表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かなる老人  作者: めけめけ
第3章 迷い道
18/35

第17話 一つの事実

「ねぇ、さっきから全然動いてなくない?」

「そうだよね。10分やそこらじゃないよね」


 20分だ。いや、もう少し前かもしれない。バスは、まったく動いていない。だが、あえて私はその事実を無視していた。前の座席のほうも少し騒がしくなっている。断片的にしか聞こえてこないが、どうやらこの先の交差点で問題が起きているようだが、ここからでは状況がよくわからない。


 身体を少し動かしてみる。視界を確保することは出来なかったが、前方の様子を覗き見ることはどうにかできた。正面に歩道橋が見える。どうやらそこは明治通りと駒沢通りの交わる交差点のようだ。どういう理由で右折できないのか。この位置から見ることはできないが『何がおきているのか』は、およそ想像はつく。信号が変わっても交差点に車が取り残され、乗用車ならまだしもバスのような大きな車両では曲がりきれないのだろう。誰かが交差点に立って交通整理をしなければ、このまま前には進むことはできない。


 そう、右折車線に入ってから1メートルも進んでいない。いよいよ、バスの中は殺伐としてきた。


「なにやってんの、このバスの運転手。全然進んでないよ」

「だめだよ、あれじゃ、一生曲がれない」

「誰かなんとかしろよ」

 最初は囁くような小さな声だったが、次第に『誰にも聞こえないように』というよりも『聞こえまいと遠慮をしている事がわかる程度』にかわり、やがて、周りの人に聞こえる声の大きさへと変化していった。そしてついに、我慢できなくなった一人の男が大声を上げた。


「運転手さん!このままじゃ、いつまでたっても着きやしないよ! どうにかしてよ! 前に行って、交通整理するか、無理やり突っ込むように言わなきゃ どうにもならないよ! 無線とか携帯で会社に連絡取れないの!」

 言いたいことを言う。周りの空気が一瞬張り詰める。そして次に何が起きるかを注意深く見守っている。なんという重たい空気。なんという圧迫感。


 やや、しばらくして、運転手が応える。

「そんなこと言っても、どうにもできませんよ。どこにも連絡なんか取れやしないし……この交差点さえ越えれば、もう少し道路は流れていると思うんですよ。もう少しお待ちください」

 先ほど声を上げた男がすぐさま反応する。

「じゃあ、このまま待ってるわけ? 絶対動きやしないんだから、こんなんじゃ! どうにかしてよ! みんな我慢してるんだよ! 前のバスのところまで行って、なんとかしてよ! お願いしますよ!」

 運転手も語気を荒げる。

「そんなことはわかってますよ。でも、歩いてなんか行けやしませんよ。ちょっと、待っててください。なんとかしまっすから!」


 ウインカーの音……バスが少し左に動く。どうやら車線を変更しようというらしい。それすらも骨の折れる作業である。しかし、このまま待ち続けるよりかははるかにいい。何度か信号が変わるうちにバスはひとつ左の車線――たぶん直進の車線だろう――に移動した。それにより、目の前の交差点で何が起きているのかがバスの乗客にわかるようになった。これでは、大きなバスでなくても気が小さいドライバーなら右折することなどできやしない。


 アワヨクバワレサキニ

 

 そんな言葉が頭に浮かんでくる。多分最初はここまで混乱していなかったのだろう。何台かが交差点に取り残され、それをよけるように他の車が流れを作る。その流れに乗らないと自然前に進めなくなる。それは無秩序な混乱ではなく新たなルールの構築である。その流れに乗れないものは取り残され、除外される。非常時というのは、それまでの常識が通じないだけで、秩序が完全に崩壊するわけではない。しかし、それが完全な崩壊へと発展する可能性を誰が否定でいようか。


 郷に入れば郷に従え


 非常時には非常時の対応が必要である。ついにバスは交差点で立ち往生しているバスの横につけた。運転手がサイドブレイキを引き、前方のドアを開ける。とたんに街の騒音がバスの中に流れ込んでくる。緊張しているのはバスの中だけではなかった。この交差点の周辺は無作為な殺気で満ちていた。

「誰も、降りないでくださいね。外にはでないで」

 運転手は語気を多少強めた口調で言いながら運転席を離れると、急いでバスを降りた。運転手の帽子がフロントガラスの向こうに見える。どうやら隣のバスの運転席の横に回り、サイドの窓から、話をしているらしい。怒鳴り声のような声が時々聞こえるが、それは怒鳴らないと音が聞こえないためなのか、それとも腹の中に何か思うところがあるのかはわからない。たぶん、両方だろう。


 プシュー!


 折りたたみ式のドアはエアで動いている。ドアが閉められたことで、一瞬バスの中は静かになったように感じるが、ディーゼルエンジンが静かであるはずがない。運転手は、サイドブレイキを下ろし、アクセルを踏む。バスが前へ進んだ。


「おー」

 乗客の中から声が上がる。それは感嘆というよりかは、トイレで長いこと踏ん張った後のため息のようだった。遅れて右折車線にいるバスも動き出す。私を乗せたバスは、交差点に強引に割り込み、道路をふさぐ。その間に右側にいたバスは少しずつ前に進みどうにか右折をする態勢になる。そこにかぶせるように、こちらのバスが突っ込む。信号が変わっても強引に割り込み、ついに開かずの扉をこじ開けた。


「おー」

 再び乗客の中から声が漏れる。それは安堵の声。決して運転手に対する敬意を表すものではなかった。が、私は敬意を払った。この状況でマニュアルどおりの行動をとることはないのだ。非常時の時には非常時の判断と行動が必要であり、公共性の高い職につくものには、その判断も、行動も鈍りがちだ。運転手は良く判断し、よく行動したと思う。そして運転手が宣言したとおり、交差点をすぎてからは、少しずつでも前に進むようになった。やがてバスは恵比寿の駅のロータリーに入っていった。


「こんなところで降りてどうするんだ」

「乗せることないだろう。いっぱいなんだから」

 口に出して言う者、目で訴える者、目も耳もふさぎ、無関心を装う者、無関心の者。身動きが取れない分、頭の中を動かすことしかやることがない。感覚も無駄に研ぎ澄まされ、見なくてもいいもの、聴かなくてもいいものが聞こえてくる。こんなときは音楽でも聴いていたほうが気がまぎれるが、携帯電話の電池の残量が気になってそれもできない。


 ともかく、いい。


 この息苦しい状況から一人でも二人でも人が降りつというのなら、それは歓迎すべきことだろう。そしておそらく、恵比寿で人を乗せることはないだろう。しかし、そうはならなかった。降りた人数は思いのほか多く。その分何人か乗せないわけには行かなかった。絶望的な状況ではないが、希望を一欠けらずつ、砕いていくような作業である。人がどこまで冷静沈着でありえるか、追い込まれていく状況の中で、誰かに手を差し伸べることを忘れられずにいられるか。そんなことを試すためのアトラクションの乗り物に、がっちりとシートベルトと安全バーで押さえつけられているような、そんなスリリングで非生産的な気分になっていた。


 面白いじゃないか。どこまでいけるか試そうというのか?


 私はバスの中で、覚悟を決めた。定員オーバーのジェットコースターは、恵比寿駅を出発した。恵比寿駅の停留所が見えなくなるまでに、それから30分を要した。私は考えずにいられなかった。


 もう一つの妄想を……


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