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夫と息子から不要と言われたので去ります

作者: 月猫百歩
掲載日:2026/08/20

 馬車に荷物を詰め込んで乗り込む。

「出して頂戴」

 馬車は揺れながら動き出す。私は今日、家族だと思っていた人達から去ることになった。

 空は曇天だが逆にそれが清々しく感じられた。


 ※ ※ ※


 二年前。私リディアはいつものように息子ウィリアムに読ませる本を持って部屋へ行った。ドアを開けようと取っ手に手を伸ばした時だった。中から楽しげな声が聞こえてきた。

「ウィリアム?」

 中を見ると菓子を食べながら木剣を振り回す五歳の息子の姿があった。

「まぁ! ウィリアム! なんてことを……」

「げ! 母上!」

 ウィリアムはあからさまに嫌な顔をして、傍にいた女性の膝にしがみついた。

「ねぇフローリア! うるさい母上が来ちゃった!」

「ウィリアム様。お母様をそのように言っては可哀想ですわ」

 まるで慈母のような顔でフローリアと呼ばれた女が困ったように微笑む。

 彼女は夫の幼馴染の妹であり――『恩人』だ。

「いらしていたのですね、フローリア・モルギスト侯爵令嬢」

「リディア・フューエルズ侯爵夫人、ご挨拶もなく申し訳ございません。でも、どうしてもウィリアム様から来て欲しいとお願いされまして……。あ、もちろんアレク様には許可を頂いております」

 私の夫……アレクサンドルの名前を気軽に口にするのね。胸の内側を軽く引っ掻かれた気がして、わずかに口が引き締まる。

「ウィリアム。もう読書の時間です。モルギスト侯爵令嬢にはお帰りいただきましょう」

「えー! 嫌だよ! フローリアともっと遊ぶ! 母上は勉強ばかりだ!」

 ウィリアムはさらにモルギスト令嬢にしがみつく。

「あなたは跡継ぎとしてしっかり学ばなければいけないのですよ?」

「午前中もさっきも本読んだしお稽古もした! 今日はもうおしまい!」

 ちらりとテーブルを見れば、何冊もの本が乱雑に広げられている。

「母上こそフローリアから学びなよ! フローリアは僕の気持ちを分かってくれて遊んでくれるもん」

 息子の反抗的な眼差しと口振りに思わず閉口する。いつからこうなったのだろうか。最初は声をかければ素直に頷いたのに、今では駄々をこねて嫌な顔を隠しもしない。

「まぁまぁウィリアム様、また遊びに参りますから。あ、そうだわ。今度は我が家にご招待しますわ」

 モルギスト侯爵令嬢がウィリアムの柔らかい髪を優しく撫でてなだめる。

「本当?」

 ウィリアムの顔が笑顔で溢れる。

「約束だよ! じゃあこれプレゼントね!」

 そう言うとポケットからルビーのブローチを取り出した。それは私がウィリアムにせがまれて譲ったブローチだった。

「ウィリアム! それは安易に人にあげる為に譲ったのではないのですよ!」

「これはもう僕のものでしょ! 母上のケチ!」

 胸がギュッと潰される感覚に襲われて手が震える。

 ウィリアムはなおモルギスト侯爵令嬢にブローチを差し出すと、彼女は困った顔をしてやんわり小さな手を握った。

「ウィリアム様。お母様を困らせてはだめですよ。それに私はウィリアム様のお父様からたくさんのプレゼントを頂いたばかりですの」

 その言葉に顔が凍った。しかし息子はパッと顔を輝かせてはしゃいだ。

「え! 父上からプレゼントもらったの? いいなー! 僕もフローリアにプレゼントしたかった! 一体いつもらったの?」

「この間の春風の祭典の日に。一緒にお店を回って買い物をしてくださったの」

 春風の祭典。ちょうどその日はウィリアムは夫の両親と過ごしていたから、私は夫に夫婦で出掛けようと声を掛けたのだ。しかし返ってきた言葉は……

「大事な用があって無理だ。行くなら君一人で行け」

 冷たい言葉に俯いて、結局一人で家で過ごした。春風の祭典とは反した冷え冷えとした日だった。

「じゃあウィリアム様、フューエルズ侯爵夫人。お邪魔致しましたわ。失礼します」

 彼女は優雅に頭を下げて私の横を通って退室した。

「待ってフローリア! 僕見送るよ! 一緒に行こう!」

 パタパタと私の横をウィリアムが駆けていく。私は一人部屋に取り残された。


 ※ ※ ※


 侍女達が散らかった部屋を掃除している間、自室に戻って椅子に座る。

 息子のわがままは最近はひどくなる一方だった。毎日していた読み聞かせも、テーブルマナーも日を増すごとに真面目に取り組まなくなった。

 理由は分かっている。フローリア・モルギスト侯爵令嬢が頻繁に相手をするようになってからだ。

 フローリアはウィリアムをとても甘やかした。菓子を好き放題与え、勉強の時間だというのに部屋に帰らず庭で遊びほうけたり。しかしそれを助長しているのが、最悪なことに夫のアレクサンドルだった。彼はフローリアがする事をすべて許している。以前、息子の勉学が遅れていると相談しても

「それを管理するのが君の役目ではないのか? それにフローリアは息子をよくみてくれる」

 と一蹴された。


「奥様、失礼します」

 ノックの後に執事長のガルドと私付きのメイド、アメリアが部屋に入ってきた。

「奥様、旦那様からご伝言です」

「アレクサンドル様から?」

「はい。旦那様とウィリアム様は外でお食事をなさるため、奥様のお食事は屋敷で用意するようにとのことです」

 それを聞いてすぐにピンときた。

「その食事にはモルギスト侯爵令嬢もご一緒なのかしら?」

 私の問いにアメリアが青ざめる。

「そ、それは……」

「旦那様は幼馴染のモルギスト家でお食事されるだけです」

 狼狽えるアメリアの言葉を遮るように淡々とガルドが告げる。

「奥様にはお好きなお食事を用意致しますのでお待ちください。失礼します」

 恭しく礼をしてガルドは踵を返すと退室した。私は息を吐いて目を伏せた。

「奥様……お気を確かに。旦那様も酷いですわ。いつも奥様との食事を断られるのに、よりによってあの令嬢と」

「いいのよアメリア。今に始まった事ではないわ」

 嫁いだ時からそうだった。常にフローリアを優先し、初夜の時でさえ彼女の体調が崩れたと聞くとモルギスト家へ馬車を出した。そして数日後戻ってくると、その日の夜、謝罪もないまま義務的に夫婦の営みを強いた。今思い出しても辛い夜だった。

