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静かなる老人  作者: めけめけ
第3章 迷い道
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第19話 全部嘘だった

 エレベータ――そう、知り合いが一人もいない状況で、客先の大きなビルのエレベータに乗ったときのような嫌な沈黙が続く。しかし、誰もボタンを押していない。押すことができない。だから外から誰かがボタンを押さなければ、永遠にこの状況は終わらないのだ。息苦しさと、荒唐無稽さと、そしてもう一つ。恐怖或いは狂気と隣り合わせの感覚。面白い事が起きればみな笑い始めるだろうし、恐ろしい事が起きれば、全員がパニック状態に陥る。そんな『危険な状態』に私たちは置かれていた。


 私はといえば、違う意味でパニックを起こしそうになっていた。老人の姿がどこにも見当たらないのである。


「す、すいません。ちょっと、いいですか? その席のあたりに、連れのおじいさんが――お年寄りがいるはずなんですが……」

 私は、思い切って――でも、小さな声――なるべく多くの人間に聞かれないように、OLのグループに声をかけた。間違いなくその向こう側に老人がいるはずだと、私は確信していたし、そのあたりは完全にこちら側から死角になっていたので、記憶においても消去法を使った論理的推測においても、まったく疑いようがなかった。


「おじいさん、ですか? 鈴木さん、わかる?」

「えっ、ちょっと待って……このあたりには『おじいさん』って感じの方はいないようですけど」

「反対側は?田中さん、わかる?」

「ううん。こっちもそういう人は……お名前とかわかります?」

「あ、ああ、そうですか、いや、実はバスに乗り込むときに知り合っただけで、名前とかは……おかしいな。たしか、渋谷から乗った時は、そのあたりに座ったものだと」

「前のほうに移動されたとか?優先席のほうまでは、ちょっとここからは見えませんから、声をかけてみましょうか?」

「いえ、いいんです。お気遣いなく。多分、私の勘違いでしょから。すいません。ありがとうございました」


 OLたちは不思議そうな目で私をみやるも、すぐに関心ごとはバスの外の様子に向けられた。私の行動は、私の期待通り、何事もなかったように誰の心にも留まらない些細なこととなった。しかし、本当に得たい結果は、まるで今の状況を象徴するかのように、暗中の只中でそれを得る手立てを何も思いつかなかった。


「お、おい。大丈夫か?鼻から血が出ているぞ」

「え、うそ、やだ……のぼせたのかな……すごく気分が悪い」

 バスの後部座席の先頭、ちょうどステップを一段上がったところの二人がけのシートに座る若い男女の二人組み――たぶんカップルと思えるのだが、窓側に座る女性の体調に異変が起きた。

「おい、大丈夫か?おい?」

 女性の具合はどんどん悪くなっているようだ。鼻血がとまらない。目がうつろで、頬は火傷をしたかのように真っ赤にはれ上がってきている。尋常じゃない。男が彼女の鼻をハンカチで押さえ、血を止めようとするが、血が止まらない。彼には見えていない。なぜ血が止まらないのか、彼には見えていない。


「なんだ?どうしたんだ。血が止まらない……助けて、誰か、誰か……」

 男が他の乗客を見回す。必死の思いで助けを求める。しかし、誰一人応えようとしない。いや、応えられないのだ。あまりも凄惨な光景――そう、血は彼女のものだけではなく、彼の鼻からもおびただしい血が流れていたのだ。


 キャーッ!


 二人の席の回りから悲鳴が上がる。鼻から血を流した男はようやく自分の身体に起きている異常に気づくも、意識は既に朦朧として目の焦点があっていない。


「病気か」

「まさか、伝染病とか、そんなことが……」

「こ、これはテロなのか? 細菌兵器とかじゃないのか?」

「おい、早くここから出してくれ!」

「運転手さん」


 あちこちで怒号と悲鳴が聞こえる。

「おい、だめだ、運転手さんが……」

「どうしたの?」

「運転手も目や鼻から血を流して……い、意識がない」

「なんなの、なんのなのよこれ、どうやったらドアが開くのよ!」

「落ち着け、もしかしたら外のあれが、やばいかもしれないじゃないか。窓を開けるなよ」

「そんなこと言ったって、いつまでもここにいたら……みんな……みんな死んじゃうじゃない!」


 私は、注意深く様子を伺っていた。窓側にいる人間はみな、気分が悪そうだ。同じような症状が出ている。これは、やはり、外の粉塵が影響しているとしか思えない。しかし、それほど多く車内に入っているわけでもないようだし、直接鼻から吸い込んだのが原因だとしたら、何人かはそれに気づくはずである。ただの粉塵ではないことはわかるが、細菌兵器とか、そんなものは、映画やテレビの世界の話だ。ここは現実だ。もっとリアルで、絶望的な状況を、私は想像できる。


 私は携帯を手に取り、タイムラインを確認した。繋がる。が、動きはない。ある時間で止まっている。ほんの5分前だ。


 非常事態


 原子力発電所


 メルトダウン


 制御不能


 核融合


 死の灰


「放射能汚染……そんな……まさか、ありえない。福島からの距離は……」

 あまりにも目を疑うような単語の羅列に、私は思わず声に出していってしまった。


「ど、どうしたんですか? 放射能って…… あ、あなた、その携帯使えるじゃないですか!」

 うかつだった。最後部の座席に座るサラリーマン風の若い男が、私の携帯を覗き込んでいた。

「あなた、どうしてそれを黙っていたんです。これって、原発が事故で放射能が東京中にばら撒かれたってことですよね。あなたそれを知っていて、ずっと黙っていたんですか?」

「ちがう、ちがいますよ。これは、私も今見たんです。私だって、知っていれば……」

「知っていたから、おじいさんがどうのとか、言って、あわよくば自分だけバスから降りて、安全な場所に逃げいようと思ったんですね」

「そんな、私は、ただ、私は、あの老人、あの老人を、送ろうと、心配して、本当だ。信じてくれ」

 私は必死で言い訳をした。いや、言い訳じゃない。本当のことだ。本当のことのはずなのに、どうして、あの老人は、自分の前から姿を消したのだ。


「信じてくれだと……この状況で、誰を、何を信じろというんだ」

「待て、ちょっと待ってくれ、話せばわかる。そんなはずはないんだ。放射能だなんて、そんなはずは……」

 私は信じられないほど冷静だった。どんなに激しい爆発があったとしても、高々数分で、死の灰がこんなところまで、しかも視界をさえぎるほど降り積もるなどありえない。ありえないのだ。


「じゃあ、なぜ隠していたの? あなた、自分だけ携帯が使えることを隠してたんでしょう!」

「ちがう!だから、それは……」

「ちがうだ? おじさん、何調子ぶっこいているの! ざけんじゃないわよ!」

「なんだと、なんでお前らなんかに、そんな口の利かれ方をしなきゃならないんだ!」

「ほら、本音が出たよ。どうせ、私たちなんか、死んだほうがましだって思っていたんでしょう?」

「ちがう、ちがうんだ。そうじゃない」


 いや、全部嘘だ。本当はそう思っていた。


 私は 誰も 信じてはいない


 死んでしまえば いいと思っている奴がいる


 いなくなればいいと 思っている奴がいる


 私は 私のまわりの ごく一部の人だけ 助かればいいと思っている


 私は そう これが 人間だ


 でも でも 私は



 あの 老人だけは あの 老人だけは……守らなくては!





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