Island of Rain
静寂が現れた。
私は目の前で起こったことが信じられずに、ただその場に座り込んでいるだけだった。ヴァリスはリーナを抱え、ジョンはふらふらと立ち上がった。
「アルセア、立てるか」
私は座ったまま、声は出さずに頷いた。
ジョンの腕にしがみつき、力の入らない足を無理やり動かした。
よろけながらもジョンに連れられ、私たちは外が暗くなるまでひたすら歩き続けて、ようやく白い建物へとたどり着いた。
暗い階段を下り、ドアをすり抜けて真っ白な部屋の壁に囲まれる。
「アルセア、疲れただろう。僕とヴァリスでリーナの治療をするから、しばらくベッドで寝ていてくれ」
別の白い部屋に連れて行かれ、ベッドの上に座らされる。体は動かず、そのまま横に倒れた。
目を閉じると、パタン、と扉のしまる音だけが目の前を過ぎ去った。
暗闇の中で、何故かリーナのあの悲しい声が聞こえた。
"アルセアにはこんな運命を背負ってほしくないって思ってるから"
こんな運命……あんな風に戦って、血を流して、そんな運命のことを言っていたのかな、リーナは。
漫画みたいで、でも本当の事で、私は何もできなかった。
震えて、怯えて、ただ見ていることしかできなかった。
でももう後には退くことは出来ないんだ。
それに私は、リーナに言ったんだ。
"あと1年で幸せになれるなら、私は残りの何十年を捨てても構わない"
こんな私でも誰かの役に立てるなら、そう、死んでもかまわない。
そうだ、明日、ヴァリスに聞こう。この力を、BISTを使いこなす方法を……。
翌朝、ふいに目を覚ました私は、昨日と同じようにリーナが隣で本を読んでいた。
「っリーナ、怪我は……大丈夫なの」
「大丈夫よ、心配しないで。私が油断していたせいで、怖がらせてしまったわね、ごめんなさい」
本を閉じて立ち上がったリーナの腹部には、昨日のような血は見えず、痛がっている様子もなかった。
一体どうやってこんなに早く怪我を治したのだろうか……?
「BISTERは体中の細胞を活性化しているって言ったでしょ。だから怪我の回復も早いの」
「そっか……」
寿命が縮まるのは嬉しくなかったが、怪我が治りやすいのは有難い、私はちょっとこの力を誇らしげに思った。
私たちは部屋を出て、メインルームへいくと、すでにジョン達3人は皆揃ってテーブルを囲んで座っていた。
リーナは私を座らせると、パンを乗せた籠を持って私の向かい側に座った。
私がパンを手に取ったのを見計らって、リーナがためらうように、
「アルセア、今日は学校に行きなさい」
「へ?」
学校? なんでそんなところに? せっかくあの鬱陶しい場所から抜け出せたのに?
リーナの言った意味を掴めないでいると、ヴァリスが口を開いた。
「アルセア、昨日の事は覚えているな」
私はうん、とパンをかじりながら頷く。塗りつけたジャムがパンから零れ落ちて少し手に付いてしまった。
「なら、いい。たまにショックで無理やり記憶を消そうとする者もいるからな」
ヴァリスは私に布巾を渡して、
「今日の午後、引越しを始める。この島を出て、別のところへ行く。放浪生活だが国家から逃れるにはこうするしかないんだ。
お前には悪いとは思うが、今日で学校も、お前の家も見れるのは最後だ」
「そう、なんだ」
落ち込んだふりをして、その裏側では飛びまわりたくなるほどの嬉しさに満ちて、必死に笑いをこらえていた。
こんな場所をようやく離れることができるのだと思うと、口元がゆるみそうになった。
私は手に持っていたパンをすぐさま口に放り込み、飲み込むと立ち上がった。
「タツ、開けてくれる?」
ぶっきらぼうな物言いで言うと、タツは無言でうなずいてドアを開けてくれた。
一歩足を踏みだして、一瞬止まってから、
「今すぐ行ってくるよ。会いたい人なんかいないし、先生に辞めることだけ言って帰ってくる」
私は誰の返事も待たずに外へと飛び出した。
階段を駆け上がり、眩しい光の中を走っていく。
誰に教えられたわけではなかったが、何故か学校への道はすぐにわかった。
走って行く途中で、妙に足が軽いことに気がついた。昨日はふらふらで立つことさえできなかったのに。
BISTの力のおかげなのだろうか。とにかく、私は振り返ることもなく学校へ向かった。
校門へたどり着くと、朝練をしている部活動の連中以外は誰もいなさそうで、閑散としていた。げた箱へ行き、靴を履き替え、すぐそばにある職員室のドアをノックした。
「失礼します」
ドアを開けて、中へ入る。私のクラスの担任は、毎朝早くここへ来ていることは知っていた。中には数人の教師と、保健室の先生がいた。
「ティレイル先生」
私が声をかけた担任のティレイル先生は、長い金色の髪を揺らして私を見た。
「何か、アルセア」