 でもそのおかげでウィリアムを授かることができたのだが。

「奥様。私がシェフにとびきり美味しい食事を用意するよう伝えてきます。こうなったらたくさん美味しい夕食を楽しみましょう!」

 アメリアの励ましに心が少し温まる。微笑んで頷くと彼女も向日葵のように笑った。


 ※ ※ ※


「アメリア、今度アップルパイをシェフに作ってもらえるように伝えてもらえるかしら」

 食事を終えてデザートのリンゴのコンポートを見ながら口にする。

「アップルパイでございますか?」

「ええ、ウィリアムはもっと小さい頃からリンゴが大好きなの。アレクサンドル様は庶民的なものを嫌がるでしょうけど、きっとウィリアムは喜ぶと思うから」

 ウィリアムは昔は病弱でよく体調を崩していた。その度に付き添い、すりおろしたリンゴを食べさせては「美味しい」と呟く息子の額を撫でていた。

「承知しました。シェフに伝えます。奥様はウィリアム様がご病気の時は寝ずに付き添っていましたものね」

「そうね。きっともう覚えていないと思うけど」

 懐かしく思いながらデザートを食べ終えて口元を拭く。

「美味しかったわ。部屋に戻りましょう」

 立ち上がって食堂の扉に向かう。すると外から声が近づいてきた。

「フローリアのお菓子美味しかった! それにたくさん遊んでくれたし。父上、僕、しあわせです!」

 弾けるような笑い声はウィリアムのものだった。思わず扉の前で立ち止まる。

「父上がプレゼントしたブルーダイヤモンドのイヤリング、フローリア喜んでいましたね!」

 途端に喉の奥が締まった。彼女に希少なブルーダイヤモンドを贈った? 私には一度として贈り物をしたことはないのに。

「普段からお前の世話をしてもらっているからな」

 夫であるアレクサンドルの声は低くも優しげだった。

「父上、僕フローリアがお母様だと良かったです。優しくて明るくて、天使みたい。お父様もフローリアが好きでしょ?」

 頭を殴られたかのような衝撃を受けた。息子の言葉に心臓が早鐘を打ち、全身が強張る。

「ウィリアム、確かにフローリアは素晴らしい女性だが口を慎め。貴族たるもの、多弁なのは良いものではない」

「はーい」

 二人の声が扉の向こうから遠ざかっていく。それと同時に自分の意識も遠ざかるような感覚に襲われた。


 ※ ※ ※


 数日後、アメリアを連れて修道院を訪れる。

「こんにちは」

 にこやかに声をかけると奥から子供達が駆け寄ってくる。

「ミセス・マザースワンだ!」

「マザースワンいらっしゃい! 待ってました!」

 はしゃぐ子供達に後ろからシスターが慌てて追いかけてくる。

「これ! フューエルズ侯爵夫人とお呼びなさい! 侯爵夫人に失礼でしょう!」

 たしなめるシスターに私は首を横に振った。

「構いませんシスター。子供達に愛称で呼ばれて嬉しいです」

 屈んで子供達の顔を見て微笑む。

「みんな良い子にしていましたか? 今日は白いパンとリンゴをたくさん持ってきました」

 途端に子供達から歓声が上がる。

「やったー! 白いパンだ!」

「シスター焼きリンゴ食べたいです!」

「ミセス・マザースワン、あとご本読んでください!」

 親のいない子供達の溢れるような笑顔が眩しい。真っ直ぐに向けられる無邪気な喜び、愛情。どれもが心に温かさを呼び起こしてくれる。

「じゃあみなさん。お食事のあと、外のお庭で本を読みましょう」

 声をかけると一斉に元気のいい声が上がった。


 子供達とのひと時を過ごして修道院を後にする。馬車に揺られながら林並木から街へと風景が変わった。

「子供達、喜んでいましたね」

 アメリアが微笑んで膝掛けを直してくれる。

「ええ。元気そうで良かったわ」

 そう言って外に目を向けた時、街の中に立つウィリアムの姿を見つけた。

「ウィリアム? どうしてここに……」

 今は屋敷でダンスの練習をしているはずなのに。

「馬車を止めて」

 御者に声をかけたその時、ウィリアムが人とぶつかって地面に倒れた。

「ウィリアム!」

「あ! 奥様!」

 馬車から飛び出して一目散に息子へ駆け寄る。しかし人をかき分けて目の前まで来た時に、飛び込んできた人影に遮られた。

「大丈夫ですか!?」

 息子の背中に手を添えたのはフローリア・モルギスト侯爵令嬢だった。

「怪我はありませんか?」

「うん……」

 ウィリアムが立ち上がると、ぶつかった男性が慌てて頭を下げた。

「これは失礼を致しました! 大事なご子息にぶつかってしまいました! 申し訳ございません奥様」

 彼の言葉にフローリアは嬉しそうに微笑み、奥様という事を否定せずに頷いた。

「これからは気をつけて」

 彼女はウィリアムを気にかけながら彼の服の埃を払った。

「ウィリアム……」

 思わず呟くと、二人はハッとして振り返った。三人が黙って見つめると、男性がまたもや慌てて声を上げた。

「あ! こちらが奥様でしたか? これはとんだ失礼を……」

「ううん、おじさん。こっちが僕の母上だよ」

 男性の声を遮りウィリアムはフローリアに抱きつく。そして冷たい目で私を見た。

「この女の人、僕、知らない」

 全身から血の気が引いた。何も言えずただ立ち尽くす。周囲の音が遠ざかるような感覚に襲われる。

「ほらほら、大丈夫ですから」

 フローリアは、誰もが慈悲深い人だと思うような笑みを浮かべると、ウィリアムを抱きしめて男性に微笑んでみせた。

「もう平気ですので、行ってくださいな」

「あ、ああ、はぁ。分かりました。失礼します」

 男性は奇妙なものを見たような顔をしながらも愛想笑いをして立ち去った。

「フューエルズ侯爵夫人。ご気分を悪くなさらないで下さい。きっとウィリアム様は悪気があったわけではありませんわ」

 フローリアは上目遣いに甘えたような顔をして私を見た。

「やめてよフローリア! 僕は本当に母上はフローリアが良いって思ってるんだから。だからフローリアは堂々としていてよ! 父上だってフローリアが大好きなんだから」

 彼女のドレスにしがみつきながらウィリアムは抗議の声を上げる。その様子に次第に人々の注目も集まってくる。

「何を騒いでいる」

 低い声がしてそちらに目を向けると、長身の威圧感のある姿が見えた。夫のアレクサンドルがこちらへ歩いてくるところだった。

「アレクサンドル様……」

「父上!」

 ウィリアムがパッとアレクサンドルに駆け寄り見上げた。

「僕が人にぶつかって倒れた時、フローリアが助けてくれたんだ」

「まぁそんな……当然のことをしただけで特別なことは何も」

 頬を染めるフローリア侯爵令嬢は謙虚な態度で目を伏せた。その姿は慎ましい女性そのものだった。

「フローリアすまなかったな。また世話をかけた」

 その声は普段私に向けられるものとは正反対のものだった。優しく愛情に満ちている。

 この三人が一つの視界に収まると本当の家族のようだった。お互い笑い合い、慈しみ合っているような。

 ふとアレクサンドルがこちらを見た。

「何を突っ立っている」

「え……?」

「この場で何もできなかった者は去れ。恥を晒すな」

 何も言えなかった。呼吸すら忘れそうになる。

「お待ち下さい旦那様!」

 背後からアメリアの震える声が上がった。

「奥様はウィリアム様がお倒れになった時、馬車から飛び出して駆け寄りました。それなのに」

「申し訳ございません!」

 突然わっとフローリア侯爵令嬢が涙をこぼし始めた。

「私が咄嗟にウィリアム様に手を差し伸べたばかりに、奥様が誤解されまして……余計なことを致しましたわ」

 周囲の人達が憂いている令嬢に何事かと足を止めて囁き合う。

「あの泣いている令嬢が子供を守ったみたいだけど……」

「なら母親は何をしていたの?」

「いや、どちらが母親だ?」

 人々はそれぞれの憶測を囁き出し、好奇心や心配の念を覗かせる。

「リディア」

 久しぶりに呼ばれた私の名前は冷たく蔑むものだった。

「醜い嫉妬はよせ。躾のなっていない侍女を連れて早く馬車に乗って屋敷に戻れ」

 吐き捨てるように言うと、フローリア侯爵令嬢を支えて向こうに停めている馬車へ連れ出した。ウィリアムもまた二人の後を追う。そして振り向きざまに私へ冷たい勝ち誇った笑みを向けた。


