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静かなる老人  作者: めけめけ
第4章 行進
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第23話 坂道

 相変わらず道は混んでいる。バスは思ったようには進んでいないが、これまでの状況からすれば劇的に早く進むようになった。はたしてここからは、どの道JR線の復旧はないのだから、大森蒲田方面に向けての交通機関となれば京浜急行の一択しかない。しかし、およそ京浜急行が復旧しているとは思えない。そうなるとバスやタクシーということになるが、それもこの時間では難しいだろう。時計はすでに10時を回っていた。


「次は、魚藍坂下 魚藍坂下に止まります」

 バスのアナウンスが聞こえる。私が押すよりも早く他の誰かが停止ブザーを押したようだ。

「次 止ります 走行中は危険ですので バスが停車するまで 座席に座るか つり革にしっかり捕まってください」

 機械的なアナウンスは、何か突っ込みたくなるが、笑う気にも怒る気にもなれず、ただ、心の中で苦笑するしかない。それでも、そういう心の余裕が持てたことは喜ぶべきだろう。


 バスの車内からめる風景。たぶんこのあたりはこんな時簡にこれほどの人通りがあるところではないのだろう。どこからかはわからないが、歩道を急ぎ足で歩くサラリーマンやOLの姿が目立つ。ときどき観光客らしき外国人……おそらくは欧米から来ている富裕層の家族連れが目に入る。とんでもない体験をして、さぞかし不安なことだろう。いくら地震に慣れている日本人でも、流石にこの規模の揺れ体験している者は少ない。だれも彼らの面倒を見る余裕はないだろうと思っているときに、ふと人影がその外国人の手段に近寄っていく。


 それはおよそ日本語以外は話しそうもない中年の女性であった。なにやら一生懸命に地図らしきものを持って、その外国人観光客の家族に一生懸命に説明しているのである。バスは進み、その一団はすぐに物陰で見えなくなってしまったが、そうか。みんなそうやって助け合っているんだと思うと、急にうれしくなってしまった自分にまず、驚いた。


 少し前まで、私は目の前の光景に対して懐疑的で、できるだけ他人に関わらないように心がけていた。無関心を装う――そのような態度や行為は会社勤めを始めた頃には、決して当たり前ではない非常手段的なことだったはずが、今ではすっかり身に染み付いてしまっている。こんなことでもなければ、気がつかなかっただろう。そして私と同じような感覚に襲われている人は、思いのほか多いのかもしれない。


 バスの窓から見える震災に戸惑う街は、まるでサファリパークか、心象のショウウィンドウのようだ。乗客はみな、バスの外の風景を眺めながら、そこに写りこむ自分の姿を見つめて思いにふける。なぜこんなことになってしまったのかと問いかけ、ともかく早く家に帰ろうと自分を納得させるしかない。しかし、ふと、バスの外の世界と中の世界が繋がっていることを思い出す。現実は思いのほかリアルなのだ。


 そろそろかと、窓の外を眺めているとアナウンスが流れる。

「はい、魚藍坂下到着ですー」

 機械的なアナウンスではなく運転手がマイクで案内をする。やはりさっきの案内は、どこか不釣合いである。非常時には非常時のやり方をするべきであろう。

「降りる方がいます。前方と後方の扉を開けますので、ドア付近の方は、お下がりください」


 やっとバスから降りられる。それを開放感というのならそうなのかもしれない。しかし、窮屈で安全な世界から広大でどんな危険が潜むかわからない世界に飛び込むことが、どうして開放感なのかと問われれば、やはり、適切な表現ではないように思える。現にここでバスを降りる人の表情には、ある一定以上の緊張感が漂っていた。しかしそれは、受身の緊張感ではなく、例えるのなら陸上競技のスタートラインに立とうとする選手のそれに近い。日常の中の定型化した決断とは違い、自己の判断に対する責任を伴う選択をしたとき、人はそうでないときよりも潔い。


「さぁ、降りましょう」

 私は老人を促し、老人は素直にそれに従った。老人はブツブツと何かを言っているようなのだが、どうやらそれは、何かに対して文句を言っているのではなく、面白い本でも読んでいるときについつい文章を口ずさんでしまっているような感じに見えた。ステップ台を降りるときに手を差し伸べようとして、私はその手を引っ込めた。どうやらその必要はないらしい。


 どことなく見たことのあるような風景――そうだ。ここは何度か通った事がある。バスの中で地図を見せてもらったのだが、今ひとつ風景と地図が一致しない。私がまわりをきょろきょろと見ていると、一緒に降りた中年の女性が声をかけてくれた。

「こっちよ。第一京浜にでるのは」

 渋谷駅から田町駅に向かうバスは、渋谷から恵比寿、白金高輪駅と通過し、そこから桜田通りを直進して三田・田町方面へと向かう。我々の目的地が品川よりも横浜寄り、大森、蒲田方面であるのなら、一駅ほど戻ってしまうことになる。JRの山手線内の駅の混雑は容易に予想されるし、それであれば、ここから歩いたほうがいい。魚籃坂から伊皿子坂いさらごさかへ抜けて第一京浜国道――国道15号線に出るのは、ほぼ道なりに行けばいい。地図で見た時はそう思ったのだが、やはり歩いたことのない道は不安である。


 声をかけてくれた中年の女性の後をゆっくりと追いながら私は歩いた。老人の歩くペースは大体心得てきた。道すがらに何台か自動販売機を見つけたが、どれも売れ切れになっている。いや、全てが売り切れているわけではない。水やお茶、スポーツドリンクといったドリンクが売り切れていて炭酸飲料は販売している。きっとどこの自動販売機もこんな感じなのだろう。


「のどか沸きませんか? 大丈夫ですか?」

 老人は相変わらず静かに佇んでいる。静かに歩き、静かに拒む。だが、私はどうしても喉が渇いたので、注意深くあたりを見回しながら歩く。どこかで水かお茶があったら買って飲もう。そしたら、もう一度問えばいい。たぶん、きっと老人は、それでも拒むだろう。バス停は魚藍坂を少し通り過ぎた桜田通りにある。道路を行き交うタクシーは、運転手も乗客も不機嫌な顔をしている。そんなことはお構いなしに私たちは先を急ぐ。いや、ゆっくりと整然と歩いて行く。この坂を上り、そして下ったところには、一体どんな風景が待ち構えているというのだろうか? 不安とも期待とも言えない複雑な思いを引きずりながら、私と老人は、坂道を登り始めた。





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