第26話 静止する街
品川駅に立ち寄り、交通機関の復旧状況を確認することも考えたが、遠目からもそれは無駄なことであるとわかるほど、駅前は沈黙していた。もしこの行進に参加していなければ――それは決して望んで列に加わったわけではないが――それでも駅に立ち寄り、何かしらの情報を得ることを試みたのかもしれない。不安を解消するのであれば、それは当然の行動のように思うが、今の私には――私と私の前を歩く老人には必要が無かった。不思議であり、おかしくもあるのだが、この行進の列から離れることにむしろ不安を覚えていたのかもしれない。しかし、私は一つの決断をしていた。
先に進むなら、旧街道を歩こう。
国道15号線通称第一京浜は、旧東海道でもあるが、品川を過ぎたあたり――私鉄京浜急行の北品川駅手前で旧国道とわかれる。そこは昔ながらの商店街になっており、人が歩くのであればこちらのほうが静かでいい。それにそこは私が幼少期から社会人になるまでの間――いわゆる青春時代を過ごした土地でもある。先の道のりを考えれば飲み物や食べ物を調達するにも、圧倒的にこちらのほうがいいと思えた。
「おじいさん、もう少し先に行ったら、向こう側に渡りましょう。旧国道の方が歩きやすいと思うんです」
私は前を歩く老人を追い越すような勢いで前に出て、すぐ横で老人に話しかけた。老人はこちらを見ることもせず、ただ静かに2回ほどうなずき、そしてこうつぶやいた。
「もうすぐじゃ。すぐそこじゃ」
私は一瞬反論しようかと思った。ここから先、老人が行きたいと言った大森周辺までは、JR京浜東北線で二駅ある。歩くとなれば5~6キロの距離だ。バスを降りた地点からの距離ならまだ半分もきていない。タクシーを拾うなりすれば、さほど時間はかからないのだが、それはまず無理だろう。私がそのことを伝えなければと思っている矢先、目の前に信じられない光景が現れた。
国道を反対側に渡ることができる八ツ山橋の信号に差し掛かったあたり、品川から横浜・横須賀・三浦半島へとつなぐ京浜急行が道路をふさぐように停車しているのである。その異様な光景は、今起きている事態の深刻さをより一層印象付けるものであったと同時に、今夜中の復旧など望むべくもないことを知らしめていた。
「なんてことだ。こんなことが……」
暗闇の中、青白い街燈に照らし出された車両は、まるで生命を感じさせないような鉄の塊であった。普段であれば大勢の人々を乗せ、駅から駅へと有機的に社会をつなぐそれは、理屈では無機質な工業装置でしかない。しかし、私たちは日常的にそれに触れることでどこか愛着を感じたり、擬人化したり、ペットのようにかわいがったりして慣れ親しむ。車庫に格納されている電車を見れば眠っているように感じて思わずお疲れ様と言いたくなる。しかし、行く手を阻む走る赤い車両は、まるで廃墟の町に取り残された残骸のように無機質で、どこか人を寄せ付けないような孤高な存在と化していた。
信号が変わり、国道を横断して車両のすぐそばまで寄ってみる。しばし赤い鉄の塊を見上げ、そしてため息をつく。
「これじゃ、大森までは歩いていくしかありませんね」
老人は何も語らない。踏み切りは降りたまま機能せず、時間が止まったというような情緒ある表現よりは、都市の機能が停止した象徴的光景といったほうが適しているように思えた。車両が塞いでいるのは旧東海道入り口の一つ手前。この通りの先には路線バスの車庫があるはずである。影響も大きいだろう。しかし幸い私が先を進むのには支障はなかった。ともかく、それだけでも儲け物と思いたくなるような状況だ。
「さぁ、急ぎましょうか。なんとか今日中にお宅まで送れればいいのですが……」
携帯を開き、時計を見る。すでに11時を回っていた。ふと振り返ると私が今まで加わっていた行進は相変わらず続いている。そこに戻ることもできるが、そうしたいとは思わなかった。もう私には、あの行進に加わる理由が見当たらない。
京浜急行をあとに、少し進むと旧東海道の入り口に差し掛かる。国道沿いの行進が理路整然としていたのに対して、旧国道のそれは、より普段の生活に近い自然な無秩序さがあるように見えた。私は少しだけ安堵した。
「国道をまっすぐ行くよりも、ほら、こっちのほうが静かでいいでしょう」
老人の方を振り向き、私は進むべき道を指差した。老人は静かに佇み、静かにうなずき、静かに微笑み、そして静かに口を開く。
「何も心配はいらん。もう大丈夫じゃ」
そのあと、もう一度同じ言葉を繰り返したのかもしれないし、違うことを言ったのかもしれないが、私の耳で聞き取ることはできなかった。昼間はにぎやかな商店街も、この時間ではどの店もシャッターを下ろしている。いや、にぎやかだというのは思い込みか。最初からシャッターは下ろされたままなのかもしれない。当たり前の静けさが当たり前に思えず、すべてが変わってしまったように思えるのは、この数時間で自分の価値観に大きな変化があったからなのだろうか。あるいはそういう気分になっているだけなのか。
1メートル以内に必ず他人がいるような窮屈な状況から、ようやく少しだけ自分の呼吸するスペースが与えられた。開放感――何もこの場所が、自分の慣れ親しんだ場所だからというわけではなく、誰かを気にしたり、誰かに気にされたりするような位置関係にいることを長時間強いられてきたことからの開放感であることは間違いない。間違いないと思いながらも、やはり、見知った場所というのは、それでけで不必要に安心感を与えるものらしい。私は特にそういうことを意識をしたわけではないが、静かに後を着いてくる老人に自分の身の上話をしたくなり、そしてそれを我慢しなければならない理由を自分の中にも老人にも見つける事ができなかった。
「おじいさん、私は実はこのあたりで育ったんです。私が生まれたのは――」
他人に身の上話をしたことなど、結婚してからこの方あまり記憶になかった。そんな気になったのは、一体全体どういうわけなのか? それはきっと話し終わった時に答えがわかるようなそんな気がしてならなかった。