第18話 一つの妄想
時間の経過とともに、バスは確実に目的地に近づいている。しかし、そのことで得られる安心よりも、疲労や不安、或いは理不尽な状況に対する不満によって削られる『乗客の忍耐』の量の方が少しばかり多かった。それはほんのわずかな差分だが、蓄積は累積となり、累積は自らの認識と行動との間に少しずつ差異を生んでゆく。
雰囲気に流されてはダメだ――と、わかっているつもりでも気持ちは真逆の方向を向き、疲労した身体が人の心を低い方向へといざなう。それに抗う術を本来、誰もが持っているはずである。しかし、問題はその認識があるかどうか。自分が「危険な立場に追いやられている」と気づくかどうか、わかるかどうかだ。
私が考えたくなかった一つの妄想――それは、危機に遭遇した集団が、互いに協力し合うという精神状態から、自分、或いは自分に近い人を守るために、いがみ合い、反発し、一つの過失が怨恨を生み、それが疑心となり、嫌悪となり、過去からのマイナスに鎖をつけて、大きな狂気へと進んでゆくさまである。
もし、いま、小さないざこざが起きるとする。それが二人のグループと3人のグループで、その中の一人がどうにも言葉が汚いヤツだとする。その男が吐き捨てた何気ない――そう、その男にとっては、日常茶飯事、どうということのない一言だが「アホ」という言葉に周りにいる人間が反応をする。「馬鹿馬鹿しい」ならよかったのだが「アホらしい」と言ったが為の、些細な感情のブレである。その非友好的な視線に敏感な一人、それはどちらのグループでもいいのだが、その雰囲気にのまれて過剰な反応をする。見かねた誰かがそれを察して中を取り持とうとするも、実はその男が、実は数刻前に小さな小言を言っていたことを誰かが覚えていて、そのことを指摘する。
彼はプライドの高い男だ。
それぞれが、ぎりぎりの忍耐でこらえているが、きっかけさえあれば、いつでも爆発しそうな状況が出来上がる。
「やめてよ! お願い! バスを止めて! 早くここから出して! 私、家に帰りたいの! ただ、それだけなのに、どうしてこんな目にあわないといけないの!」
一人の女がヒスを起こす。彼女は悪くない。なぜならそれは、病気なのだから。しかし、その一言が引き金になり、少しでも心の中の摩擦を減らそうと、何人かが大声を出す。
「ふざけるな! 我慢しているのはお前らだけじゃないんだぞ! 大声をだすんじゃね! 」
「そんな言い方をしなくてもいいでしょう! 彼女 怯えてるじゃない!」
「うるせぇな! ぎゃんぎゃん、ぎゃんぎゃん、騒ぐんじゃねーよ! 殺されたいのか!」
あまりのドスの利いた声に、思わず誰かがたじろぎ、体がよろけ、隣の女の足を踏みつけてしまう。
「い、痛い。やめてよもう!」
「何しやがるんだ!」
連れの男が、その男の胸倉を掴む。しかし思うように動けない。男は自分が動けるだけのスペースを確保しようと、強引に周りを押しのけようとする。
「いい加減しにしろ! もめごとなら外でやってくれ!」
あちらこちらで小競り合いがはじまる。
「お客様、どうか落ち着いてください。車内で乱暴はやめてください」
運転手がマイクで呼びかけるが、まったく効果がない。車内が混沌とし始める。私は老人の姿を探す。おかしい、前の席にいるはずなのに……
「すいません、ちょっと、前に行かせてもらっていいですか?」
私は老人が見える位置まで移動しようとするが、思うように前に進めない。それどころか、激しい敵対心を周りから向けられる。
「面倒は困る。おとなしくしていてくれ」
一人の男が私を睨みながら、低く唸る。
「違うんだ。連れがいる。前の席に座っているはずなんだが、姿が……」
「いいから、お前はそこから動くな。動けばただじゃ置かないぞ」
「な、なんだと、貴様、何様のつもり――」
「あんた、いい加減になさいよ。こんな状況で前になんか行けるわけないでしょう!」
近くにいたOLが、まるでセクハラをしたさえない男を見下げるような目で、私を見る。
「どうして私が、そんな口の聞き方をされないといけないのかね。だいたい、お前たちのような――」
私はその後何を言おうとしていたのか、わからない。思い出せない。たぶん、卑劣なことを言ったのだと思う。しかし、次の瞬間、私の妄想は、現実の枠を飛び越えて、自走式の狂気へと向かっていった。
ドドドーっ!