ティレイル先生は私を生徒の一員としてまともに見る気はなさそうで、メガネを押さえ、嘲笑うように私の目を、顔を、顔の傷を眺めていた。
腹が立って何も言えないで黙っていると、ティレイル先生の方が嫌味ったらしく私の手を取って言った。
「何か相談でも? 気軽に乗ってあげるわよ」
「学校、今日でやめます。ありがとうございました」
必要な一言だけ告げると、無言で3秒ほどティレイル先生の顔を眺めて、唖然としているのを見届けて、何も言わずに職員室を出た。
教室へ行って、ロッカーから教科書を取り出して、全て窓から投げ捨てる。
バラバラと紙の塊が芝生に落ちていった。全て捨て終わると、私は上履きを脱いで捨てて、げた箱へと走った。
「アルセア! アルセア・キリカ!」
通るのは最後になるであろう廊下を走りだそうとしたその時、聞いたことのある声が聞こえた。
「やっぱりそうだ。アルセア、昨日祭りに来なかっただろ」
声の主は、私の隣の席に座っているオックスだった。朝練から戻ったばかりのようで、サッカー部の青いユニフォームを着たままだった。
長めの、耳に少しかかった茶髪が汗だか水だかで濡れている。ぽたぽたと水滴が垂れ落ちて、床に小さな水たまりができた。
「別に来なくても何も変わらないんだから、そんなにきつく言わなくても」
「言ってねぇよ。お前最近疲れたような顔してたからさ、風邪でも引いたんじゃないかと思っただけだよ」
「わざわざ面倒な心配をしなくても。私、今日で学校辞めるから」
オックスが、ティレイル先生みたいな顔で、は? と眉を寄せたまま固まった。
「な、なんだよ急に。意味わかんねぇし。っていうか、学校辞めるって本当か?」
「本当。嘘言ってどうするの」
「親父の転勤、とかなのか?」
しつこい。
さっさとこんな会話を断ち切って、ジョン達のところへ行かなきゃいけないのに。
「そんなベタな理由なわけないでしょ。もう学校には行かない。大学にもね。……私はもう決めたの。こんなつまらない生活はやめるって」
それだけ言い残すと、私はオックスを振り切るように駆けだした。オックスの叫んだ声が聞こえたような気がしたが、振り返る気はなかった。
何に目を留めることもなく、空気を断ち切ってあの白い建物へと目指して走った。
その日の午後、ビルの前に止まった軽自動車に乗って、私たちは知らない場所へと移動を始めた。
後部座席の窓際に、寝ているタツを隣に私は座った。
見慣れた景色はやがて知らないものとなって、外の景色を見るのも飽きて瞼を閉じた。
膝に乗せていた腕の力が抜けて、車の振動でずり落ちる。タツの腕に当たってしまった。触れた場所から、妙な熱が伝わってくる。それはまるで淹れたばかりのお茶のように熱かった。なんだろう、とゆっくり体を起してタツを見ると、風邪をひいたようにタツの体が赤くなっていた。
初めて会った時のように顔色が悪く、ぐったりしている。額に手を乗せると、温かい汗がついた。やはりタツは何かの病気なのだろうか。
会ってからほとんど元気なところを見たことがない。普通の男の子なら、街を走り回っていてもいいようなものなのだが。
為すこともなく右往左往していると、隣にいたリーナが目を覚ました。
「リーナ、タツが……」
「あら、また熱が出たのね」
悲しそうな、いや、見間違いでなければタツを憐れむような、そんな目でタツを見て言った。
「リミットが近づいているな。もって後一カ月といったところか」
気がつけば助手席にいたヴァリスが私とタツを見ていた。
「リミット? それってこの熱と関係あるの」
「ある。BISTERはいつまでもその力を使い続けられるわけじゃないんだ。人が使える力の容量には限界ってものがある。
それを越えると、こんな風に熱が出て体中の細胞が破壊される」
「その限界が、リミットってこと?」
そうだ、とヴァリスは頷いて、視線を前へと戻す。
「リミットが来たら、どうなるの」
「死ぬ。最後には内部の温度が50度を超えて、砂になって消えるんだ」
砂になって消える。一瞬、私は何も言えずに固まってしまった。何か熱いものが、胸の奥からじわじわと這い上がってくるのを感じた。
死の恐怖なんて捨てたと思っていたのに。
「消える……って、死体とか残らないの?」
「残らないよ。ロメオと戦った時、私たちが死体をそのまま放置しようとしていたのは覚えているか?」
昨日起こったことをゆっくりと思いだす。ロメオに襲われて、リーナが殺されかけて……。随分前のことのように思えた記憶が、徐々によみがえってきた。
「あ……、う、うん。ロメオが死んでいたら砂になる。だからあれは放っといても大丈夫なはずだったってこと?」
「あぁ。まさかあれで死んでなかったとは思わなかったがな」
