プロローグ
──ここは何処?
いくつもの雲が風にのり少女の横を通り過ぎていく。空でも飛んだかと少女は錯覚したが、硬い地面がそれを否定した。どうやら標高の高い山の上のようだが、少女に登山をした記憶はない。百歩譲って登ったのだとしても、なんの装備もなく学生服で挑むなど無謀すぎる。
──きっと夢ね。
幼い時に飛行機から見た景色が、印象に残っていたのかもしれない。現実なら寒いし空気だって薄いはずだ。それを全く感じないのだから夢以外に考えられない。少女はそう分析し、不安な心を落ち着かせた。
──でもなんだか寂しい所ね。こんな時はあの歌でも歌おうかな。
歌といっても歌詞はなく、メロディに合わせて口ずさむだけのものだ。曲調も切なく寂しい時に選ぶ歌ではない。だが少女にとっては特別な歌だ。大好きな幼馴染が好きな歌だから。そう思うと歌うだけで心が安らぐ。
けれど曲名はわからない。幼馴染も知らないらしい。一緒に調べようと言ったら無駄だと言われた。
「だって俺と君以外、知る人はいないから」
不可解な理由に少女が困惑すると、幼馴染は今のは忘れてと寂し気に笑った。二人の秘密の歌にしたかったのだとそう言って。
当時は『二人の秘密』というワードに少女はときめき、疑念など吹っ飛んでしまったが、今思えば自作でもないのに誰も知らないなど妙な話だ。
──などと考えていたら、誰かが少女の声に重ねて歌い始めた。少女と同じ高く澄んだ声だ。少女は驚いて声を止めたが、相手は止まらず先を歌い続ける。少女と幼馴染以外知らないはずなのに。
──あぁそっか。夢だから。
ちょっとした疑問も全て夢だからという理由で片付いてしまう。だが誰が歌っているのか? 少女は知りたくなり、引き込まれるように足が動いて行った。
「誰?」
それは少女が言ったのか、歌声の主が言ったのかはわからなかった。互いが存在を認めた瞬間、意図されたかのように、雲海がすっとひいていく。あらわとなった日の光に少女は目が眩んだ。
「よかった。『あなた』に会えて」
光の先で誰かが少女に微笑み、そう言った。ぼやけた視界がはっきりした時、少女は自身が見たものに息をのんだ。
──うそでしょ?
少女が戸惑うのも無理はない。微笑みかけた少女は少女と同じ顔だったからだ。蘭をあしらった綺麗な飾り、平安時代のお姫様のような服、品のある仕草──と、全てが同一ではないが、声と顔は同じだ。それも似ているというレベルではない。違う服を着た自分を鏡で見るといった感覚に近いだろうか。
「驚かせてごめんなさい。どうしても『あなた』の力をお借りしたくて……」
──あたしの?
何故自分なのだろう? と少女は思う。少女はこれといって特技はない。頭脳は平凡、得意の運動だってクラスでは良い方といった程度だ。頼む相手を間違えていないか? とさえ思う。
「ふふっ、頭脳が平凡でも問題ないわ」
──え? あたしの思ってる事がなんでわかったの?
「当然よ。だって『あなた』は『私』だもの」
──じゃあ、突然頼まれても困るってあたしの気持ちもわかるよね?
「そうね。でも『私』は砕けてしまって。『あなた』以外、頼める人がいないの」
今にも泣きそうな顔でお願いされ、少女は戸惑った。砕けるなど意味が分からないが、自分と同じ顔が悲しむ姿というのは、気分のよいものではない。
──ちょっと泣かないでよ!! わかった・・・困ってるなら助けるわ。ただしあたしが『できる事』だけよ?
「まぁ!! さすが『あなた』ね。ここで無理って断らないところが」
さっきまで泣きそうだった少女がクスクスと笑いだす。
──何? この騙された感。まぁ、いいわ、どうせ夢だし。
「そうね、ここは夢だわ。でも『あなた』にとっては現世でもある」
──え? 現世? なに言ってんの?
「ふふっ、深く考える必要はないわ。夢でも現世でも『あなた』は『あなた』。『あなた』はただ、心のままあればいい。そうすればきっと……」
──意味がわかんない。
「それじゃあ、お願いするわね、花梨」
少女は満足したのか、うんうんと頷くとすーと姿を消していく。
──え? 結局お願いってなんなの? そこは夢でもちゃんと説明しなさいよー!
『ピピピ!!! ピピピ!!!』
花梨の叫び声に同調するかのように、ピピピピっとけたたましい音が鳴り響く───。
■■■
──!!
花梨はガバリと跳ね起きると、激しい頭痛と倦怠感に襲われた。誰かに何か頼まれた気がするが、思い出せない。それよりも大切な事を忘れているような……と、花梨は首を傾げた。
「しまった!! 今日は古典のテストがあるんだった!!」
どういうわけか勉強もせず、ベッドですやすや寝てたらしい。足掻きたくとも時すでに遅し。今すぐ家を出ないと間に合わない時間だ。勉強以前に、テストを受けなければ意味がない。
「さいあく。勉強しても古典は追試ばっかなのになんで寝たのよ、あたし!! まぁいいわ、追試になったら大輔に……!!って、だめだめっ」
花梨は首を横にふる。
──好きな人にこれ以上『アホな子』だと思われていいの? でも、でもっ!!!
「留年したら兄さんに殺されるぅ~~!! それだけは阻止しないと!! ってぇぇ遅刻しそうなんだったぁぁぁ!!」
追試や留年で花梨は頭がいっぱいだ。
だから夢の事などすっかり忘れていた。