第14話 再びバスへ
3月11日午後2時46分。私は仕事で訪れていた世田谷の豪徳寺駅周辺で、今までに経験したことのない大きな地震に遭遇した。その後も何度か大きな余震が街を揺さぶる――東日本大震災は、まだ私の目にはその一部しか見えていなかった。都内の交通機関は麻痺し、携帯電話も繋がらず、会社や家族と連絡が取れない。移動する手段を求めて隣の駅まで歩く。その途中で一人の老人と出会い行動を共にすることになった。経堂駅に着くと運良く渋谷駅に向かう路線バスに乗ることが出来た。老人も一緒に渋谷に行くはずだったのだがバスに乗り込む際に老人とはぐれてしまった。しかたがない。そう思っていたのだが……いよいよ渋谷駅に着くというときに、はぐれてしまったと思っていた老人が一緒のバスに乗っていることに気づいた。バスを降り、再び老人と行動を共にすることになった。
「トイレは大丈夫ですか?まだ先は長いでしょうから、ここで用をたして行きましょう」
老人はうなづくきはしなかったが、私の申し入れを承知したという目をしたので老人を渋谷駅前の公衆トイレへ案内した。渋谷の街は思っていたほど混乱はない。お互いに知りえた情報を交換し、どうやったら目的地に着くことが出来るのかを模索している人がほとんどで、大震災という未曾有の災害が起きていることの恐れよりも、まずは家に帰ることが大事といった感じだった。携帯電話は通じない。それでも何かの間違えで通じることもあるようで、「何度もリダイヤルしたらやっと繋がった」と、通りすがりのOLが話していた。実際、渋谷に来たものの、ここで手詰まりという人は他にやることがない。都内の鉄道はすべてストップしており、JRはすでに今日中の復旧はないという案内を出していた。地下鉄が一部復旧するようだという情報をところどころで耳にする。電話が通じた人は車で迎えに来るようにと依頼をしているようだが、それこそ混乱を招くだけだ。すでに道路は身動きが出来ない状態になりつつある。
「おじいちゃん、ここからどうする?私は両親が品川に住んでいるので、実家に世話になろうと思ってるんです。渋谷から品川までなら歩いてでも行けますから」
品川と老人の行きたい方角がまったく違うなら違うで、この際、老人に付き合うのもいいと思っていた。どのみちまともな時間には帰れやしない。家のことは心配だたが、荒川を越えて江戸川区に入るのはいろいろと不確定要素がある。橋、通行規制、液状化現象。今のところ江戸川区周辺に大きな被害が出ているというニュースはない。千葉沖で火災が発生しているらしいがその影響があるとは思えない。有害物質が発生しているという話もあるが、流石に西葛西までは届かないだろう。しかし――
「心配かい?」
「えっ?」
「心配はいらんよ。何も心配はいらんよ」
老人は、私に心配はないと微笑みながら言った。いや、もしかしたら微笑んではいないかもしれない。老人の顔のシワが微笑んでいるように見えるのかもしれない。だが、奥まった目のくぼみは、どことなく不気味さも感じる。じっと見ていると、その中に吸い込まれそうな馬鹿げた錯覚に陥りそうになる。
「おじいちゃんのご家族も心配しているでしょう?連絡をとる方法があれば……あっ、公衆電話なら通じるはずです。電話番号わかりますか?」
老人は寂しそうに首を振る。さっきの笑顔とはまったく違う、寂しそうな表情も、もしかしたら老人のシワがそう見せているだけなのかもしれない。年寄には年寄でそれなりに事情があるのだろう。私はそれ以上、老人の家族のことに触れることは、やめることにした。とはいえ、行き先を聴かないわけにもいかない。
「大森へ……」
老人は目をふせたまま静かに言った。
「ワシは大森へ行きたいんじゃ。大森はどうやったらいけるのか……」
「大森ならJRで品川から二つ先の駅です。品川から歩くと結構ありますが、品川までいければ何とかなるでしょう。じゃぁ一緒に品川まで行きましょうか?」
老人は静かに首を立てに振った。歩きながら、ゆっくりゆっく何度も。
公衆トイレの前は一段と混雑していた。用をたそうと並んでいる人、タバコを吸う人、それに情報を交換する人でごった返していた。
「もし、トイレの必要がなかったら、ここで待っていて下さい。私はトイレをすませたら、すぐにここに戻りますから」
老人は黙って動こうとしない。私はかまわず人ごみの中を掻き分け、トイレに並ぶ列を見分け最後尾に並ぶ。私の前に並ぶ二人組みのサラリーマン――年齢は明らかに自分よりも上で、多分、社会的地位も上なのだろう――が話をしてる。どうやら渋谷から出ているバスのことを話しているようだ。私はさり気なく二人の会話に割り込んだ。
「すいません。そのバスは、どこまで行くんですか?」
「田町行きのバスが動いているらしいよ。乗り場は駅の反対側だよ」
「あ、バスターミナルですね。わかります。ありがとうございます」
「まぁ、もっとも何時間かかるか、わかりゃしないけどな」
「え、まぁ、歩いたほうが早いとも思うのですが、なにぶん連れがいるもので」
「そうかい?まぁ、あちこち歩き廻ったところで、どこも人で一杯さ。動かないのがいいのかもしれんが」
「そうなんです。じっとここで待つのもどうかと……人がどんどん増えてますからね」
「あなたがたもそのバスに?」
「いや、今その話をしていたところでね。田町に出たところで、どうにもならないって話をね」
トイレで用をすませ老人を探す。老人は言われたとおりにそこにじっと立って待っていたようだ。
「トイレ本当に大丈夫ですか?田町までいくバスがあるそうです。とりあえずそれに乗ってみましょうか?町田まで行く間に状況も少し変わるかもしれないし」
こうして私は、再び老人と一緒にバスに乗ることにした。