突然、突風が吹き荒れ、バスが大きく揺れる。突風? いや、ちがう。それはまるで砂煙のよな細かい粒子の粒がある砂嵐のようだった。しかし、砂であれば、窓ガラスに小石が当たるような音がしそうなものであるが、そういう音は聞こえてこない。まるで細かい灰を被ったような、そんな感じだった。
「な、なんだ?何が起きている?」
「おい、大丈夫かよ、これ」
「おい、おい、なんかやばくないか」
「外が全然見えなくなったぞ。おい、誰か! なにか見えるヤツいるか!」
「だめだ、何か細かい粉みたいなのが窓ガラスにくっ付いていて何も見えない」
「粉?どっかの馬鹿がセメントでも撒き散らしたか」
「なぁ、これって9.11みたいじゃないか。あの貿易センタービルが倒壊したときの粉塵」
「おい、って、ことはこの近くで同じような事がおきたっていうのか?」
「まさか? そんなこと……」
「おい、誰かネットつながるやついないか? これだけの事が起きてたら、何か情報出ているだろう?」
「ワイパーを――」
そう誰かが行ったときんは、バスの運転手はワイパーを動かしていたが、全くといっていいほど無力だった。ワイパーが動くたびに灰色の粉がフロントガラスにまとわりつく、何本もの筋ができるが、そこから覗けるのは、わずか数センチ先の煙上に舞い上がった粉塵である。
「窓は絶対に開けないでください」
運転手は、落ち着いた声でマイクを使って車内に案内し、エンジンを切った。この粉塵のようなものを吸い込んでは、動くものも動かなくなる。そう判断したのだろう。車内が静かになった。何が起きているのかを知ろうとして、みんな耳を済ませる。恐ろしいほど音がない。仮にかなり広範囲にこの粉塵のようなものが巻き散らかされているとして、もしそうだとするのなら、周りの音はかなり聞きづらくなるだろう。しかし、クラクションの音一つもしないというのは、どうだろうか?
「クラクションを鳴らしてみては?」
運転手のそばにいる男が提案をした。こちらからは様子がわからない。若い男の声のようだが――
プップーーーーッ。プーーーー。
やはり音の返りが極端に悪い。クラクションはいつもの音の半分にも満たない大きさで、寂しく暗闇に吸い込まれていく。なんとも不気味な感じである。まるで目の前で空間が歪み、そこに音が吸い込まれてしまっているようだ。周りを注意深く目を凝らしてみるが、何の変化もない。なんの反応もない。
「いったいどうなってるんだ?」
「なによこれ、私たちどうなっちゃうの」
「落ち着けよ。下手に動かないほうがいい」
「だって、これ、絶対に変よ。教えて! 外では一体何が起きてるの?」
「おい、ネットで情報つかめた人、誰かいるか?」
「ダメだ、全然繋がらない。さっきまで電波来てたのに、圏外になってる」
「こっちもだ。もしかして、全部のキャリア、ダメなのか」
私は、自分の携帯を確認してみた。不思議なことに自分の携帯は電波が三本立っている。しかし、私は考えた。もし、自分の携帯が使えるのであれば、他の誰かも使えるはずだ。ただでさえ、電池が少なくなっている。他に使えるやつがあるはずだと。しかし、誰一人、自分の端末が繋がると申し出るものはいなかった。いったい、なにが起きている。これは、どういうことなんだ。
私は携帯を胸のポケットにしまい、しばらく事態の推移を見守ることにした。
「どうです?繋がりませんか」
目の前に席に座っている学生風の女性は同じ私とキャリアの携帯を持っていた。
「だめです。圏外です」
「そうですか……おかしいですね」
私は一瞬、余計なことを言ったと思った。が、その心配はなかった。
「そうですよね。みんな繋がらないなんて……」
危ない。私は思わず胸をなでおろした。今は、考えろ。ともかく考えろ。軽率な行動は命取りだ。こんなところで死ぬわけには行かない。自分だけでも――
いや、そうは行かない。あの老人のことをすっかり忘れていた。あの老人を置き去りにするなどできない。このバスの乗客を全員見捨てても、あの老人だけは助けなければならない。
私は――私は――
自分がなぜ、そうまでしてあの老人に拘るのか。まったくわからなかった。しかし、そうしなければならないという強迫観念にも似た強い思いが私を突き動かしていた。私は、再び、老人を探し始めた。