第20話 胡蝶の夢
私は必死で探した。私の半径1メートル以内に8人以上いる。みんなで私を取り囲み、罵声を浴びせる。最初の何人かの言葉は理解したが、数があまりにも多すぎて私の耳からあふれ出てしまっている。聞こえすぎて、何も聞こえない。それでも私は探した。探すことを止めなかった。
あの老人はいったいどこに……どこにいる? いや、どこに行ってしまった?
「ちょっと、あんた人の話し聞いているの! そんなことだから――」
「お前みたいなヤツがいるから、世の中おかしくなるんだ」
「自分だけ助かろうなんて――」
知らない。わからない。私じゃない。それは私じゃない。私は私だ。でも、今こうして狂ったバスの中で罵声を浴びせかけられているのは、私じゃない。
私じゃない。
必死に思うこともなければ、悲壮になることもない。それよりも何よりも――老人を探さなければ!
私を激しく問い詰め、非難するOL風の女性――髪の毛を後ろで結わき、化粧も服装もおとなしめなのに爪だけは、なにか変な模様がついている。ネイルアートとかいうやつか。付け爪というのは、着脱可能なのか――その背後にちらりとそれは見えたように見えた。彼女の結わいた髪の毛が揺れて見えた隙間に老人が見えたような気がした。
「おい、そこをどいてくれ。私は老人を――」
「な、なにをするの! 乱暴はやめて!」
「こ、こいつ、逃げる気か! 一人で」
「違う、違うんだ! 聞いてくれ! 本当に私には連れが――老人が、老人を送らないと。老人の望むところまで――」
「いい加減なことを言うな! 貴様はそんなこと これっぽっちも思っちゃいない」
「そうよ。老人のことなんか考えていない」
「いなくなればいいと思っている」
「面倒だと思っている」
「あの場で自転車を盗めばよかったと思っている」
「そうすればこんな目にはあわなかったと そう思っている」
私の耳に届いていない罵声は、やがて私の心の中に違う形で進入してきた。流れ込んできた。文字と色と映像と音と温度、それに――痛みと 苦しみと 不安と 恐怖と
私は一瞬挫けそうになって、心が折れそうになって、それでも――いや、だからこそ私は前に進むことを止めなかった。止めることが出来なかった。止めるわけにはいかなかった。なぜなら――
なぜなら私は そうしなければ ならないから
もはや論理的な理由など必要なかった。いや、この世界はすでに論理は通用しない。そういう時は、そうでないもので戦うしかないのだ。抗うしかないのだ。退いてしまっては、下がってしまっては……覚悟は出来ていた。あとは実行するだけだ。なにを迷うことがある。何を省みることがある。何を恐れることがある。私は……私は……
やるべきことをやるだけなのだ。なすべきことをなすだけなのだ。それが誤りだというのなら……こんな世界は いらない。
私はこぶしを振り上げ、自分の思いをこぶしに乗せて迷うことなき一撃を行く手を阻もうとする者にぶつけた。その手ごたえは気持ちが悪いほどすかすかだった。確かな反発は感じながらも、どことなくあやふやで薄いものだった。
「こ、これは……」
最初に私のこぶしを左のほほに受けた男は、まるで砂の城のようにもろく崩れ去る。左のひじをあごに当てられた女も砕け散る。
「この現実感のなさはいったい……このいい加減さは、このでたらめさはいったい!」
それでもまだ、私の行く手を阻もうとする者には立ち向かわなければならなかった。そうしなければ、最初のところへ押し戻されてしまう。いつまでたっても老人がいるところ――いや、居ると思われるところにはたどり着けない。そうわかった。わかってしまった。
私は覚悟を決めなおさなければならなかった。
「何がなんでも。そして、これが夢であろうが幻であろうが、私は――私はあの老人を」
夢とはなんじゃ 幻とはなんじゃ
すべての音が消え、すべての色が消え、すべての匂いが消えた。そして問いかける声だけがはっきりと そこにはあった。
「幻とは夢の中でみるもの。夢は……現実とは違う」
夢は現実の中で見るものじゃ 違うか?
「現実に居るから夢を見る。夢を見ているときは、現実はどうなっているかは、知らない」
夢を見ているとき、現実は夢の中にある 違うか?
「現実? 私はいつも現実の中で生きている。私が居るところが現実だ」
夢と現実はちがうというのか では、ひとつ聞く 現実とはなんじゃ?
「現実とは――」
何かを言おうとした私の口は、目の前に現れた一匹の蝶々によってふさがれてしまった。それは青でもあるし、紫でもあった。また、赤でもありえた。大きくもあり、小さくもある。遠くのようで近く、近くのようで遠いい。
現実のようで夢でもあり、夢のようで現実でもある 違うか?
「蝶を見ている私はいる。そして私を見ている蝶もいる」
なぜ、蝶とわかる? なぜ、自分とわかる?
「蝶は蝶で私ではない。 私は私で――」
蝶でないと言い切れるか?
「わからない」
わからないことをわかることは難しい 違うか?
「難しい」
ならば他人もそうよ わからないことをわかることは難しい
人はわかるようにしか わからん そういうものだ
「……」
沈黙はときに 言葉よりも多くを語る 語られた言葉には色がつく
「……」
「すいません。降ります。通してください」
彼氏が迎えに来るというOL風の女性の声だ。私は静かに現実に舞い戻った。
「恵比寿駅前です。ドアを開けますので、ドアのそばから離れてください」
バスの運転手は、静かに、そして丁寧にマイクで指示を出した。しかしその声には明らかに疲労とストレスがにじみ出ていた。
「じゃや、気をつけてね」
「うん、お先に」
短い挨拶の中に複雑な思いが見え隠れする。そう感じる人もいれば、何も思わない人もいるだろう。老人はそこに、そう、それまでずっとそこにいたかのように、私がいると思ったその場所、そのシートに腰をかけていた。どこからが現実で、どこからが夢なのか、そんなことはどうでもいい。老人は私のほうを振り向き、無表情に微笑みかけた。老人の顔のシワは、普通にしていても笑っているように見える。しかし、光の加減、影のつき方によっては、恐ろしく冷たい表情にも見える。
私はそんな老人をみつめて、ほっと胸をなでおろしたい気分になった。
現実でも幻でもいい。あの老人がいるのならば、それでいい。
バスは3人ほど人が降り、同じ分だけ人を乗せたようだった。いずれにしても……時間の流れが滅茶苦茶だ。しかし、今こうして考えている自分がいるのだから、ここが現実だと思うより他に手はない。いつだってそうじゃないか。何事もなかったかのようにバスは走り出す。さっき感じた息苦しさは、いささか和らいでいるような気がする。老人を見て安心したのか、私は急に世の中の事が不安になった。この震災の被害はいったいどれほどのものなのだろうか?
しかし、どんなに思いあぐねても、震災の現実がわかるまでには至らない。このとき私が知っている現実とは、それほど小さく、細く、浅く、狭く、そして古いものだった。想像を超える現実が実在すると知るには、まだ、時間が必要だった。