仕方ないさ、とジョンがハンドルを回しながら言った。リミットがあることを皆知っているのに、私以外は冷静で、誰も心配などしていないようだった。死の心配だけじゃなくて、タツのことさえ当り前のこととして扱っているように見えたのだ。
タツの熱を測っているリーナの目にも、すでに表情はなかった。
「な、なんで皆そんなに冷静なの。仲間が死ぬかもしれないのに……」
そう言ってから、私は何かまずいことを言ってしまった気がした。車の中に静かな、重い空気が漂う。
「冷静じゃないと、やってられないんだ。君はなかったかもしれないが、僕たちは何十人と死体を見てきてるんだよ。
愛した人も、助けあった仲間もこうやって消えていくんだ」
喉から絞り出したような声で、ジョンは言った。そうだ、皆悲しくないわけじゃないんだ。感情を殺さなければいけないくらい、悲しいんだ。
ジョンの言葉を聞いて初めて、皆の気持ちがわかったような気がした。ジョンと初めて会ったときから感じていた妙な違和感は、殺した感情の残骸だったのだろう。時々皆の声に出る悲しさも、同じだったんだ。きっと私も、ここにいる限りはそれを体験することになるんだ。
昨日みたいな戦いで、もし誰かが死んだら……。
そんなことを考えていたら、右目から温かいものが零れ落ちた。そっと手で触れると、透明な液体が指を伝って服を濡らした。
「泣くなよ、こっちまで涙が出てきそうだ」
ヴァリスの声が聞こえた。そうだね、と心の中で呟いてから、涙を拭う。服に小さな染みができてしまった。
「着いたぞ。全員降りろ。リーナ、タツを下ろしてやってくれ」
ジョンが車のエンジンを止める。私たちはすぐに車から降りて、トランクから荷物……といっても数少ない服と食料だけだったが、手分けをして出した。
着いた場所は、小さな宿屋だった。雨、と木の看板に墨で書かれている。荷物を中へ運ぼうとすると、ポツ、と冷たい雨が降ってきた。空を見上げると、黒い曇り空が迫ってきている。慌てて宿の中へ入ると、急に外の地面を大量の雨が打ちつけ始めた。
荷物を引きずりながらジョン達の後ろをついていくと、奥の部屋から私よりも背の低いお婆さんが出てきた。
「おぅ、よく来たね、来月になればまた日が照るからそれまで辛抱だの……。おや、君は見ない顔だね。新入りかい?」
見た目よりも早口でしゃべるお婆さんは、杖によっかかりながら首を突き出して私を見上げてきた。思わずのけ反ってしまったが、なんとか首を縦に振ると、
「ふん、せいぜいがんばりな。ここの島にいる間はあんまし外に出るのは勧めないよ。一日中雨は降ってるし、年にほんの数日しか日が照らないんだからね」
雨の降り続ける島、なんて耳にはしたことはあったけど、実際に目で見るのは初めてだ。別に雨は嫌いではないが、外に出るのは面倒そうだし、
こんな場所で昨日みたいな戦いはしたくないと思った。私は荷物を部屋に入れて、机の上の埃をはたきながら、
「日が照らないって……、そんなにひどいんだ」
「神様のやることだからひどいってわけじゃぁないさ。ただ日が照らないだけだよ。それに来月は日照りの日がある。それまで辛抱だ」
お婆さんはそう言い残すと、また夕食時に、とそそくさと部屋から出て行ってしまった。残された私たちは借りた二つの部屋に荷物を分け、入口に近いほうの部屋をリーナとヴァリスと、3人で使うことにした。
私はリーナに言われるまま持ってきた洋服を棚の中にしまいながら、
「あのお婆さん、皆の事知ってたけど……何かの知り合い?」
「そうよ。今日みたいに世界中の島を移動するとなると毎回宿を見つけるのは大変だから、LEの中の誰かに知り合いがいれば、その人に部屋を借りることにしてるのよ」
リーナは少し濡れた私の髪をタオルで拭いて、
「今のお婆さんは私の友達だった人の叔母なのよ。BISTERの事は少しだけ知ってるわ」
「そっか」
きっと何度もここへ来たことがあるのだろう、私以外は皆、ここの部屋の扱いに慣れているようだった。場所を探すことも迷うこともなく荷物の整理なんかをしている。とまどっているのは私だけだ。
片付けが終わって、やることもなく床に座っていると、
「しばらくタツの様子を見てくるわ。アルセア、ヴァリスとしばらくここにいて」
「うん」
リーナが急に立ち上がって部屋を出て行った。
薄いガラスの張られた窓から、縁に肘を引っ掛けて外を眺めた。曇り空が、果てしなく遠くまで続いている。その恐ろしさを感じると、肌に寒気がした。元いた場所とはそんなに離れていないはずなのに、本当に別の世界へ来てしまったみたいだった。
そしてもう帰ることのできない、帰ることができたとしてもそれは1年後の話で、あの場所がほんの一瞬だけ、懐かしくなった。
ちらりと目線を来た方向へ動かして、それからまた雲の続く空を私は眺め始めた。