第8話 絶望の病室
翌日の夕方。俺は電車とバスを一時間程乗り継いで、A大学病院の8階にいた。郊外の広大な敷地に、何棟もの病棟を抱えるこの地方の中核病院だ。
灯理は毎日通っているので慣れた様子だったが、俺は初めて訪れる大病院だった。一階のラウンジを通りエレベーターで8Fまで上がる。8階は脳神経外科専用の入院病棟である。目の届くところにスタッフステーションがあり、多くの看護師がパソコンのモニターを睨んで、忙しそうに働いていた。昔のようにナースキャップに白衣と云う出で立ちではなく、紺や水色やピンクなど、役割により様々な服装になっているようだ。そもそも三割ぐらいが男性看護師だ。
俺は受付で『面会人』と書かれた札を首から掛けさせられたが、これが何とも間抜けっぽい感じだった。多分不審者が病棟に紛れ込むのを防止するためなんだうが、はっきり云って役に立つとは思えなかった。
灯理が851と書かれた病室の扉を開けた。中は個室になっており、狭いながらも家具やテーブル、椅子、TV、小さな冷蔵庫などが置かれていた。中央には大きな電動ベッドが設置されており、真一先輩が横たわっていた。断続的に独特の機械音が聞こえていた。寝たきりの患者に血栓が出来るのを防止する専用の装置だそうだ。
「お兄ちゃん、小杉君がお見舞いに来てくれたよ」
灯理が声を掛けると、真一先輩の頭が動いた。…いや、頭しか動かせないと云った方が正しいか。
「雄太か…。お前も俺を笑いに来たのか」
久しぶりに聞いた真一先輩の声は弱々しかった。先輩が大学に上がってからは会ってないが、高校野球に純粋に打ち込んでいた頃の、あのキラキラ輝きは欠片もなかった。
「随分やさぐれてますね。俺はただお見舞いに来ただけですよ。退院したら車椅子で出歩かなきゃいけないんですから、もっと前向きに考えないと」
「うるさいな。お前に何がわかるって云うんだ。こんな身体になっちまって、俺の地獄のような苦しみは、他人にはわかりゃしないんだ」
頸椎損傷と云う絶望的な状況に陥って、心が折れてしまったのだろう。思考が完全にマイナス方向に振れてしまっていた。
「お兄ちゃん。せっかくお見舞いに来てくれた小杉君に何てこと云うの。ごめんね、小杉君…」
「うるさい、うるさい、うるさい! だいたいからお前がこんな奴連れて来るから悪いんだ! 俺は静かに、独りでいたいんだ!」
堪らず灯理が割って入ると、真一先輩を余計意固地にさせてしまったようだ。真一先輩はぷいと反対側を向くと、何も喋らなくなってしまった。
「ごめん、灯理。ちょっと先輩と二人きりにしてくれるか?…」
俺が灯理に頼むと、彼女は黙って頷き、病室の外へ出て行った。
「恰好悪いな、真一先輩。一緒に少年野球をしていた頃の先輩はあんなに恰好良かったのに…。灯理やおばさんに当たり散らしてるんだろ?」
真一先輩の頭がびくんと震えた。
「灯理が告げ口したのか?」
「これでも付き合い長いんだ。云われなくたって分かるさ。灯理はクラスメートだからね。毎日泣き腫らして目の下に隈を作っているのを見れば、分かるに決まってるだろ」
「俺だって分かってるんだ。お袋や妹に当たったってどうしようもないってことぐらい…。でも心に殿のように溜まってゆく黒いものを、少しでも吐き出さないと気が狂っちまいそうになるんだ」
先輩の声は何時しか涙声に変わっていた。
「首から下の感覚がまったくないんだぜ? まるで俺の身体なんて、始めっから何もなかった気になってくる。指一本動かせない。ショートとしてグラウンドを走り回った、俺の身体はいったい何処に行っちまったんだ!?」
惨めな先輩の姿を目にして、俺の心も挫けそうになった。だが俺は先輩を慰めるためにここに来たわけじゃない。俺は心を鬼にして言葉を繋げた。
「先輩…。ここで俺と約束して貰えませんか? どんなに心が折れそうになっても、灯理に二度と当たらないと。灯理を二度と泣かさないでください」
「まっ、まさか…。お前、灯理のことが好きなのか?」
先輩の口調が、急に戸惑ったようなものに変わった。
「そんなわけないでしょう…。灯理はただのクラスメートですよ。先輩、知ってますか? 少年野球の頃の仲間たちは、みんな一度は灯理に告白したことがあるんですよ。でも直ぐに彼女が重度のブラコンだってことがわかって、泣く泣く諦めてたってことを」
「なっ! 許さんぞ!! 灯理と交際なんか、絶対に認めないからな!」
そしてみんな真一先輩が重度のシスコンだってことも知ってましたよ。
「だからこれは灯理を泣かせた先輩への罰です」
俺はドラッグストアで買って来たプラスチック製の『吸い飲み』を取り出すと、カイルの収納から新しくせしめた回復薬をトポトポと注いだ。吸い飲みは透明な素材なんで、外からでも毒々しい緑色がはっきり見えた。
「飲んで貰いますよ、罰ゲームの『青汁』。灯理を泣かせる度、何度でも飲ませに来ますからね」
「おいっ! 冗談だろ!? 俺は病人だぞ!、おいこらっ、や、やめっ…」
その後、真一先輩の悲鳴が病棟中に響き渡ったことは云うまでもない。看護師が来る前に俺が病室から逃げ出すと、扉の脇に灯理が張り付いていて、気不味い表情を浮かべていた。
病院への通院や体調不良などにより、時間が取れなくて投稿出来ない場合があるのでご容赦願います。
ちなみに今回の病棟の描写は、最前まで入院していた大学病院を参考にしています。脳神経外科じゃないですけどね。(^^;




