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静かなる老人  作者: めけめけ
第2章 帰り道
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第13話 悪夢

 人が人でなくなる狂気を私はごく身近な体験として知っている。いや、それは一種の疑似体験――誰もが必ずみるもの――悪夢である。代表的なものは高いところから落ちる夢や化物に追いかけられる夢だが、私の場合は、『リビング・デッド』である。あえてゾンビと表現しないのは、夢の中では設定があやふやであるからで、屍食鬼がごとき、死肉食いのシーンは夢には登場しない。『感染者』と説明したほうが適切かもしれない。


 悪夢の入り口はともかく、最後はいつもこうである――『感染者』の群れに追い詰められ、どうにか身を隠す場所を見つけてそこに逃げ込む。それは廃屋の小屋であったり、学校の掃除用具のロッカーであったり、トイレだったりする。いずれも内側からしっかりと鍵が掛からない。ドアを手でしっかりと押さえなければ、簡単に外から開けられてしまう。『感染者』は私の存在に気づき、次から次へと現れ、ドアをこじ開けよとする。私は必死にドアを押さえるが、とうとう力尽きてしまうか或いは一緒にその場所に逃げ込んだ仲間が感染してしまい、ドアを開けてしまう。『感染者』の群れがなだれ込む。無数の手が私めがけて伸びてくる。冷たく青白い手。その手は私の服を引き裂き、髪の毛をむしり取る。手足をがっちりと握られ身動きが取れなくなったところに、奴らは大きな口を開けてところ構わずかぶりつく。彼らと視線が合うことはない。彼らが見つめているもの、それは私の腕であり、太ももであり、要は食料としての私の肉なのだ。私は抗うこともできず絶望の中で目を覚ますことになる。その夢をみた夜はもう眠ることもできず、夜が明けるのを震えながら待つしかなかった。


 大人になってから見る回数こそ減りはしたものの、必ず年に数回は悪夢にうなされていた。


 ついさっきまで普通に行動していた人――家族や友人や同僚が『感染者』となり、私を襲ってくる――人が人でなくなる狂気を目の当たりにして、私は逃げ惑うしかない。怪物や幽霊の類に襲われて逃げ惑う夢は、多分一般的な悪夢として誰もが見るものだと思う。もちろんそういう夢も見るのだが、目が覚めてしまえばどうということはない。しかし、『感染者』に襲われる夢は根本的な恐怖の構造が違う。その違いをはっきりと自覚できるようになったのは、高校生くらいの頃か、或いは中学生くらいの頃だったか、はっきりとは思い出せないが、追い詰められる恐怖だけではなく『感染』をきっかけに、人が豹変してしまうことへの恐怖が加わる。そして、私は最後までそれに抵抗し、逃げ、そして最後に襲われてしまうという絶望感。


「そんなことにはならないさ」

 自分で自分に言い聞かせる。ここは夢とは違う現実の世界。みんな『こんな状況』でもある程度の理性を保って行動することができているじゃないか――そう思う。だが、確信はない。『こんな状況』は、おそらくここにいる誰もが遭遇したことはないだろう。路線バスという狭い空間の中でこそ、そして情報が閉鎖された状況だからこそ、平静を装っていられたのかもしれない。バスが無事に渋谷駅にたどり着き、そこでそでにある程度の混乱が起きていたら……我先にと争い、バスから飛び降りて倒れるものを踏み潰して己の身の安全を確保しようとするかもしれない。そうだとすれば、あの老人と経堂駅ではぐれたことはよかったのかもしれない。もし老人と行動をともにしていたら……


「考えすぎさ」

 だが、多分紙一重の状況ではないだろうか?そうなったとき、自分はどうなるのだろう。正義のヒーローなんかにはなれない。誰かに手を差し伸べるなど、できないだろう。でもあの老人を放って置けるだろうか。私がひとり妄想の中にふけっているとふと視線の中にありえないものが目に入った。


「あ、あれは、あのときの老人……いや人違いか?」


 経堂駅のバス停ではぐれてしまったと思っていたあの老人が満員の路線バスの中――いわゆる優先席の近くに見えたような気がした。人と人のわずかな隙間からチラリチラリと老人らしき姿が見える。


『とても小さくて、目が奥にくぼんだ老人』


 「なんてことだ!」

 ただただ、渋谷に早く着くことを――いや、すでにここは渋谷なのだが、バスが人を降ろせるところまであと200メートルというところで、バスはなかなか前に進まない。私はいたたまれない気持ちになった。自分がしっかりあの老人をサポートしていれば、こんなことには……ふと老人と目が合った。老人はとても穏やかな表情で私を見つめていた。微笑むのでもなく、会釈をするわけでもなく。ただ、ただ、穏やかにそこに佇んでいたのである。その姿に私の心は大きく揺らいだ。


「バスを降りたら、あの老人に最後まで付き合おう」

 私がそう心に決めたとき、バスがようやく動き出し、ほどなくして渋谷駅の停留所についた。渋谷の駅前は信じられないほどの人間で溢れかえっていた。一瞬、ドキっとしたが、その佇まいは思いのほか穏やかだった。私が想像していた『パニック』とは違う『静かなる群集』は、まるでムクドリの集団のようにざわついてはいたが、決して乱れることはなかった。


「大変お疲れ様でした。渋谷到着です。大変混雑しております。バスをお降りになりましたら、立ち止まらずにお進みください。どなた様もお忘れ物のないように、お気をつけてお帰りください」

 バスの運転手は乗客に注意を促しながらも、その声には一つの仕事を成し遂げたという達成感よりも、この後もしばらく続くであろう非常事態の中での激務に対する疲労感が漂っていた。無理もない。ご苦労様でしたと声をかけたい気分だが、それができるような状況ではなかった。私は老人の姿を目で追いながら、バスを降りた。体の小さな老人は人の影に隠れてすぐに見えなくなってしまい、探し出すのが大変だったが、どうにか先に下りた老人を呼び止められる距離まで近づいた。


 だが、私は一瞬躊躇した。なんと言葉をかければいいのかわからず、言葉のないまま老人の肩に手を触れようとした。が、私はそれに失敗をした。老人と私の間を一人のサラリーマンが横切る。次の瞬間、私は老人を再び見失ってしまったのである。まわりを見回すと、そこには気分が悪くなるほどの人の頭が右へ左へと動き回っている。私は一瞬空間的な感覚を失いそうになった。


「ここに……」

 ふと背後から声がする。振り向くとそこには先ほど見失ったあの老人が静かに立っていた。私は老人のおかげで自分を落ち着かす事ができたようだ。自然に言葉が口をついて出た。

「おじいちゃん。心配してたんだよ。大丈夫かい?」


 老人は静かに私に微笑みかけゆっくりとうなずいた。こうして私は、再び老人と行動をともにすることになった。時計は夜7時をとっくに回っていた。



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