 ※ ※ ※


 どうやって屋敷に戻ったのか覚えていなかった。気づいたら朝になり、自室で目が覚めた。

 アメリアが気遣わしげに朝の支度を手伝い、髪を結い終えた時だった。

「失礼します」

 ノックの音が聞こえてアメリアが扉を開けると、ガルドが入ってきた。

「旦那様からのご指示で、今後は奥様には別邸で過ごされますようにとのことです」

「別邸ですって?」

「はい。領地内の緑豊かな所です。明後日までには移動の準備を終えるようにとのことです」

 アメリアの息を呑む音が聞こえた。私も無意識に浅い息を吐いた。

「ウィリアムはどうするのです?」

「今後は旦那様とフローリア・モルギスト御令嬢がウィリアム様の教育を行います。これは決定事項です」

 相変わらず無表情に告げるガルドは、これ以上は話すことはないと言わんばかりに頭を下げると「失礼します」そう言って退室した。

 頭の中は真っ白だった。この五年間必死にやってきたことは、愛情を込めてきたのはなんだったのか。あの親子に比べれば私は取るに足らないどころか厄介者なのだ。

「アメリア」

「はい、奥様……」

「すぐに支度をして」

 スッと冷えた心と頭に自分のすべきことが見えてくる。

「できるだけ早くここを去るわよ。その前に手紙の用意をして。至急私の叔父様に連絡をとりたいの」


 ※ ※ ※


 使用人やメイドを総動員して別邸に行く準備を整える。気持ちが決まれば、自然と行動も指示も早くなる。

 あの親子は今日まで一度も帰ってこず、連絡一つ寄越さなかった。ただその分手際よく物事が運んでありがたかった。


 そして別邸に移る当日、早朝から馬車を出した。

 窓から映るのは嫁いでからずっと過ごしていた屋敷。私の人生第二の家だった屋敷。それも今日で終わりだ。


 別邸に着くと最低限の家財しかなく、質素だった。それでも構わなかった。

 今までは夫と息子の嗜好を優先し、花ひとつ飾るのさえ気を配っていたが、ここではその必要もない。

「みんな着いて早々申し訳ないけど、荷物運びをお願い」

 次々に運ばれる荷物。とは言っても他の貴族夫人に比べればそんなに多くはないはず。ドレスも必要最低限の物しかなく、装飾品も嫁いできた時の物ばかりだ。

 社交界に出る時は夫は幼馴染兄妹と出席して、私とは行きたがらなかった。おかげで華美なドレスも装飾品も私にはない。本当に必要最低限のものばかりだった。


 予定通りものの数時間で生活基盤が整う。使用人たちを労い、ここに残る最低限の侍女たちを残し、他は本邸へ帰っていく。

「通常なら侯爵夫人となれば数日は引っ越しに掛かるでしょうに……」

 アメリアが悲しげに呟く。

「良いのよ。おかげで事が早く進むわ」

 私はさっそく机に向かい帳簿を取り出した。そこにはわざわざ早馬で送られてきた叔父からの手紙が挟まっていた。

「良かったわ。叔父様が領地に戻られていて」

 帳簿の金額と叔父との手紙の内容を確認していく。

「日陰者だったのが良い結果になりそうなんて皮肉ね」

 思わず口端を上げると、アメリアが優しい香りの紅茶を運んできた。

「奥様。リディア奥様。私はいつまでも、どこまでも奥様についていきますから」

 真剣な眼差しに頷き返す。

「ありがとう。あなたにも協力してもらうわ。そして絶対に私についてきたことに、後悔させないから」

 私はペンを取って紙に今後のことを書き出した。



 ※ ※ ※


 二年経った。あれから夫アレクサンドルも息子ウィリアムも手紙ひとつ寄越さなかった。

 たまにくる私的な手紙といえば、フローリア・モルギスト侯爵令嬢の謝罪文や気遣いという体の夫と息子の近況だった。

『今日は三人でピクニックに行った』『ウィリアム様は活発で教師顔負けの発言をする』『アレク様は私にオーダーメイドのサファイアの指輪をくださった』

『夏のガーデンでは三人で出席した。悪く思わないで』『ウィリアム様は私を母上と呼ぶのだけれど、きっと寂しさからだと思う』

 そんな感じの手紙を飽きもせず送ってくる。私はそれらを丁寧に保管していた。


「奥様。お客様です。叔父様がお見えになりました」

 思わず立ち上がり書類を束ねる。

「ありがとう。応接室にはお通しした?」

「はい。すでに」

「叔父様はコーヒーがお好きだからこの間取り寄せたコーヒー豆を用意して」

「承知しました!」

 やっとこの日が来た。身支度を整えて急いでドアへ向かった。


「おお、リディー。以前より顔色が明るいな」

「叔父様! お待ちしておりました」

 叔父とはこの二年間で三度目の再会となる。叔父は貴族でありながら冒険家であり商いもやっている。とても忙しいのだ。

「叔父様、お座りになって。今トトラナイガから取り寄せたコーヒー豆を用意させていますから」

「なんと! そこまで手を伸ばせるようになったか! いやぁなかなかの手腕だな。師匠がいいからかのう?」

 その言葉にふふっと声をこぼす。

「もちろんですわ。叔父様という素晴らしい先生がおりましたから、私もここまで来れました」

