。
ニュース番組が流れるテレビの画面を無心で見つめていると、やがて後ろからコーヒーカップを一つ持った雫が現れる。
「コーヒーで良かった?」
「はい、大丈夫です」
「そっか」
雫はコーヒーカップを桃火の前のテーブルに置くと、桃火と少し間を空けてソファに腰を下ろす。
桃火がコーヒーを一口飲む。相変わらず苦いという感想しか漏れないが、桃火はその感情を胸の奥に押し込んで雫の方へ顔を向けた。
「ちゃんと栄養は取ってますか?」
「うん。といっても、血液だけだけどね」
「竹田先生、心配してましたよ」
「え、本当に? うーん、それは悪いことしちゃったなぁ」
後で謝ろう。そう付け足して笑う雫は、しかしいつものような華やかな笑顔ではなかった。いつも彼女の笑顔を見ていた桃火だけがそれに気づいたのだ。
会話が途切れた瞬間を見計らって、桃火が本題に入る。
「輸血パックを見られたからですよね、学校に来なくなったのは」
「……私のことは何て?」
「本物の吸血鬼なんかじゃないかって噂が立ってます」
「それは随分面白い噂だね。本物なんていないのに。……いるのは、ただの奇病を患った患者だけだよ」
雫の声のトーンが落ちる。お湯が一瞬で冷水に変わったような気持ちの悪さ。テレビに映し出されたニュースキャスターの声が妙に大きく聞こえる。
「あの時、教室に行った時さ、クラスにいた生徒が全員私の方を見てたんだ。でもそれは初登校の時みたいな好奇心に任せた視線じゃなくて、完全に怯えたような視線だった」
桃火がいなかったあの場で、彼女の味方は奏くらいしかいなかったのだろう。
雫は自嘲気味に笑いながら言葉を続ける。
「桃火くんは知ってると思うけど、私、嫌われたくないっていう気持ちが人一倍強いんだよ。だから私が入院した時にお見舞いに来てくれたクラスメイトたちにも病気のことは言えなかったし、今もそう」
「けど、俺には言ってくれました」
「うん。私ね、嫌われたくはないけど人との付き合いが苦手なんだ。前のクラスでもよく分からない立場にいてさ。で、同級生たちが上にいっちゃった時に少しだけ勇気を出してみようと思って、配達係の人と接してみることにしたんだ」
それが君、と言って雫は桃火を指差す。彼女の微かに震えている人差し指を見て、桃火は自分の中にあった雫という少女の人物像とは異なることに驚いた。
その感想を読み取ったのか、雫は小さく笑って、
「実は君と話すのも結構緊張するんだよ? 自分の家にクラスの男の子を入れるなんて初めてだし」
「雫さんから見て俺は男として見られてたんですね」
「嫌だった?」
「いえ、少し安心しました」
男として見られていなかったら、今の桃火としては少し傷つくところがある。
そんな桃火の言葉に首を傾げていた雫だが、その視線がちらりとテレビの画面に向く。
「私が学校に行かなくなった理由はね、輸血パックを見られただけじゃないよ」
「そうなんですか?」
「うん。……自分がかかっている病気が分かった時から、お腹が空いたとか、喉が乾いたとか、そういう事を思った時に、前までは浮かんでいた食べ物が全部に血液に変わっていった。それと、ほら」
言いながら、雫が指差した先にはニュースを流し続けるテレビ画面。どこかで起きた殺人事件についての情報を読み上げるニュースキャスターの無機質な声が耳に届く。
これがどうしたんだ、と思って桃火が雫の方へと顔を向けるが、その行動は不発に終わった。
胸を押される。ぐるりと上を向く視界。背中からソファに倒れる。
柔らかいソファの感触を味わう暇もなく、桃火の視線は上――自分に覆い被さった雫へと向けられた。
髪が触れる。息がかかる。およそ体感できるはずもない感覚が間近まで迫り、桃火の心臓は跳ね上がった。
この時、桃火が声を出せたのは奇跡だった。
「人付き合いは苦手じゃないんですか?」
「うん。凄い緊張してる」
「だったらなんで」
「私は、血が好きなんだ」
その言葉の意味を掴めず、桃火は疑問符を浮かべる。血液しか摂取できない病気を患ったのだからそれは当然といえば当然ではないのか。
そんな疑問を読み取ったのか、雫はテレビの画面をちらりと見ながら、
「殺人事件のニュースを見た時にね、何となく血を想像して美味しそうって思った時がある。これじゃあ本当に吸血鬼みたいでしょ?」
「でも、それは仕方のない事じゃ――」
「それは関係ないんだよ。ただ、普通の人とは違う考えを持ってしまった。ずれてるんだよ、私は。これじゃあ怯えられても言い訳できない」
