第9話 老人
「ァァァァァ……」
何か聞こえたような気がする。老人がしゃべったのか。老人はただ、静かに震えていた。『老人』というのは、ある年齢を超えたら『老人』というのではなく、生物としての目に見える衰え――皮膚や顔の皺やシミ、頭髪や眉毛の変色、髪質の劣化、口元の乾いた感じ。そして動作――瞬きの小ささゆったりとした肢体の動き、指先や口先の震えなど、そういった要素全てを判定し、半分以上を満たしていれば『老人』とみなし、この場合、そのほぼ全ての項目で、その男は『老人』であった。酷く小さい。小さいというのは『背丈が』ということではなく、骨格、着ている服、手足、靴、頭、目や鼻や口、指の太さまでも、全てのサイズが子供のように小さかった。
思い切って尋ねてみた。
「あっ、あのー、ど・う・か・しま・した・かぁ?」
ゆっくりとはっきりと聞こえるように私は老人に近寄りながら声をかけた。
「ァァァァァ……」
老人の目は、異様に奥にくぼんでおり、色素が薄くなってしまった眉毛が、余計にそれを際立たせている。もしもこの老人の人相を質問されたら10人が10人『とても小さくて、目が奥にくぼんだ老人』と答えるだろう。
「ありがとうよ」
どうも、そういう感じに聞こえるのだが、礼をいわれるようなことなど、覚えがない。失礼だと思いながらも、私はもう一度聞き返した。老人の耳元に近づき――しかし失礼のないように近づきすぎず――少しかがみながら、さっきの言葉を更にゆっくり繰り返した。
「ど・う・か・し・ま・し・た・か・ぁ」
近づいてみてわかったのだが、老人の肌艶は、90歳をもし越えているというのなら、私の想像をはるかに超えて、きれいな肌をしていた。しわやシミはそれこそ、最低限しかない。肌がくすんで見えたのは、どうやら汚れているだけのようだ。それも妙な話なのだが、浮浪者には見えなかった。衣服は小さいが品のよさそうな生地で、むしろこぎれいといっていい。
「すまんが、駅まで、そこの駅まで送ってくれんか。ァァ」
明らかに最初に聞こえた「ァァァァァ……」という識別がでいない音声ではなく、はっきりと、ゆっくりと、しっかりとした口調で老人は私に訴えてきた。たぶん、最初に話しかけた時は、タンが絡んで、くごもったのだろう。今は多少空気が抜けるような音が混じるが、はっきりと聞き取れた。
「駅ですね。駅って経堂駅、経堂ですか」
先ほどより少し早めで小さく――つまり普通に話してみる。すると老人は大きく頭を立てに振って、答えてくれた。耳はしっかりしているようだった。もう一度普通の会話の調子で話しかけてみる。
「私もこのあたりの人間じゃないんで、場所がよくわからないんですが、どの道を行けばいいか知ってますか?わかりますか?」
すると老人は両手を後ろ、腰のほうに組んでゆっくりと歩き出した。その歩幅は驚くほど小さく、駅までこのペースで行ったら、どれだけ時間がかかるのかと、私に心配をさせるほどだった。しかし、急いでも仕方のないことだ。こういう非常時、老人がひとりでいるのはあまり良いことではない。駅までというのであれば、構わないだろう。どうせ、今日は長い一日になるに違いないのだから。
私は方から下げたカバンを右から左にかけなおし、老人の右側を歩いた。道の真ん中を歩こうとする老人を道路の左側に少しずつ誘導した。私の身長は170センチほどだ。いや、正確には168.5センチ。170センチはない。その私の肩の辺りに老人の頭があった。腰が曲がっているわけでも、姿勢が悪いわけでもない。どことなくその佇まいに違和感を感じたが、対して気にはならなかった。なぜならその時は、それほど長く老人と行動をともにすることはないと思っていたからである。私は最初に自らを名乗る機会と老人の名前を聴く機会を失ってしまった。