「失礼します」

 アメリアがコーヒーを運び、ミルクと砂糖壺と共に丁寧に配る。

「ん〜いい香りだ。トトラナイガの陽射しを思い出すよ」

「叔父様が一番思い入れがあると聞きまして用意を」

「気の利く姪に感謝だな」

 嬉しそうに叔父が香りを楽しみながらコーヒーを口にする。自分はミルクを少量と砂糖をひと匙入れて飲む。苦味と甘味が絶妙に合わさり心地良い香りに包まれる。

「ところで……」

 叔父がカップから顔を上げて真っ直ぐにこちらを見る。

「こちらは準備は全て整っている。覚悟は決まっているのか?」

「もちろんです。でなければこの二年間の苦労と努力は意味のないものとなります。全てはあの時の決心から来ているのですから」

 背筋を伸ばして真っ直ぐに見つめ返す。自分の決意は鈍らないどころか、時間が経つに連れて鋭く固くなっている。

「そうか」

 叔父が頷きニコリと笑った。

「健闘を祈るよ」



 ※ ※ ※


 数日後。

 馬車に荷物を詰め込んで乗り込む。

「出して頂戴」

 馬車は揺れながら動き出す。私は今日、家族だと思っていた人達から去ることになった。

 空は曇天だが逆にそれが清々しく感じられた。

「奥様……いえ、リディア様。いよいよですね」

 アメリアが興奮したように鼻息を荒くする。

「そうね。今頃本邸はどうなっているかしら。素直に応じてくれたら良いのだけれど」


 転居先の屋敷に到着すると叔父と従兄弟、そして兄達が屋敷の前で待っていた。

「叔父様! ライナー! お兄様達も!」

 馬車から身を乗り出して手を振る。叔父は快活に笑うが従兄弟は苦笑いし、兄達は顔を見合わせていた。

 馬車から降りてそれぞれに抱擁する。

「待っていてくださってありがとうございます」

 改めてお礼をすると、兄達は少し顔を顰めた。

「こんな事になるならなぜ早く言わなかった?」「ああまったくだ。全部一人で抱え込んで。相談してくれたら俺たちが抗議したのに」

 どこか拗ねた兄達に申し訳ない気持ちで首を振る。

「ごめんなさいお兄様達。でもお兄様達は家庭もあるし仕事もあるわ。迷惑かけられなかったの」

 事実兄達は引退した父に代わって実家の領地を経営している。上の兄は都市部に近い土地を、下の兄は隣国との境界付近を任されている。どちらも領地経営には欠かせない存在なのだ。

「まぁまずは立ち話もあれですから、屋敷に入りましょう」

 従兄弟のライナーがやんわりと促して、屋敷に向かう。兄達が数少ないトランクを持つとさっさと屋敷の中へと入っていった。


 荷解きも終わり応接間で話をしていると、外から馬の駆け足が聞こえてきた。

「ワシが出よう」

 叔父がゆっくりと立ち上がり、まるで散歩でもいくような足取りで応接間を出ていく。

 数分後、叔父が手紙の束を持って現れた。

「すべてリディー宛の手紙だ。何か良い知らせがあると良いが」

 手紙を一つ一つ確認していく。それらを見て思わず口端を上げる。

「俺にも見せてくれ」

 兄達やライナーが読み終わった手紙を手に取る。するとみるみる青筋を立てて目を血走らせた。

「お兄様達。破ってはダメですよ? 素敵なラブレターなんですから」

 歯軋りする兄達を見て笑みをこぼす。

 さて、数日後は楽しい楽しい裁判だわ。



 ※ ※ ※


 裁判所には人だかりができていた。

 侯爵夫妻の離婚裁判。しかも申し立ては妻。立場の弱い妻が離婚申立てをするのはとても稀である。しかもそこらの低貴族ではなく侯爵。

 皆がこぞって裁判のいく末を見ようとあちこちの貴族が傍聴席に集まっている。まさに良い見せ物ね。

「リディア様。絶対に勝ちましょう」

 アメリアがギュッと控え室で手を握ってくれる。私は頷き、微笑んだ。

「ええ、必ず」


 法廷に出る前に手洗いを済ませて廊下を歩く。すると背後から肩を掴まれた。

「おい」

 振り返るとアレクサンドルがこめかみに青筋を立てて視線だけで人を殺せるような目を向けていた。

「あらアレクサンドル様。お久しぶりでございますわね。ご機嫌よう」

「自分が何をしたか分かっているのかっ」

 奥歯を噛み締めながら話しているのか、獣が唸っているように聞こえる。

「もちろんです。でなければ本日法廷に立ちにきたりなどしません」

「負けるくせに」

 彼は冷酷な笑みを浮かべた。

「なぜそうお思いに?」

「手紙に書いたはずだ。俺はやましいことはしていない。これはすべてお前の嫉妬が作り出した馬鹿げた騒動だ。どう償うつもりだ? それに離婚して困るのはお前だぞリディア。息子にも会えず実家に帰って日陰者として暮らすつもりか? それに二人の兄はすでに既婚者で家庭がある。お前に居場所はない」

 顎を持ち上げて傲慢に笑うと、掴んだ肩に力を入れて無理矢理向き合わされる。

「物乞いなんてしたくないだろう。それに子を産んだ地味な女のお前を誰が拾って相手にする? 今謝罪すれば許してやる。皆の前で頭を下げて己の過ちを謝罪してこい。自分の愚かな嫉妬で我を失っていたと」

