A real world
30年ほど前、隕石の衝突や度重なる地震、火災という天変地異が起こった。
世界人口は一瞬にして五分の一にまで減少し、土地は無数の島へと分裂した。
そんな世界の隅に、ハイゼン島という小さな島があり、
その中心には"私"が通っているハイゼン学校がある。
教師が優秀なことで有名なこの学校には、うっとうしい飛び級制度があり、
そのおかげで私の周りには年下の秀才と呼ばれる生徒ばかりが集まっている。
使い古されたペンとずれ落ちそうになるメガネを常に持ち歩いているような、
化け物みたいな人間が必死で勉強というものをしているのだ。
6月20日。
その日、ウィーンウィーンと耳をつんざくような、妙に間近に聞こえる蝉の鳴き声が教室を満たしていた。
普段はうるさいだけの教師の声が問答無用で消されていく。
机の端に置いた腕時計の針がいじったらしく動いていくのを眺めながら、今日も私はノートを隅々まで塗りつぶす作業にあたっていた。
バサリ。
その手の上に、薄っぺらい紙切れが乗っかる。
進路相談、と特大の文字で書かれたプリントだ。
今は高校2年生の夏。大学への進路先を決めるのに、もっとも重要な時期が訪れたのだ。
しかし私は表情一つ変えることなく、音をたてないようにビリビリと破いて後ろのゴミ箱へ捨てた。
蝉の鳴き声が一瞬おさまると、一年前にも聞いたことのあるような説明がちらりと耳をよぎっていった。
私は今、一年前と同じ勉強をしている。
そう、つまり、落第だ。落ちぶれて3年生になれなかったバカな人間だ。
さすがに今年落ちると高校を追い出されるので、多少の危機感は抱いている。
しかし、もうここまで来ると本当に勉強なんて無意味じゃないかと思えてくる。
行きたい大学だって、就職先だってない。アルバイトをしようと何件か回ってみたが、
大抵面接の前に申し込み書さえ渡してもらえない。私の顔には生まれつき斜めの大胆な傷があり、目つきも妙にきつい。
暗い顔をしていればそれだけで不良の出来上がりだ。
夕方、ホームルームが終わると、友達と話すこともなくすぐに帰る支度をし、帰っていく。
受験以外に目がないこの学校では珍しいことではないが、さようなら、と言葉にも出さずに教師に向かって、あるいは教師に向かいもせずに、しているのかさえわからない会釈をし、
掃除の手伝いもせずにそそくさと帰って行く私は、きっと無礼な人間だと思われているに違いない。
まだギラギラと目を光らせている太陽に見つからないように、建物に沿うように歩いていく私。
いつもならまっすぐ帰る道を、今日は曲がっていく。
鞄から財布を取り出して、細かくなった小銭をいちいち取り出して数えた。
240円。
3年ほど前まで住んでいた施設から、毎月ぎりぎり暮らしていけるほどのお金が送られてくる。
今日使い切ってしまえば、あと3日は一文無しで過ごすことになる。
こんなに暑い真夏を、作り置きのカレーだけで耐えきるというのは無謀だった。
だが明日は、私にとって唯一、人生を実感できる日だった。
こんな日には、普通の人ならば友人や家族からプレゼントをもらい、ケーキのろうそくを消し……。
しかし私には家族も友人もいない。当然、そんな有難いシチュエーションなどはない。
ふと横を、黒く光るランドセルを背負った小学生の男の子が、ゲームをしながら母親の隣を歩いていった。
いいな、と奥歯で小さな歯ぎしりをして羨んだ。
私は親の顔を見たことがない。気がついた時には自分の名前だけをどこの誰ともいえぬ人間から伝えられ、警察やボランティアの保護下に置かれていた。
そこにいると気味が悪くて、高校生になると同時に、勝手に一人暮らしを始めた。
それ以来、人と関わったことなんて記憶の中にはほとんどなかった。
平日でもあいかわらず賑わっている一軒の店の前で私は足を止めた。
中へ入ると、冷房のしっかり効いた空気が一気に体を冷やしていく。
アンティークなテーブルや椅子が少し暗めの花形ランプに照らされて、艶やかな茶色を描き出している。
その奥に、真っ白なケーキがずらりと並んでいた。
母親にケーキをねだる子供と、少し背が高くて、見上げないと顔の見えないような男性の間に入って、チョコやフルーツの乗った白いスポンジを眺める。端から端まで一つずつ見ていくが、
たった240円で買えるようなケーキは、唯一つ、イチゴとラズベリーの乗ったショートケーキだけ。
もう少し安い店があればよかったが、生憎この近くにはこの店以外にケーキ屋はない。
「あのー、順番、変わります?」
顔を上げると、テレビに出てきそうなきれいに整った顔立ち、深いブルーの目と黒髪が特徴の、黒いスーツにネクタイといった、正装をした男が私を見ていた。
「あ、いぇ……、見てるだけなので、お構いなく」
ぼそぼそと言い放って、ケーキに目を戻す。
しばらくケーキの上ばかりを眺めていたが、頭上に変な違和感を感じてもう一度男の顔を見ると、ブルーの瞳が私を捉えていた。
「私に、何か」
表情の見えないその顔に、妙な嫌悪感を抱いた。まるでストーカーに背後からみられているような錯覚を得る。
「何でも」
本当に何もなかったようにつぶやいた男の唇の左端が、ほんの何ミリかつりあがる。
気味が悪い。ここにいてはいけないと、何故かそんな気がした。
慌てて振り返り、テーブルと客の間をすり抜ける。冷たい空気を押しのけて透明なドアを開けると、現実が押し寄せてきた。
結局、私は鍋に残ったカレーと、コンビニで買った小さなサラダで明日を迎えることになった。