第6話 脱出
『本日、14時46分ごろ、太平洋沖を震源とする。強い地震が観測されました。地震直後に発生した津波により、太平洋沿岸部の地域に大きな被害が出ている模様です。また、福島の第一原発においては……」
46型くらいであろうか、私からはちょうど後ろになる。ノートPCはパソコンラックに壁向きに設置してあるので、画面を見るためには思いっきり振り向かないといけない。すぐに作業を終わらせ、終わりましたと報告する体裁で後ろを振り向くと、テレビの中では信じられない光景が映し出されていた。
「千葉のほうじゃ火災が起きてるみたいよ。有毒ガスの心配があるかもしれないって」
院長夫人は、線が細く、そばに間抜けな顔をした犬がいなければ、きっと一人ではこの部屋に居られないのであろう。一生懸命に毛並みのいい犬の大きな背中を撫でながら、テレビを食い入るように見ていたい。お茶を出すのも忘れて。でもそんなことはどうでもいい。こういう言い方はおかしいかもしれないが、私ですら、テレビの画面に映し出されている事態を、にわかに信じがたいと思っているのだ。人間はある想像力を超えた事態に直面すると、感覚が麻痺するらしい。これから起きるだろう、津波による被害の拡大、火災、流通、経済の混乱、物資不足、通信途絶、身内は、友人、知人の実家は? そんなことをいっぺんに考えたらパニックになるにちがいない。処理が追いつかない場合は人もコンピュータも同じだ。フリーズするしかない。
「きっと家の水槽、えらいことになってますね。物もいろいろ散らかってる」
「どちらからこられてんですか?」
「あ、はい、葛西、江戸川区です、浦安の隣です」
「あら、じゃあ、千葉に近いのね」
「はい、まいりましたね、これは……どうしたら帰れますかね」
「そうね、電車は全部止まっているみたいだし、バスなら渋谷へ行くバスが隣の経堂駅から出てたと思うけど、動いているかしらね」
「あ、でも、渋谷までいければ、何とかなるかもしれません。ありがとうございます、あ、一応作業は終わりましたので、ご確認ください」
ノートパソコンを再起動し、立ち上がった画面――壁紙の犬の顔は実物よりかは少し賢く見えるか――いくつかの見慣れないアプリケーションが起動したあと、例のメッセージ『ライセンスはすでに有効期限が過ぎています。ライセンスの更新の手続きをしてください。コンピュータは危険な状態です』はもう現れなくなった。
「あ、よかたわ~、ありがとうね、あら、ごめんなさい、お茶も入れずに」
「いえ、お構いなく、もう帰らないと、遅くなると、この先どうなるかわかりませんから」
「そうね、じゃあ、気をつけてね」
多少のイヤミをこめたつもりだが、思ったとおり気づかなかったらしい。あるいは気づかないふりをしているのか。
「はい、ありがとうございます。では、これで失礼します。また、なにか不具合がございましたら、こちらの連絡先までお願いします」
心から、そう思うっていうときもあれば、二度と来るか、と思うこともある。この日はどちらだっただろうか、あまりにもいろんなことがあったので思い出すことも出来なくなっている。
隣の駅――経堂までは歩いて15分か20分だろうか。まったく土地勘がない。医院のスタッフに聞いても、線路沿いに歩けばいいとしか、返ってこない。まぁ、そこまでは問題なくいけるだろう。心配なのは本当にバスが動いているかどうかだ。非日常的な出来事の中で、それでも私は冷静さを保ち、自らの行動、判断になんら不安はなかった。こういうときは動かないのが一番だ。だが、ここはあまりにも遠すぎる。少しでも家に近づいたほうがいいだろう。まずは、選択肢を増やすことだ。ここから離れない限り、選択肢は増えないだろう。そして私は出会うことになる。
非日常的な状況の中で、非日常的な存在に……。
第1章『揺れる街』終わり 2章に続く