第29話 勇気の代償
教室は騒然としていた。
「あんたたちやめなさいよ!」
「うるせぇ。女子は黙ってろ!」
「こいつ絶対にゆるさネェ。調子に乗りやがって!」
「竹田君がなにかしたの?」
「知らない。でもなんか余計なこと言ったみたいよ」
「へぇーそうなんだ」
本気で蹴飛ばしたり、殴りかかるようなことは誰もしていなかった。それでも大勢に囲まれて暴力を振るわれる恐怖というのは相当なものだっただろう。しかし、そういうことを想像したことはなかった。あのとき自分がとった行動について論理的に説明することは難しい。もし説明をすればそれは、不合理極まりない。竹田くんのことは好きではなかった。いや、それどころかまともに会話したこともなければ、話したいと思うこともなかった。平たく言えば嫌いだった。嫌いな奴が、大勢に囲まれて危険な目にあっている。竹田君を取り囲んでいる人の中には仲のいい友だちもいた。もし、論理的に説明するなら、彼らが竹田君に暴行を加えることで、友達が後で学校の処罰の対象になり、酷い目にあうかもしれないと、そう思ったからだ。竹田君を守るためではなく、暴行に加わろうとしている友達を止めるために、私は……いや、オレはとっさにあの行動に出たのだ。しかし……
「まわりは、それを理解しなかった……特に大人たちは」
老人の声が聞こえる。これだけ大勢の人に囲まれているにも関わらず、老人の声は実に静かに、そして淀みなく耳に入ってくる。相変わらずオレのしたにうずくまっている。いったい、どんな表情をしているのだろう。さぞかし怯えているのだろう。そう思って、武田君の顔を覗き込もうとするが、どうにも顔が見えない。なぜだか急に腹立たしさがこみ上げてきた。
「オレはお前のせいで、こんな……こんな辛い思いを」
突然ドアが開く音。そして担任の女教師の怒号。
「コラー!やめなさい!何をしてるの!」
静寂と沈黙。やっと終わったのか。こんな茶番……
「さぁ、座りなさい。何も心配はいらない。私たちは学校をよくしたいんだよ。川島君はなにか悩みとかあるかい。学校に対する不満とか……みんな、何が不満なのかね。先生に教えてくれないかな」
そこは校長室。校長と担任がソファに腰掛けている。オレはなんとも不快な思いを胸に秘めながらも、促されたように対面のソファにすわり、この応えようのない質問にどう答えるか。どうかわすか。どうやったらここから早く出れるかだけを考えていた。
「別に、僕には不満とかそういうのは……」
「いいんだよ。なんでも相談にのるから。だからこれからも学校のためにいろいろと協力して欲しいんだ」
「協力……ですか」
「そう。川島君はとても『勇気』がある生徒だ。先生はとても誇りに思っているんだよ」
(『勇気』って何ですか? 先生! 教頭先生の言う『勇気』って何ですか?)
たった一つの出来事で、オレの環境はすっかり変わってしまった。大人たちからはヒーロー扱いされ、仲間内からはいい格好をしただけだと、逆にいじめられる始末。その関係を修復するためにも、オレは証明をしなければならなかった。オレもみんなと同じ大人に不満を持った一人の中学生なんだって。
「だから……」
「ふたたび、罪悪感を押し殺し、自転車を盗んだわけか」
「そう。でも罪悪感はこれっぽっちも感じなかった。あの時とは違ったんだ。だって、オレが望んだことだったんだから。盗むのが目的じゃない。仲間が欲しかった。認めて欲しかった。ただ、それだけだったのに……」
目の前に警官が一人座っている。ここはそう。自転車を盗んだ事がばれた交番だ。
「じゃあ、ご両親に連絡を入れるから、いいね」
「はい」
「最近の中学生は平気で人のものを盗む。まったく困ったものだ。親の顔がみてみたいわ」
もうひとり警察官がいる。パイプ椅子に座るオレの横で、いぶかしげにこちらを睨んでいる。どうやら目の前に座っている若い警官の上司のようだ。
「ちゃんとお子さんを監視しないとだめですよ。お父さん!」
「この子は、大丈夫ですから。何も心配は要りません」
父が、父がいつの間にか横に座っている。その言葉に思わず涙がこぼれる。
「うちの子にかぎってってやつですか?そんなことだから」
「もう結構ですから。あとは家で、ちゃんと言って聞かせますから、今日はこれで失礼します」
中学に入学した頃から、父親とも母親ともあまり会話をしていなかった。小さい頃は毎日のように父親に怒鳴られ、殴られ、それなりのしつけは受けてきた。ある時点から父親はオレに何も言わなくなった。それをいい事に、好き勝手にしていたが、それでも親に直接心配をかけるようなことはそれまでなかった。今回、よほどこっぴどく怒られるかと覚悟していたのに……
「盗んだ持ち主の所に謝りに行くぞ。それでこの件は終わりだ。いいな」
涙を浮かべながら『ごめんなさい』と謝るしかなかった。涙で曇った世界は、再びでたらめにまどろみ始めた。暗闇にまた一匹の蝶が現れ、私の前をヒラヒラと舞い始める。次はどこに連れていくというのだ。もう私には何もない。これが今のわたしの全てだ。私という人間は、こうして作られたのだ!
「まだまだじゃ。まだまだこれからじゃよ」
老人の声。
「どれ、最後にもう一つ、見せてやろう」
その声とともに蝶が私の周りをぐるぐると円を描いて回りだした。不意に身体全体に悪寒が走る――目眩、私は体のバランスを失い、思わずよろけてしまった。耳鳴りがする。炭酸水がシューと激しくあわ立つような音がする。一瞬上下左右の感覚が失われ、宙に浮くような気持ちの悪い浮遊感が私を襲う。
「大丈夫ですか?」
不意に男の声が背後でした。私は意識を取り戻した。そう、何者かにとらわれていた意識を自らの身体に取り戻したのだ。
「大丈夫ですか?気分でもわるいんかいな?」
関西弁?なんでこんところで関西弁が……