 その言葉に私は何も感じなかった。驚くほど心が凪いでいた。

「仰りたいことはそれだけで宜しいですか? 侯爵様」

 アレクサンドルの顔がみるみる赤く染まっていく。それはもうこの場で憤死するんじゃないかと思うくらい。

「そろそろ離して頂けます? このままだと通行の邪魔になるかと」

 目配せして、廊下の奥に人が数人こちらを好奇心の目で見ていると促す。彼は憎々しげに口をひきつらせて肩から手を離した。

「ではアレクサンドル様。よき日を」

 ドレスを摘んで恭しく頭を下げると踵を返した。そのまま廊下を通り見物人を通り過ぎた時、廊下に佇む彼が垂れた両手に握り拳を作っていたのが見えた。



 ※ ※ ※



 法廷に出廷すると木槌が響いた。

「ではこれより、フューエルズ侯爵夫妻の離婚裁判を開廷する」

 重々しい裁判長の声が法廷に広がる。法廷内はさざなみの様な囁き声があり、人々の憶測と好奇心がひしめき合う。

「申立人、リディア・フューエルズ侯爵夫人」

「はい」

 椅子から立ち上がり、前に出る。

「夫人は夫アレクサンドル・フューエルズ侯爵との離婚を望んでいる。間違いありませんか?」

 背筋を伸ばして顎を引く。

「間違いありません」

 傍聴席が僅かにざわめいた。

「夫アレクサンドル・フューエルズ侯爵。貴方はこの離婚を受け入れますか?」

「いいえ。受け入れません。なぜならこれは妻が嫉妬に狂った末の申立てなのですから」

 声こそ上がらないが、人々の間に息を呑む気配が広がった。

 耳をすませば聞こえる。「これの真相はなんなのか」「これは不倫疑惑からの騒ぎ?」「奥様って社交界に出ないわよね」「そもそも離婚を申し立てる金はどこから?」

 そうでしょうとも。皆さん気になるでしょうとも。語りたくなる気持ちを抑えて、なるべく平静を装い澄ました顔を作る。

「リディア・フューエルズ夫人。離婚を申し立てたのなら、離婚するための根拠はおありですか?」

「はい。まず夫は夫の幼馴染であるエリック・モルギスト侯爵の妹君、フローリア侯爵令嬢と社交の場へ頻繁に参加されていました。私は常に屋敷に留まるよう命じられていました」

 これにはこの場にいる貴族達も知っているだろう。わざわざ証人を探す必要もない。

「裁判長。発言をいたします」

「フューエルズ侯爵、発言して下さい」

 彼はスッと長身を椅子から立たせると、堂々と前に出た。

「妻は内気で体が弱く、社交には向いていません。すべて妻を思ってのことです。我が家の主治医の診断記録にもあります。妻は産後から体が弱いと。しかも必ず社交の日が近づくにつれて不調の兆しがあったのです」

 その言葉に周囲が囁き合う。「夫人はプレッシャーに弱い方なのね」「確かに一度も社交界にご出席なさらなかった」

 これは嘘だ。私はアメリアと共にドレスのカタログを見て楽しみにしていたし、アメリアと共にダンスの練習もした。しかしいつまで経っても仕立て屋は来ず、開催日の詳細が知らされる事なく、気づけば社交の場は終わっていたのだ。

「フューエルズ夫人。何か異論は?」

 裁判長の声が向けられる。

「これは嘘です。私は体調は崩してはいませんし、ドレスの用意やダンスの練習をしていました」

「その証拠は? 例えば作ったドレスや、ダンスの指導者は誰ですか?」

「ドレスは仕立て屋がこなかったので作れませんでした。ダンスの練習は私付きの侍女としました」

 傍聴席から抑えた失笑がいくつかこぼれた。アレクサンドルも口元に暗い笑みを浮かべている。

「妻はこの様に言いますが、事実社交用のドレスを一つも作っておりません。行く気が無かったのです。私は仕方なく幼馴染の妹の厚意でこれまでの社交場に参加したのです」

 ここで否定しても水掛け論だ。しかもタチの悪いことに嘘の診断まで捏造している。それが嘘だという証拠も持ってない。

「フューエルズ侯爵夫人、この事に何か発言はありますか?」

「私の主張は変わりません。ですがこの件に関しては以後、発言を控えます」

「分かりました。ではこの社交に関しては話を終えます」

 木槌が叩かれると、少し大きなざわめきが溢れた。でもまだ平気だ。

「ではフューエルズ侯爵夫人、他に何かありますか?」

「はい。夫アレクサンドル様はそのフローリア侯爵令嬢に贈り物をしています。ルビーの首飾り、ブルーダイヤモンドのイヤリング、サファイアの指輪。そのほかにも様々。宝石商に購入の記録もありますし、フローリア侯爵令嬢が私に宛てた手紙にも記載されています」

 証拠書類を書記官に渡すと、それが裁判長へ手渡された。裁判長は書類に目を走らせて頷いた。

「確かな記録の様ですな。フューエルズ侯爵。貴方はこれについて何か発言はありますか?」

「はい。これは普段から妻の代理として息子を可愛がり、社交界に付き合ってくれている侯爵令嬢への感謝です。やましいものではありません。私の使用人やモルギスト侯爵家の者に聞けば分かることです。証人を召喚します」

 そう言うと一人の老紳士が現れた。身なりからして執事だろう。白髪をオールバックにし、深い皺の刻まれた顔には長年の経験が滲んでいた。

「モルギスト侯爵家の執事長ギュリエルと申します。先ほどのフューエルズ侯爵様の発言は誠でございます。モルギスト侯爵家でフューエルズ侯爵様のご子息ウィリアム様とフローリアお嬢様は、時折フューエルズ侯爵様を交えてよく客間や庭で健全に戯れておりました」

 この言葉に誰もがほぼ確信を持って囁き出した。「これは夫人の嫉妬疑惑の裁判ではないか」「高額な申立て金を払い嫉妬に狂って離婚を望んだのでは」と頷き合う。

「静粛に」

 木槌の音が鳴り響く。木々のざわめきの様だった囁き声が消えた。

「フューエルズ侯爵夫人。何か異論はありますか?」

「はい。一つモルギスト侯爵家執事長に質問がございます」

「質問を許します」

 私は落ち着き静かに佇む彼に目を向ける。

「フローリア侯爵令嬢の手紙には息子ウィリアムが侯爵令嬢のことを母上と呼んでいる様ですが」

「フューエルズ侯爵夫人が二年もの長きにわたり不在であられたため、母恋しさにそうお呼びになった事は幾度かございます」

「その度にフローリア侯爵令嬢は訂正されましたか?」

「貴女様のご子息ウィリアム様は繊細な子であられますので、心優しいフローリアお嬢様は否定できませんでした。どうか寛大なお心でお許し下さい」

 傍聴席の誰もが哀れみの声を漏らした。きっとこの場の誰もがフローリア侯爵令嬢を慈悲深い女性だと思い、私は嫉妬深く冷徹な世間知らずの夫人に映っているのでしょうね。

「分かりました。裁判長。私からの質問は以上です」

「分かりました。ではフューエルズ侯爵からは何かございますか?」

「いいえ。ありません。ただ……強いて言えば一度休廷をお願いしたく思います。妻は今、相当疲れているでしょうから」

 一度も向けられたことのない優しい眼差しを向けられる。この眼差しはよく知っている。なぜならフローリア侯爵令嬢に毎回向けられていたものだからだ。

「うむ、そうしましょう。では一度休廷に入ります」

 カンカンと高い音が鳴り響いた。その瞬間、どっと人々が堰を切ったように話し始めた。

「侯爵様は離婚を申し立てた奥様のお体の心配までなさるなんて」「お優しい方」「奥様はなぜ二年間もご子息の傍を離れていたのでしょう。お可哀想に」

 書類を整理して付き人に合図すると自身も立ち上がり、廊下へ出る。確かに少し疲れはしたがこれからの事を思うと力がみなぎる。控え室に向かおうとした時、前を歩く付き人が立ち止まった。彼越しに向こうを見ると、勝ち誇った顔をしたアレクサンドルが立っていた。

