震災から6ヶ月
本作品を書き終えて
とても苦しい道のりだった。俗に3.11と呼ばれるようになったあの日。表現をするものとして、何かをしなければという思いから、この作品を書き始めた。震災直後のブログやその後のブログや本作品の冒頭に記載したとおり、私は外出先で地震にあい、帰宅するまでの長い道のりでいろんなものを見て、いろんなことを聞き、いろんなことを感じ、そして妄想した。
その妄想が頭を離れず、こうした作品として一つの形にすることで、私の中に抱えている問題の一つでも秋決するかと思えば、それは大きな間違いであることに気づかされる。それがこの作品を書き終えたあたと正直な感想だ。
『書き終えた』とは、それは物語の体が、一つの区切りをつけられたに過ぎず、震災から先のいろんな出来事について、やはり、かかずに入られないことは、その都度、つぶやいたり、ブログに掲載したりしているが、なんともどれも、気に食わない。
そのときの判断は正しい。しかし、その判断が明日も正しいとは限らない。
私が非日常が長期化する日々の中でたどり着いた一つの結論でありそのテーマとこの『静かな老人』のテーマはマッチしない。その違和感を引きずりながらの執筆活動は思いのほか私に多くの負担を強いてきた。私はその負担から逃れたい一心で、結局後ろ向きな動機によってこの作品をかきあげたことになる。ある意味とても悔いが残る作品になってしまった。
しかし、私にはそのことこそが、とても大事に思えてならない。
そういうときにしか書けない言葉がそこにある。
そういうときにしか気づかないテーマがそこにある。
この作品は未来を語るものには何ひとつなっていない。すべて終わってしまった過去のことについて書いてあり、将来に向けての展望や復興に向けての明るい未来は何一つ描いていない。当たり前だ。あのとき、あの場所で、そんなことを考えることなどできるはずがない。
私にとってのオールドワイズマンは、かの如く何も語らず、静かにそこに佇む。そして、過去を紐解くヒントを与えてくれる。現在に続く、過去の出来事を見つめなおす機会をあたえ、そこから繋がるべき未来を私等に想像させようとする。そしてそれは必ずしも明るい未来ではない。
大事なことは、このままいったらどうなるかを想像する力と、そうなりたくなければどうすればいいかという創造する力。そして後悔しない勇気の使い方である。後悔しない勇気とは、後悔した人しか理解ができない勇気であり、つまり失敗した事がある人にしかわからない勇気。失敗を認めた人だけが持つことができる洗練された勇気である。そのような洗礼された勇気を伴う創造こそ叡智と呼べるのではないだろうか?
戦後の日本の復興はまさにこの叡智によってなされたのではないだろうかという私は思っている。そしてこれからの復興というものが、そういった叡智によってなされなければ、新たな不幸を生みかねないという思いが、最後までこの作品を書き続ける糧になったのではないだろうか。
ともかく、私は見たのだ。『静かな老人』を。
平成23年11月3日
めけめけ