第16話 恵比寿駅前
バスが走り出し、携帯のバテリーを確認する。残り少ない。こんなときに限って予備のバッテリーを持っていない。ノートパソコンもバッテリーが上がってしまっている。こういう状況で情報が途絶えることは一番怖い。どうせ誰かから電話がかかってくることなどないだろう。なるべく携帯の電池を使わないようにしようと思う。それでも、やはり、周りの様子が気になる。バスの窓から見える景色は代わり映えしない。夕闇の中、長い車の列はテールランプの赤い光が怒っているように見える。バスのエンジン音で外の音は聞こえないが、それでも時々大きなクラクションの音が聞こえてくる。
東京の街はイラついている。
経堂駅から渋谷駅に向かうときに使ったバスの車内は、ほとんど会話がなかった。みんな情報が少なく、それを口にすることにまだ遠慮があった。「驚いた」「不安だ」「心配だ」「連絡がつかない」およそそのことくらいしか話すことが見つからなかった。しかし、渋谷を出発した田町行きのバスの中は少し違っていた。断片的だった情報は、自分が独自に得たものと他人から得聞いたもの、そして運よく誰かと連絡が取れた人は、そこからもたらされた情報を互いに交換し合うことで、この震災の細かいディティールが徐々にはっきりと見えてきていた。しかも渋谷駅の混乱を目の当たりにしたことで、情報との温度差を自分中、あるいは行動を共にする他の人とすり合わせて、より具体的なイメージとしての震災を捕らえている。
人はそこから、どう行動するのか?
自らのおかれた立場と、はるか数百キロ先で起きている大惨事。想像を超える自然の驚異と想定を超える被害の拡大。家族がいる者は家族の安否、家のあるものは被害の算段、独り身の者は、自己の安否を誰に知らせるべきか、どうやって知らせることができるかを模索する。
誰もがみんな 非日常な中で リアルな現実を抱えている。
「ぜんぜん進まないね」
「さっきから100メートルも進んでないんじゃない」
「どうしよう。これじゃいつになるかわからないね」
OL風の3人組が私のすぐそばで話をしている。
「そうとう被害が広がってるみたいよ」
「津波で町そのものがなくなっちゃったって!」
「日本列島が津波警報で真っ赤だよ」
ワンセグでテレビを見ながら若いサラリーマンが話をしている。そうだ、そういう話が聞きたい。こっちはできるだけ携帯の電池を節約したいんだ。もっと情報を――具体的な情報を
「あれ、地下鉄動き出したみたいよ」
「うそ!私のほうにはまだ、見通しが立たないって……」
「どの情報が正しいのかぜんぜんわかんないね」
「デマとかも、かなり流れてるらしいわよ」
「へぇ、そうなの?でも、どうやって見分けるのよ」
「千葉のほうの工場の火災、有毒ガスが出てるとかいう情報が流れたけど、デマだって言ってる」
「えー、でも、工場とかヤバクない? 有毒ガスとか普通に出そうだけど」
「だよねー」
女子大生だろうか? さっきのOLとは明らかに違う話し方だ。いや、ちがうな。誰と話をしているかで、話の表面が変わるだけだ。あのOLは仕事上の付き合いであって、それほどプライベートでの付き合いがあるわけではないのだろう。
私たちが乗る路線バスは、地上を移動する手段としてまるで役に立たないかのように歩行者や自転車に次々と抜かされていった。それでもどうにか最初の停留所につく。しかし、バスは止まらない。この状況でバスを降りる人もいなければ、新たに人を乗せるスペースもない。並木橋、渋谷車庫前を通過する。バス停にも待っている人はいない。東二丁目、東三丁目を通過し、恵比寿駅前とアナウンスがあったとき、不意にブザーが鳴る。
「だれだよ。空気読めよ」
OLのグループから声が上がる。
「こんなところで降りるとか、意味ねーじゃん。最初から乗るなよ」
女子大生のグループもはき捨てる。
いや?これは英断だろう。こんな調子でバスに乗っていたら、かえってストレスになる。できるくらいなら私も降りたいくらいだ。あの老人がいなければ……私は老人の姿を探したが、体を思うような方向にむけることができずにいた。渋谷からなら山手線で一駅、5分もあればいける場所に、なにが悲しくて1時間もかけてバスで行かなければならない。まったく馬鹿げている。いつまでこんなことを続けるのか?
私は携帯を取り出し、twitterで情報を確認する。恵比寿で降りて、日比谷線が動いていれば、別ルートで帰れないだろうか? しかし、すぐにその提案は却下された。渋谷に戻る以外で、ほかに方法はない。あの人だかりの駅から地下鉄が動いたとして、自分だけならまだしも老人を連れまわすことは不可能だろう。
「あ、わたし、ここでおりるね。なんか彼氏からメールが来て、車で迎えに来てくれるって言うから」
「あ、そうなんだ。よかったねー」
なんとも乾いた会話である。OLの一人は、恵比寿で降りて彼氏の車が迎えに来るのを待つというのだ。そんなことだから 道路が渋滞する。そう思ったのは、きっと私だけではないだろう。そう思う自分、そうわかってしまう自分がとても小賢しくてイヤだと思った。
賢くて 何が悪い。
それにしても道路はまったく機能していない。警察はいったいなにをしているのか? 交通整理ができているとは思えないし、そうえいば、ここまでパトカーの音や緊急車両の音も聞いていないし、だいたい、警官を見ていない。警察も動けないでいるのか、あるいはもっと別の場所に人員をさかなければならないくらい、切羽詰った状況なのか? 窓の外の景色はずっと止まったままだ。私には二つの悪い考えが浮かんでいたが、あえてそれ以上考えないようにしていた。
一つはある事実。
もう一つはある妄想である。




