第8話 白い自転車
私は時々1982年~3年に思いをはせる。あの時期、もしかしたら人生で一番輝いていたのかもしれない。学校と自分、先生と自分、友人と自分、そして数々の悪友との背伸びをした遊びと、スポーツへの熱中、プラモデル、初めての彼女、交換日記、別れ、新しい出会い。毎日が『特別な日』だった。自転車を盗んだのは、溜まり場になっていた悪友のマンションに止めてあった白い、少しくたびれた自転車だった。鍵はいつも挿しっぱなしだった。自転車で来たときはいつもその自転車の隣に止めていたが、ある日自転車がパンクをしてしまい、修理に出すのを面倒がっていたときに、ふと、ちょっと借りるつもりでその自転車に乗ってしまった。ここへはしょっちゅう遊びに来ているし、次に来たときに、持ち主が気づけば、鍵をちゃんとかけるだろう。
自分勝手な考えだとわかっていても、世の中はもっと理不尽で自分勝手だということをなんとなく、肌で感じていた。そう感じてしまうことを他人のせいにしたまま「自分はこれくらいは許されるだろう」と世の中を甘く見たり「許されなければ、それはきっと、あっという間に警察に引き止められて、捕まってしまうだろう」と運試しを楽しんでみたりしていた。みんな好き勝手にやっている。
それなら自分はどこまで許されるのか?
世の中の仕組み、境界線を少しだけはみ出してみたい
2度ほど警察に止められたが、2回とも事なきを得た。盗難届けが出ていなかったのだろう。でも、やがてその日は訪れた。3回目に呼び止められたとき、警察無線に聞きなれない言葉が流れた。そして親が呼ばれ、私は指紋を採取された。
「フンッ! なんで、また、こんなことを思い出すかな」
その日を境に私の人生は輝きを失った。当時付き合っていた彼女とは、彼女の信仰している宗教のことや、いくつかの心のすれ違いの末に別れ、進学した高校で、彼女が自分のよく知る友人と付き合っていると聞いたとき、私は恋愛に臆病になり、暗い高校時代をすごした。それでもきっと、クラスの誰よりも暗かったわけではないし、その頃の友人とは今でも年賀状のやり取りくらいはある。だが、結局思い出すのは、1982年と3年のことばかりだ。
「この歳で自転車なんか盗んだら、シャレにならないだろう」
ふと、気が付くと、やけに人通りのない通りを歩いているのに気が付いた。ちょうど高架線の下になるのだが、一緒に歩いていると思っていたほかの同じ境遇の路頭に迷う人たちはどこかで道を曲がったらしい、いや、自分が曲がってしまったのか。
「まったく、変なことを考えながら歩くから……」
人通りのない道に白い、少し使い古した自転車が置いてあった。鍵はかかっていない。これはなにかの嫌がらせなのか。あの時とは違う、あのときの自分とは……そう思いながらも、私は自然と自転車の方に向かって歩き始めた。それを引き寄せられるようにといえば、そうなのかもしれない。思わず手が自転車のハンドルに伸びた瞬間、自分の中である光景が思い浮かんだ。
「ゴメンね、これ、大事なものなんでしょう。私たちもいけなかったのよ、ちゃんと鍵をかけておけばねぇ」
自転車を持ち主の所に返したとき――その持ち主は老夫婦で、ほとんど自転車に乗ることがなかったのだという。私は自転車に何の細工もせず……名前や住所を書き換えたり、消したりせずにそのまま乗り回していたのだが、キーホルダーだけはつけ換えていた。それは友人からも立った地方で開催された博覧会の土産物だった。特に思いいれというものはなかったのだが、使い慣れていた分、愛着はあった。老夫婦は、そのキーホルダーを私に手渡しながら、自分たちが鍵をかけていなかったのも悪いと言ってくれたのである。その笑顔は忘れることができないものだった。自分が挑みたかった社会の境界線とこの老夫婦はまったく関係のないものだった。情けなかった。自分が情けなかった。
私は頭をかきむしり、もと来た道を少し戻ろうと振り返った。
するとそこには一人の老人がじっとこちらを見ている。いや、もしかしたら自分を見ているのではないのかもしれない。自転車の持ち主なのか?老人は一瞬、静かにうなずいたような気がした。私は軽く会釈をしそうになたが、老人のしぐさをもう一度よく観察してみると、それはうなずいているのではなく、少し震えているようだった。こうして私は老人に出会った。
静かなる老人に……