「妻と話がしたい。皆下がってくれ」

 付き人とアメリアが前に立ち塞がり、私の視界から夫の体が消える。しかし長身の彼の顔だけは隠れなかったが。

「何を考えているのですか。今は裁判の真っ只中ですよ?」

 付き人兼護衛のルドランが彼を睨みつける。そんな彼をアレクサンドルは鼻で笑って私に目を向けた。

「もうよそうじゃないか。時間の無駄だ。聞こえているだろう? 嫉妬に狂った妻が裁判を起こしたと皆が騒いでいる」

「それはまだ皆様が事実を知らないからです。あなたこそ恥ずかしくないのですか? 私の体が弱いなどと嘘を言って」

「恥に関しては君はどうだ? 有りもしない浮気に嫉妬を燃やしてこの騒ぎを起こし、家の恥を晒すなど」

 私は思わず吹き出した。それを見て彼が少し眉を顰めた。

「嫉妬? 嫉妬で私が裁判を起こしたと? そう仰るのですか」

「意地を張るな。それ以外に何がある」

 私は深く息を吐いて顔を上げた。そして付き人達に声をかける。

「皆さん、控え室に行きましょう。侯爵様。また後ほど」

 付き人達に囲まれながら夫の横を通り過ぎようとしたが、彼らを押しのけてアレクサンドルが私の腕を掴んだ。

「何を……」

「いい加減にしろリディア。これ以上ごねるなら表を歩けない様にするぞ」

 強く腕を握られて痛みが走る。慌てて付き人達が総がかりで押し退ける。

「侯爵様! 乱暴はおよし下さい!」

「奥様! 誰か! 人を呼んで!」

 付き人に続いてアメリアが悲鳴を上げる。すぐさま人が来て侯爵が手を離す。

「いかがなさいました!?」

 衛兵が駆けつけて私と夫を交互に見やる。

「いや、何でもない。妻が駄々を捏ねているので叱っただけだ。君達も持ち場に戻ってくれ」

 アレクサンドルは先ほどの剣幕などなかったかの様に優雅に身を翻して立ち去った。

「奥様、お怪我は?」

 アメリアが私の腕を捲ってみると、ぼんやり赤く痕が残っていた。

「大丈夫よ。問題ないわ。それよりこれからの事を改めて整理していきましょう」

 心配するアメリアの肩を叩いて控え室に向かった。



 ※ ※ ※


「裁判の続きを行います」

 木槌と裁判長の声が響く。

「申立人リディア・フューエルズ侯爵夫人。他に何か離婚事由となるものはありますか?」

「はい。ございます」

 傍聴席の人々が耳を傾けて注目する。

「先ほどの宝石商の記録ですが、全てフローリア侯爵令嬢への感謝の贈り物ということで間違いないとのこと。そうですね? 裁判長、アレクサンドル様」

 裁判長は頷き、アレクサンドルも異論はないと黙ってこちらを見つめる。私は背筋を伸ばし口を開いた。

「という事は、妻である私には夫のアレクサンドル様は一度たりとも贈り物をしたことがないという決定的な証拠です」

 傍聴席から「なんと、一度も……!」と驚きの声が上がる。

「仕立屋、宝石商の記録とフローリア侯爵令嬢のドレス、宝飾品は一致しております。また多くの社交場で皆様はすでに彼女が身につけているのをご覧になっているかと」

 現に今も自分は華美なドレスも宝飾品も身につけていない。今の私が身に纏っているのは、この二年間、自力で稼いで得た衣装と装飾品だけだ。

「いえ裁判長。私は妻に月に侯爵夫人としての品位を維持する為の費用を与えています。しかし妻は使わなかったのです」

 即座に否定してきたアレクサンドルに目を向けてから、裁判長に向き直る。

「裁判長。今の発言をお聞きになりましたか? 品位の維持として費用を与えていたとアレクサンドル様は仰っています。つまり夫としての愛情を与えるのではなく、義務だけを行なっていると本人が認めています」

「ふむ……フローリア侯爵令嬢に贈り物を贈りながらも、妻の貴女には無かったという事ですね」

「はい」

 裁判長の言葉に頷く。

 夫はぐっと口を強く結び、暗く鋭い目をこちらに向けていた。

「また裁判長、私はこの二年間、夫の命で別邸での生活を強いられてきました。そしてその間私から夫と息子へ手紙を送りましたが、二人から手紙を貰ったことはありません」

 傍聴席が湖面に石を投げかけるが如くにわかに騒がしくなった。

「お待ちを裁判長。それは妻の妄想です」

 アレクサンドルは余裕がある笑みを唇に浮かべてゆったりと前に出た。

「私は育児ノイローゼになった妻を療養させる為に別邸に送ったのです。妻のためです。それに妻からも手紙など一通もきておりませんでした。屋敷中を捜査して頂いても構いません。妻の手紙など一枚も出てこないでしょう」

 なるほど。すでに処分済みと言ったところでしょう。私が書いた手紙も本館から来た従者に渡していたからすぐ揉み消せる。

 裁判長が渋い顔をした。

「フューエルズ侯爵。その話は誠でございますか?」

「ええ。息子ウィリアムも母親であるリディアが不安定な為、私と息子が懇意にしているフローリア侯爵令嬢に教育を任せることになりました」

「幼馴染の妹君にですか?」

「はい。彼女は私が昔、旅先で大病した時に寝ずに看病してくれた恩人です。そんな彼女との間にやましいことなど存在しません。フローリア・モルギスト侯爵令嬢は聖女のような女性です」

 ああ。夫のアレクサンドルはそれで彼女を盲信していたのか。呆れながらこっそり息を吐いた。

「フューエルズ侯爵夫人。何か意見はございますか?」

 私は手元の資料を出して掲げた。

「私は夫と息子に手紙を二日に一度は出していました。これはその写しです」

 割り印のある手紙の束をその場の全員に指し示し、手紙の端にある印章を指差した。

「この印章は、夫と息子へ送った手紙と、この写しの内容が同一であることをルイビナ司祭様が認めたものです。また私が本館の従者に手紙を渡したのを司祭様の遣いが確認しています」

