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静かなる老人  作者: めけめけ
第5章 静かなる老人
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第28話 心の旅

 蝶はまっすぐに、そしてゆっくりと宙を舞い、私はその後を静かについていった。蝶の前方の景色に違和感を感じ始めたのは、感覚的にはすぐであったが、もしかしたら数分は経っていたのかも知れない。それほどに時間の感覚があやふやででたらめに感じていた。


「この景色は、品川には違いないけど、これって昔の……小学生の頃の風景じゃないか!」

 夜なのか昼なのか。或いは朝なのか夕方なのかはっきりしないほどまどろんだ空間に、見覚えのある建物がひっそりと並んでいる。ガラス張りの扉の入り口。店の中央にレコードの棚、壁両面には懐かしいLPレコードが所狭しと陳列してある。あのレコード屋で最初に買ったのは……確かアリスの武道館ライブ。2枚組で私が好きな曲がたくさん収録されていた。あれは確か、誕生日のプレゼントに買ってもらったものだったか。レコード屋の向こう側の本屋。入り口に雑誌が並んでいる。私は本を読んだりマンガを読んだりするのは好きではなかったから、友だちと本屋に行こうと誘われても、あまり気が進まなかった。立ち読みするにも、何を読んでいいのかわからず、暇を持て余し……そうだ。それでSF映画やホラー映画の特集した本を見つけたんだった。


 本屋を過ぎると和菓子屋と普通の民家が並んでいた。「そうか……そういえばそうだった」そして蝶はその隣の駄菓子屋へと入っていった。とたんに私の中にどうしようもないほどの罪悪感がこみ上げてくる。「なんだ。一体なんだっていうんだ。この感覚は……まるであのときの」


 蝶の後を追って私は駄菓子屋の入り口の前に立ち、自分の胸の右手で押さえていた。それは具体性を伴う心臓をちくちくと針を刺すような痛みと心の無防備な部分を突き刺すような感覚の両方で、どちらかといえば、後者のほうが激しかった。店の中を覗くと、そこには『懐かしい』という言葉でしか言い表せないのがもどかしく感じるほどの『古く』、『色あせた』、『可愛らしく』、『かっこよく』心の奥の深いところをくすぐる、こそばゆい感覚をともなう光景が広がっていた。


 ズキン!


 だけで、そのこそばゆい感覚はすぐに激しい痛みにかき消された。


 ズキン!ズキン!


「何もかも昔のままだ。それにこの場面はあのときの……」

 そこには3人の子供がいた。一人は半ズボンに白いシャツ。一人はオーバーオールに野球帽。そしてもう一人は……水色のシャツにジーパン姿の小学生、あれは、あれはあの頃の私、あの頃のボクではないか!


「なぁ、大丈夫かな」

「平気だよ。みんなも絶対にバレないっていってたよ」

「でもさぁ。やっぱり……やだよ」

「根性なし!そんなんじゃ、みんなに馬鹿にされるよ」

「なんでもいいから、ホラ、早く。じゃないと本当に見つかっちまうぞ」


 そう。あのとき、学校の裏の神社で他の学校の奴と知り合って、それで変な自慢話になって、こんなこと――肝試しをする話になったんだった。どっちが勇気があるかなんて、そんなことで。


 そんなことで……計れやしない


「お前、やらなかったら仲間にいれてやんないからな」

「わかったよ」


 ボクは煙幕花火と呼ばれる小さな爆弾の形をした花火を二つ手に取り、それをポケットに入れようとしていた。

「やめろ。その手を離すんだ!一生後悔するぞ。この胸の痛みを一生背負うことになるぞ!」

 私はボクに声をかけたがその声はまったく聞こえていないようだ。ボクはしばらく手をポケットの中にいれ、ついにそのまま何も握らずにポケットから手を出した。ポケットには小さなふくらみが二つ。


 ズキン!ズキン!ズキン!

 勇気の量なんて


「行こう」

 一人の少年が声をかける。ボクはうなずき、そして一目散に店から飛び出す。私のすぐ横を走り去るその表情は苦悶に満ちていた。

「嫌なら、なぜやめない!」

 私はあまりの胸の痛みに思わず嗚咽を漏らした。

「こんなこと、こんなこと、今更……いったい何のつもりだ!」


 走り去るボクと少年二人の後姿はあっという間に闇に吸い込まれてしまい見えなくなってしまった。そうだ。こんなことすっかり忘れていた。今の今まで、あの老人と昔話をするまでは……


「痛みを伴う記憶は、時に忘れ去られる。忘れてはならないからこそ痛みを伴っていたものを、それでも人はそれを忘れる。しかし、こうして思い出すこともある。忘れる必要があるから忘れ、思い出す必要があるから思い出す。それだけのことじゃ」


 その声のする方向に目を向けるが、そこには一匹の蝶がヒラヒラと宙を舞っているだけだった。

「忘れてはいけなかった。忘れてはいけなかったんだ」

「でも忘れてなかった。こうして思い出したのだから、忘れてはいなかったのじゃ」

「そうなんでしょか。ボクは……私は……」


 そう、してはならないとわかっていても、私はその後、中学生になってから自転車を盗んだのだ。自転車を盗んだときの私は、すっかりその罪悪感を忘れていた。そう、忘れていたということを、今思い出した。私は膝から崩れ落ち、両手を地面について、そして駄菓子屋に向かって頭を下げた。

「ごめんなさい。ボクは、ボクには勇気がなかった。そして同じ過ちを……」


「人の心はそれほどに単純なものではない。それに勇気がなかったのではない。勇気の出し方がわからなかっただけじゃよ。どれ、次はそなたの勇気を見ようではないか」

 次の瞬間、私が崩れ落ちたアスファルトは、グレイの合成樹脂のフローリングに変わった。

「これは……まるで教室の床」

 次の瞬間、肩や背中や腰に痛みが走る。人の気配。それも大勢。視野が少しずつ広がる。足……たくさんの上履き、これは中学のときの上履き。赤色……そう僕らの学年は赤色の上履きだった。

「どけよ!川島!じゃますんなよ!」

 怒号が聞こえる。

「なんでそんなやつをかばうんだよ!」

 そんなやつ……いったい誰のことだ。いや、わかる。

「おい!竹田なんかどうでもいいだろう!」

 竹田……竹田君。次の瞬間私と床の間に頭を抱え小さく丸まった竹田君の姿が現れた。


 なんてことだ!今度はあの場面なのか!



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