周りとズレた考えを持つ。それは教室内では個性にもなり得るし、異分子ともなり得る。嫌われることを人一倍恐れる雫にとって、その違いはかなりの不安だったはずだ。
言いたいことを言い終えたのか、ゆっくりと雫の顔が離れていく。
一拍置いて桃火が起き上がると、膝に手を置いて俯く雫の姿が目に入った。
テレビからお昼を知らせる鐘が鳴る。不気味なくらいに陽気なワイドショーが始まり、桃火は思わず机に置いてあったリモコンで勝手にテレビの電源を切った。
今度は痛いほどの沈黙が耳に届く。
俯いたままの雫を見る。話しかけても話しかけなくてもずっと動かないんじゃないかと思うほど微動だにしない彼女。
ゆっくりと息を吸う。居心地の悪さも、痛いほどの沈黙も、これから自分が起こす行動に対する緊張さえも飲み込むように大きく空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
そして、桃火は口を開いた。
「雫さんは、もう学校に行きたくないんですか?」
「……もう3日も休んじゃったからね。それに、もう私の居場所は無いでしょ?」
「確かに、はい。登校できたとしてもかなり居心地は悪いです」
「ほらね。……もう復帰は無理じゃないかな。なにより、体が学校に行くのを拒否してる」
雫はソファに背中を預けて目を閉じる。
諦めるように体の力を抜く彼女を見たら、以前の桃火なら諦めてしまったはずだ。勿論、今の桃火から見ても雫をクラスに復帰させるのは不可能と結論を出すだろう。だが、しかし。
「雫さんが学校に行きたくない事は分かりました。なら、その原因が無くなれば学校に行く気になれますか?」
「え……? そりゃあ、何年も留年するわけにもいかないし行くけど……」
「分かりました」
その言葉を聞いて桃火は少し安心する。ここで否定的な言葉が出てしまえば桃火が考えた作戦が水の泡になってしまう。
桃火は一度立ち上がると、ぽかんとしている雫の前は移動して今度は床に膝をつく。
「雫さん、少しお願いがあるんですがいいですか?」
「お願い?」
「はい。まず一つ目ですが、体育大会当日は学校に行く準備をしていてください。俺が迎えにいくので」
「む、迎え? だ、だって私の居場所は学校には――」
「その日までに、全て俺がどうにかします」
全て――つまり雫が登校を拒否する原因となっている環境の改善。
それを聞いて、雫はとても驚いたような表情をする。彼女から見た桃火とは、一言で言えば打算だ。そんな彼がこんな不確定要素しか詰まっていない事を、しかもどうにかする、と断言すれば驚きたくもなるだろう。
しかし今の桃火は違う。打算では動かない。何故なら、自身が雫に対して抱いている好意を真正面から認識したから。
(どんな不利益を被ってでも、俺は彼女の為に動きたい)
それはいわば桃火という人間を型作ってきた打算という要素を捨てるに等しい。しかし、それを捨てるのを躊躇わないほど桃火は真剣だった。
「雫さん、一つ目のお願いは問題ありませんか?」
「あ、ああ、うん。準備はしておくよ」
「ありがとうございます。では二つ目ですが、これはとても簡単です。――体育大会の1日目が終わった後、少しお話したいことがあります。その時に少し時間をください」
「それは、ここじゃダメなの?」
「別に問題は無いんですけど……、いや、やっぱり全部終わってからじゃないと格好がつかないのでダメです」
はっきりいってこれは桃火の見栄っ張りなのだが、こればかりは仕方ないだろう。
首を振る桃火に疑問を抱きながらも、雫は渋々と言った様子で頷く。
(これで全部揃った。あとは――俺次第だ)
打算を捨て、ただ雫の為に動く。それはきっと以前の生き方よりも大変で、今まで苦労していなかったしっぺ返しのようなものだろう。
だが、決めたのだ。どんなに苦労しようと彼女がまたいつとの笑顔を浮かべられる場所にすると。
「雫さん」
雫の膝に置かれた彼女の手を桃火はそっと握る。一瞬手が強張るが、手を振り払うような事はせず彼の手を握り返すように少しだけ力がかかる。
ああ、好きだな、やっぱり。
手を握る。そんな些細な動作でさえも心が安らいでしまえばこれはもう否定のしようがない。
桃火は雫の瞳を見ながら、緊張で震える唇を必死に動かしてその言葉を言った。
「必ず俺がなんとかします。だから、信じて待っていてください」
「――――」
返事は無かった。ただ、握り返してくる雫の手の力が少し強まったのを感じて桃火はよしとした。
手を握るのは大胆すぎるか、と迷いましたが後悔はしていません。
暇だったら評価してやってください(一度言ってみたかった)。