 おそらく夫の従者は私が手紙を渡している時に控えていた人物を、私が雇った使用人とでも思っていたに違いない。そうでなければ、目の前の夫が青筋を立てて歯を食いしばるはずもないのだから。

「裁判長、ここで証人を召喚します」

「分かりました。証人は前へどうぞ」

 皆が注目するなか現れたのは私に協力して貰ったルイビナ司祭の遣いの一人、セレス副司祭だった。

「ホロルー神殿に仕えます、セレス・ロンディアンです。神に誓い嘘偽りなく証言致します」

 人々が驚きの声をあげる。それもそうだろう。わざわざ副司祭が証人としてこの場にいるのだから。

「今年の雪解の祝日のひと月後のことです。フューエルズ侯爵夫人と侯爵の遣いの方が話されていた際、私は庭先におりました。フューエルズ侯爵の遣いが夫人に『もう手紙を寄越すな。私も息子ウィリアムも迷惑している』との内容を伝えていました。夫人が涙ながらに「なぜですか」と問うと、遣いの方が『旦那様も御子息もフローリア御令嬢がいるので、奥様はこちらの別邸で過ごされて構わない、との事です』と淡々と告げました」

 そう。誰が聞いても明らかでしょう。フローリア侯爵令嬢がいるから夫も息子も私は用無しだと言っているのだ。

「このように夫アレクサンドル様と息子ウィリアムは私を別邸に追放し家庭から遠ざけ、二年間放置しました。さらにこれ以上は手紙を送るなと使者を遣わせ、常日頃から感謝の印として装飾品を贈っているフローリア侯爵令嬢の滞在を容認している旨まで伝えられました」

 改めて背筋を伸ばし静かに、しかしハッキリと告げる。

「これは立派な離婚事由になるのではないですか?」

 法廷が水を打ったように静まり返る。そしてわずかな沈黙の後、裁判長が頷きながら口を開いた。

「分かりました。リディア・フューエルズ侯爵夫人、ありがとうございます。……アレクサンドル・フューエルズ侯爵。何か発言はありますか?」

 物音ひとつしない法廷に夫の底冷えする殺気が放たれる。彼は怒りを抑え込むように一度息を吐くと、目の奥で冷笑しながら私を見た。

「離婚を受け入れます」

 その言葉に法廷中がざわめいたが夫の「しかし」との声にまた静まり返る。

「跡継ぎである息子ウィリアムの親権は私に、そして財産分与は一切しないことが条件です」

 顔は無表情だがその眼差しは冷酷に笑っていた。まるで悪魔だ。さすがと言うべきね。

「侯爵夫人。異論はありますか?」

 私は顎を引いてまっすぐ前を見据えた。

「ありません」

 その時アレクサンドルは目を見開き、顔を青ざめた。信じられないと言った表情だった。私が息子も財産も手放すとは、夢にも思っていなかったのだろう。

「裁判長、妻は混乱しているようです。もう一度休廷を」

「必要ありません。私は親権も財産も争いません」

 今度こそアレクサンドルは黙った。私も裁判長に顔を向けて頷いた。

「分かりました。では本件については提出された証拠証言を精査し、後日判決を言い渡します。本日は閉廷致します」

 木槌の乾いた甲高い音が鳴り響いた。



 ※ ※ ※


「お疲れ様でございました奥様」

 アメリアがお茶を運んで労いの言葉をかけてくれる。

「ありがとうアメリア」

 屋敷のソファに身を沈めるとゆっくりカップに口をつけた。

 あの後、証人に来てくれたセレス副司祭に丁重な礼をして送り届けた。副司祭は春の日差しのような微笑みで私の幸せを祈ってくれた。

「ここは落ち着くわね」

 庭を眺めて目を細める。ここは叔父の領地にあるいくつかある屋敷の一つだ。叔父の厚意に甘えて今はここで暮らしている。

「最初は奥様の叔父様はかなり変わった方だと思いましたが、とても情け深い素晴らしい方ですね」

「そうね。ただあまり落ち着きのない方だから相変わらず独身だけど」

 しょっちゅう海外やら未開地へ行ってしまう叔父は家に帰らない。だからこそ自分の兄達が領地を堅実に守っているのだが、誰も叔父を悪く言わないのは先見の明があり、人の情に厚いところがあるからだ。現に私の離婚騒動にも力を貸し、今は領地に留まってくれている。

「失礼します」

 ノックの後に侍女の声が聞こえた。

「はい」

 アメリアがすぐさま扉を開ける。

「奥様宛にお手紙と贈り物が届きました」

「どなたからですか?」

「フューエルズ侯爵様からです」

 思わずアメリアと顔を見合わせた。

 私はカップを置くと侍女から手紙を受け取って中身を確認した。

『リディア。意地を張るのはよせ。フローリア令嬢とはやましいことはない。彼女は心から信頼している恩人だ。今までお前に贈り物をしなかったのはお前が強く望まなかったからだ。ウィリアムも言葉がすぎた事を反省させた。私からも強く諌めた。だから屋敷に戻れ。親権がいらないだなんて心にもない事を言うものじゃない。それに何の取り柄もないお前が離婚して今後どう生きていくんだ? 早くこんな馬鹿げた裁判を取り下げて帰る事だ。……追伸 一応お前に贈り物をしなかったのは事実だ。贈るから受け取ると良い』

 こめかみがズキズキと痛む。この男は私が嫉妬と物欲しさに騒いでいると思っているのだろうか。

「物は全て侯爵様に送り返して。なんなら黒のリボンをつけても良いわ」

 本当は暖炉の薪にしたいところだが物に罪はない。中身は何か知らないが、何にしろ作った職人に失礼だろう。

「リディア様」

 その時見慣れた顔がドアから覗いた。そばかす顔に癖っ毛の茶髪。

「マーク。わざわざ来てくれたの?」

「はい。商談が成立したことを早く知らせたくて」

「まぁ、ありがとう。これでまた一つ商売が成り立つわ」

 私はこの二年間ただ泣いて別邸にいたわけではない。叔父に連絡し、事情を話して叔父に商売を持ちかけたのだ。

 叔父は持っている領地を放置してはいなかったが熱心ではなかった。なので代理で管理し、領地の商いを任せて欲しいとお願いした。

 叔父はすぐに了承してくれた。あちこち旅しているから管理してもらえるとはありがたいと笑い、収益の六割まで与えてくれると約束してくれた。それだけじゃない。最終的に私が離婚した後、領地を譲るとまで考えてくれたのだ。

