第3話 回線工事
「こりゃすごいぞ。東北だ、東北。震度6強らしいぞ」
「津波警報が出たけど、もう被害が出ているみたいだ」
「こわいわぁあ、でも良かった、ここに来ていて、わたし、ひとりじゃとてもとても……」
「そうよねぇー、一人で居たら、どうしたらいいか、わからないわねー」
「でも、これじゃ家の中が大変なことになっているかもしれないわ」
「困ったわぁー。携帯繋がらない」
こんなとき、人はまず、自分が無事であることを喜び、更に深刻な事態になる可能性があったことに比べて、よかったと思う。そして、自分よりも大変な目にあっている人のことを聞けば聞くほどその理由なき安心感は更に高まる。今にして思えばとんでもないことだが、人が事態の深刻さ、それも自らの痛みを伴わない深刻さを自分の痛みとして変換して考えられるようになるには時間がかかる。それは想像力という特殊な能力が発揮されて始めてなしえることなのだ。
「はしごかけるから、しっかり抑えておけよー」
「はいー」
どんなときでも、どんなところでもやるべきことはある。遅れてきた業者は、このような状況だからこそ、ここでの仕事を早く終わらせる必要がある。しかし、やはり滑稽に見えてしまうのはいかんともしがたい。回線工事は、もっと簡単なものかと思っていたが、どうやら近くの電信柱に登り、そこから物理的に線を引かなければならないらしい。こんなときに大変だ。余震の心配だってあるだろうに。
「いやね。車の中でもわかったんですよ。もうとても運転できるような状態じゃなかったですよ」
工事業者は2人組み。明らかにひとりがベテランで棟梁の風情があり、もう一人はなんともいやらしい不貞の弟子といった感じをうけた。こういうときには、こういうめぐり合わせなのか……普通じゃない日には尋常じゃない事が続くものなのかもしれない。
棟梁がてきぱきと仕事をこなしていく。不貞の弟子はそれを補佐する。工事中の交通整理やはしごの固定、状況に応じて棟梁が必要な道具をワゴン車から取り出して渡す。そして後片付ける。二人の関係は傍目からも仲が言いようには見えないし、棟梁と弟子という一方的な服従を強いるものでも約すものでもない――強いて言えば店長とベテランアルバイトみたいな関係のようだ。
「ほら、わかります。あれ、点灯してるでしょ。あれね、防犯システム作動しちゃってるの」
不貞な弟子はニヤニヤと笑いながらある人家を指差した。世田谷の一軒家2階建てのしっかりとしたその家の玄関近くに黄色いライトが点滅している。想像するに家の中のものが倒れたり揺れたりしたのをセンサーが感知したのだろう。高価な花瓶やちょっとした著名な画家が書いた絵画とかが床に落ちているのかもしれない。しかし、それを少しもかわいそうだとか、気の毒だと思えないのは、私もこの男も同じようだ。
「ほらほら、こっちは瓦がすごいことになっているよ、あー、あー、ありゃ大変だ」
言葉とは裏腹に不貞な弟子はその家のことを本気で心配しているようには見えない。それは悪意とも違う、強いて言うならば、『いやらしさ』であろうか? この男は回線工事をしながらいろんな住宅を覗き見してきたのではなかろうか? それが楽しくてこの仕事をしているのではなかろうか? たしかに電柱の上から見える景色は、地上の景色と違ってはるかに赤裸々に違いない。そんなものを見せ付けられては、人はこういうふうに『いやらしく』笑うようになるのだろうか?
「おーい、ワイヤーとってくれ」
棟梁は少しばかりイラついているようだ。不貞な弟子との談笑は、棟梁の機嫌を損なうのかもしれない。ここは自粛したほうが懸命だ。私は繋がらないとわかっている携帯を何度かかけてみる。その行為によってこの不毛な会話が終わることだけは期待できそうだ。
「携帯はダメでしょう!この道をいって右に曲がったところの酒屋の前に公衆電話があったから、公衆電話なら通じるかも知れませんよ」
「なるほどですね。じゃ、ちょっと電話かけに行ってきます」
工事はまだまだかかりそうだ。自分の愛想笑いがいやらしくなる前に、あの男から離れたいと思った私は、どうせ無駄だと思いながらも不貞な弟子の提案を受けることにした。