表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かなる老人  作者: めけめけ
第5章 静かなる老人
28/35

第27話 私とボクと老人と

 品川の実家を出たのは27か28のとき。その数年後に結婚し、子供を二人授かった。何かの理由をつけて孫の顔を見に来る両親も、最近では父の足の具合が悪く家からあまり外に出ていないようだ。私も子供の成長と共に親の都合だけで実家にはいけなくなていたから、ここ数年は何回か――夏休みと正月くらいしか品川の実家には帰っていない。しかし、思えば家族を置いて品川に一人で帰るのは何年ぶりだろうか。そう思うと急に懐かしさがこみ上げてくる。


 旧東海道は、北品川、新馬場、青物横丁と京浜急行線に平行して立ち並ぶ昔ながらの商店街になっており、今でも昭和やそれ以前の面影を残す建物や史跡が観光としても人気のスポットになっている。私にとっては少年時代にはいたずらの思い出、中学生の時には喧嘩や恋愛、高校生の時には早く抜け出したいふるい町。そして今は懐かしい町であり、私の記憶の一部である。そう、これは私の記憶の一部なのだ。だからなのか。私は無性に誰かに昔話をしたくて仕方がなくなった。そしてその話を聞いてくれるのはあの老人――静かなる老人しかいないのだ。


「私の両親は函館出身で、私が3歳のときに上京したんです。品川に落ち着いたのは5歳の頃で、以来20年くらいこの街に住んでいました。あー、そう、私、自己紹介してなかったですね。川島といいます。」

 老人が名乗るだけの十分な間をあけて私は更に話し続けた。老人が自ら名乗ることはないとわかっていても、そういうことは、身に付いた私の会話のリズムである。


「函館は確かに生まれ故郷なんですが、それほど思い出があるわけではありません。それに比べてこの町は20年も住んでいましたから、やはり特別な場所なんでしょうね。こうして歩いていると、いろんなことを思い出します。知ってますか? このあたりは結構古い神社とかあって、お祭りも結構盛大なんですよ。でも、私は神輿を担いだり、そういうかかわり方はできなかったんです。そういうのって、最初が肝心で、そこにすぐに溶け込めなかったんですね」

 老人が会話に入り込む間を十分に取りながら、そして老人がどんな話に関心があるのかを探りながら話をしていたが、だんだん、そういうことはどうでもよくなり、私は無邪気にべらべらと話しを続けた。


「悪いこともしました。小学生のあれは、3年生か4年生の頃だと思います。老夫婦がやっている駄菓子屋が……えーっと、ここをもう少し先に行ったところを右に曲がって、えーっと、確かレコード屋があって、本屋があって、その2軒か3軒隣だったかな。もう、その店は今はもうないんですけどね。で、そこで友だち数人と万引きをしようってことになって、私は一つ10円の花火を二つ万引きしたんです。なんの苦労もなくできちゃったんです。で、それが、いやでいやでね。ものすごい罪悪感があって、それ以来、私は一度もそういうことはしませんでした。しないというか、できなかったんですね」


 老人はうなずきもしなければ、こちらを見もしなかった。それでもなぜか、ちゃんと話を聞いてくれているという感覚が確かに私にはあった。私は子供の頃にしでかした数々の失敗談や、どんなことに興味があり、どういうものを恐れていたのか。そんな話を、まるで子供が親に「ねぇねぇ聞いて」と今日学校であった出来事を報告するような口調で話し続けた。


「だいたい遊び場所にはよく、怖いおじさんやおばさんが時々来て、ボクらが悪さをするとこっぴどく叱るんです。今はもうそういうことはこのあたりでも少ないのでしょうが、あれはあれでシツケとか道徳とか、地域が教育の一部分をきちんと担っていたのかもしれませんね。友達同士の殴り合いの喧嘩だって、遠目から限度を越えないように……そう、まるでレフリーやらドクターがついてる試合のようなものでしたからね。こう見えてボクは警察に補導されたこと、何度かあるんですよ」


 話をしているうちに、いつの間にか『私』から『ボク』に変わってしまった。そう、私はどこかの時点から意識して『私』と自分のことを言わなければ、思わず『ボク』と言いそうになっていたのだ。しかし、一度『ボク』と声に出してしまってからは、もう、抗うことの無意味さを思い知らされていた。そう、今『私』は『ボク』になって老人と話しているのだ。今はそれでいいじゃないか。


「パラダイムシフトって言葉があるんですけど、えっと、つまり大きな出来事があって、それまでの価値観が変わってしまうっていう体験のことを言うんですが、ボクにとっては小学校から中学に上がった時がまさにそれでした。クラスでちょっとしたいじめ見たいのがありまして……どもりの子で、クラスのみんなとあまりコミュニケーションが上手にとれてなかったんですね。で、あるときちょっとしたもめごとがあって、それをきっかけに大きな騒ぎになっちゃって、クラスの子、ほぼ全員でそのどもりの子……確か竹田君っていったかな。その竹田君を取り囲んであわや集団暴行って、そんな雰囲気になっちゃって。それでボクはこれはマズイって思ってみんなを止めたんです。本当に怖かったんだけど、ボクはそういうことがとても嫌で……」


 不意に老人が立ち止まる。私は意表を疲れて、思わず体のバランスを崩して、変な格好で立ち止まりつつ老人のいる方向に向きを変えた。が、そこにあるべきもの――老人の姿は見えない。驚いてあたりを見渡す。不思議なことに、周りに人がいない。話に夢中になり、周りの景色にあまり気を配っていなかったがゆえか、或いは偶然にそういう状況ができていたのか。いや、それにしてもおかしい。この道に流れてきた人の数は、私が話しに夢中になっている間に全ての人がわき道にそれるなどということは考えられない。


 どうやら私は、再び妄想の世界に迷い込んでしまったらしい。そしてやはり、それは現れた。


 一匹の蝶が、どこからともなく現れた。それは小さく、しかし力強く羽ばたいている。白でもなく、黒でもなく、青のようでもあり、赤のようでもある。その蝶そのものが光っているのか、或いは光が蝶を包んでいるのか、弱弱しく、しかし暖かい光に包まれ、それは夜の街を彷徨う。私の目の前を二度三度と行ったり来たりを繰り返し、私の意識が十分に蝶に向けられたとたんに、蝶は少しずつ私から離れていく。私はどうしようもない不安に陥り、その蝶の後を追うしかなかった。その先に何があるかという不安よりも、蝶を見失う不安のほうが圧倒的で、絶望的に思えたのは、蝶の進む方向以外の風景は、すっかりと闇に閉ざされ、建物の形も道路の行方もすべていい加減になってしまっていたからである。選択肢はなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