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静かなる老人  作者: めけめけ
第4章 行進
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第22話 生きるための決断

 ひとつの考えの帰結が状況を変えることがあるのだと知ったのは――いや、忘れていたなにかを思い出させてくれたというほうが適切かもしれないが、私にとってどういう意味があったのか。それはわからない。わからないがしかし、なぜそうなったのか。何によってそのことに気づかされたのか。その結論にたどり着いたかは疑う余地はない。


 あの老人、もしもあの老人に出会っていなかったら……


 死――それは肉体的な滅びを意味するものではなく、精神的なものより内面的で脆く、傷つきやすく、デリケートでナイーブ。しかし、ある行動原理――それは真理というべきなのかはわからないが、『生』への執着に目覚めたとき、能動的で闊達、なにものにも屈しないタフさと豪胆さ、さらには内側にとどまらずにあふれ、湧き出す勇気となって恐怖を克服する力になる。そしてそれは自分だけに向けられるものではなく、周りにいるより多くの人々へと伝播するものなのかもしれない。


 人は誰しも、自分はなんなのか? 何のためにこの世に生を受けたのか? 自分はどこから来て、どこへ向かっていくのかを長くも短く、短くも長い人生の中で一度は問いかける。その問いは最初は外側に向けられ、やがて内面へと向かっていく。そこである程度の答えを見つけられるのかどうか――それは人それぞれだろう。


 答えなどないということがわかる。


 そこに帰結し、考えること、そこに固執することの無意味さを悟り、今をどう生きるかが問題だと気づくことができれば、その後の人生は至極前向きなものになるに違いない。しかし人の心は過去からの連続した魂であると同時に、その膨大な量の経験の情報――すなわち生きるためにしてきたことのログを振り返ってばかりもいられない。そしていつしか人は忘れてしまうのだ。かつて自分が問いかけて得られなかった答え――求め続ける限り、永遠に見つからない答えは、求めることを忘れた時点でひどく陳腐なものに変転してしまう。心は錆びたり、腐ることもあるのだ。


 達観は傍観になり、無関心は人を残酷にする。そしてその痛みを忘れるために、自分の姿を映す鏡から目をそむける。自分の足音に耳をふさいでしまう。そうでなければ耐え切れないような『しがらみ』や『まやかし』や『目論見』、『でたらめ』や『偏見』。それを誘惑というのなら、あまりにも魅力的で狡猾で愚鈍である。それをさがというのは簡単だが、他人に向ける目と、自分の内面に向ける目とでは、自ずと図る基準が違ってくる。人はそれほど自分を悪人だと割り切れないし、逆に他人を善人だとも信じられない。


 しかしこのような状況――後で知るところの東日本大震災のすさまじい有様の前に、人は『変わらず』にはいられないし、『変わらなければ』ならない。スイッチは入れられたのだ。あとは自分で制御するしかない。私は周りの人に声をかけた。

「すいません。品川から大森・蒲田方面に行きたいんですが、田町に行くよりもどこか途中で降りたほうが近い気がするんですが、どなたかわかりませんか?」

 一瞬の沈黙の後、小柄な一人の中年女性が応えてくれた。

「そうね。私も考えてたんだけど、白金台あたりで降りたほうがいいかもって……」

「それなら魚藍坂ぎょらんざかがいいですよ」

 サラリーマン風の若い男がスマートフォンをいじりながら、つぶやいた。


「あ、すいません。それ、そのスマートフォンで、そのあたりの地図みれますか?」

「あ、ちょっと待っててくださいね――ほら、こんな感じ」

 私の起こした行動は、すぐさま回りに伝播した。互いに持っている情報、知識、考えを交換し合い、今一番何をすればいいのかとう問題を共有した。

「すいません。自分で調べればいいのですが、あいにく携帯のバッテリーが上がりかけていて」

「それなら、ほら、これを使ってください。僕はスマフォと携帯両方持ってますから、これは多分使わないで済みそうなんで」

 スマートフォンを持っている男は、ポケットから携帯電話とそれに繋がっている乾電池式の携帯用バッテリーを取り出し、携帯からコードを抜いて私に差し出した。

「あ、いいんですか? 私は助かりますが、これをお借りしても、返す手立てが……」

「いいですよ。お気遣いなく。僕が持っていても、役に立ちませんから。使ってください。そんなに電池は残ってないかもしれませんよ。うまいことコンビニで乾電池が買えればいいんですが……」

「この状況じゃ、ちょっと難しいかもしれませんね。ありがとうございます。お言葉に甘えて、お借りします」

「どうぞ」


 なんとも不思議な気分だった。私の妄想の中で、彼は私に酷い罵声を浴びせながら、最後は砂のように砕け散ってしまった。しかし、彼は、こうして私に手を差し伸べてくれた。紙一重の違いなのか、或いは全く別世界の出来事なのか。私にはわからない。わからないが、そういう二面性を彼も、そして私も持っているのだということは否定できない気がした。いずれにしても、これで決心がついた。


「よし、魚藍坂で降りるか」

「わたしも一緒におります」

「あのー、すいません。連れが席に座っていると思うんですが、ちょっと通してもらっていいですか?」

 私は無理を言って、座席の最後尾のあたりから少し前へと移動をさせてもらった。私がいると思い込んでいるその場所に、当たり前のように老人の姿があった。私は特に期待をせず、不安にも思っていなかったが、やはり、老人の姿をみたとき私の顔の表情は確かに少し緩んだ。


「おじいさん。魚藍坂というバス停で降りましょう。どうやらそのほうが近いみたいですし、歩く距離も結果的には短くなると思うのですが……」

「あ……あ……あ……」

 全く持って聞き取れなかったが、それでも私は老人が快諾をしてくれたのだと受け取った。こうして私たちは、バスを降りることに決めた。それはバスを乗るときよりもよりはっきりとした明白な意思としての決断であり、今日始めて私がした『生きるための決断』であった。



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