 私は農地改革を行い、特産品を開発し、道を整備して人々が行き交いやすくした。おかげで物流もスムーズになった。

 まだまだやる事はあるが、独立するのには十分な状態だ。



 ※ ※ ※


 首都に行き、商品の販路について交渉を行う。首都にも特産品が置けるのなら、人々の目にも留まり売り上げも上がる。

「リディア様、とても良い案ですな。これでいきましょう」

「はい。どうぞ宜しくお願いします」

 しっかりオーナーと握手を交わして店を出る。首都には様々な物と人が溢れる。見ていて飽きない。思わず顔が綻ぶ。

「奥様危ない!」

 護衛に庇われ弾き返された小石が地面に転がる。

 道の向こうを見ると、険しい顔をしたウィリアムがいた。

「おい! なんで楽しそうにしているんだよ! 母上は反省中だろ! 大人しく別邸でいなきゃいけないくせに!」

 息子の顔を見てこんなに冷ややかな感情を持てるのはこれが初めてでは無い。アレクサンドルと生き写しの彼にただ軽蔑と嫌悪感が湧き起こる。

「今すぐ勝手に出歩いたことを謝れ! 父上に言いつけるぞ!」

「もう私には関係なくなることだから良いわ」

 ウィリアムは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに顔を赤らめて地団駄を踏んだ。

「お前なんかもう母上じゃない! 僕の母上はフローリアだ! 父上も僕もフローリアが大好きだ! フローリアだって僕らが大好きで本当の家族だ! 邪魔者はお前だ!」

 よくもまぁここまで吠えることができるものだ。私はにっこり笑うとウィリアムを見下ろした。

「あら奇遇ね。それならもうすぐ叶うわよ。私とあなたの父親は間もなく『さようなら』をするの。永遠にね。そしたら大好きなフローリアでも誰でも母親にしたら良いわ。それではご機嫌ようウィリアム」

 護衛に合図して踵を返す。意外にも背後からは何の罵声もかけられなかった。チラリと見ると呆然としたウィリアムが従者に囲まれて佇んでいた。

 まったく人に石を投げつけるなんて。アレクサンドルとフローリア侯爵令嬢はこの二年間どんな躾をしていたのかしら。

 ため息を吐きながら馬車が停まる場所まで歩いて行った。


 昼過ぎにお茶を飲みながら商品のリストを眺めていると、慌ただしい足音と共にドアがノックされた。

「どうぞ」

 声をかけるとアメリアが血相を変えて部屋に入ってきた。

「奥様! あの、あの令嬢が。モルギスト侯爵令嬢が来ました」

 私は眉をひそめた。事前に連絡もなく来るなんて。礼儀を知らないのかしら。

「なんでもウィリアム様が泣いてお屋敷に帰ってきた事についてお話ししたいと」

 次から次へと……。書類を片付けて立ち上がる。

「分かったわ応接間にお通しして。すぐに行くわ」


 軽く身支度を整えてから応接間にいくと、清楚なドレスを身に纏い、ルビーのネックレスとブルーダイヤモンドのイヤリングをしたフローリアがソファに座っていた。後ろには彼女の侍女と護衛が控えていた。

「ご機嫌よう。モルギスト侯爵令嬢」 

「リディア様……」

 彼女は目を潤ませてそれから涙を一粒流した。

「どうかウィリアム様を傷つけるのはおやめください。とても可哀想ですわ。あんなに幼いのに厳しくあたるなど……」

「人に石を投げつける無作法な者に優しくするほど私は寛容では無いので」

「まだあんなに幼いのですよ? それを」

「人に物を投げてはならないなどあの子より幼い子供でも分かります。アレクサンドル様と貴女様はこの二年間どのような教育をなさっていたのですか? 猿でももっと躾けられますよ」

 フローリアは先ほどまでのか弱い雰囲気が剥がれて頬を紅潮させた。艶っぽい小さな口もひきつらせている。

「ご用件は終わりですか? ならお帰りください。私は暇ではありませんので」

「貴女はアレク様とウィリアム様をどう思ってるのですか!?」

 必死に健気な令嬢を維持しながら彼女は声を上げる。

「今更そのようなことを聞くのですか? 他人に決まっているではありませんか」

「まぁ!」

 私のセリフにショックを受けつつ、人目を忍んで彼女の目が笑ったのを見た。まぁ私を除いて誰よりも離婚を望んでいるのはこの女でしょうから当然ね。

「さて。話はもう良いかしら? さ、アメリア。モルギスト侯爵令嬢をお見送りして。他の者も手伝ってあげて」



 ※ ※ ※


 判決文が言い渡されるまで、貴族の間ではこんな噂が飛び交った。

「フューエルズ侯爵は離婚後すぐに再婚するらしい」「あのフローリア・モルギスト侯爵令嬢だろ」「ずっとご子息の面倒を夫人の代わりに見ていたとか」

 どの社交場やお茶会でもその話で持ちきりだった。商いに勤しんでいる私の耳にも入るがどうでも良かった。


 そして数日後の判決の日。馬車が裁判所の前で止まる。

 やっと今日、判決が下される。無事に離婚できることを祈って階段を登った。その時傍から自分を追い抜く影があった。

 夫のアレクサンドルとフローリア侯爵令嬢、そして従者に抱えられている息子ウィリアム。

 アレクサンドルとウィリアムはどこか影のある表情をしていたが、フローリアだけは憂いの中に隠しきれない喜びを滲ませていた。

 彼らはこちらに一瞥することなく裁判所の中へ入って行った。


「これよりフューエルズ侯爵夫妻の離婚裁判の続きを執り行います」

 裁判長の声と共にカンカンと乾いた音が鳴り響く。

 私とアレクサンドルが立ち上がると、傍聴席にフローリアとウィリアムの姿が見えた。

 書記官が前へ出て書簡を広げて顔を上げる。

「本裁判所は提出された書簡、証言、及び証拠書類を慎重に検討した結果、以下の事実を認定する。

 夫は婚姻の義務を著しく怠り、妻を別邸へ追いやり二年間にわたり夫婦の交わりを一切持たず、妻からの度重なる書簡に応じず、拒否を示した。

 また夫は幼馴染の妹と過度に親密に交わり、宝飾品を贈与し、妻の地位を損なう行為を繰り返した。

 これらの行為は妻に対する重大な侮辱および遺棄に該当すると裁判所は判断する。

 よって妻の離婚請求は正当であり、これを認める。

 しかしながら妻は財産分与を求めず、また子息の親権について夫の主張を受け入れることを明言したため、裁判所はこれを尊重し子息の親権は夫に帰属するものとする。

 妻は夫の家門に対する権利を放棄し、今後は独立した生活を営むものとする。以上をもって判決とする」


 長い判決文を聞いて私は強く頷いた。

 そばにいた私の付き人がそっと私へ顔を寄せる。

「先日にも申しましたがこれは暫定判決です。後日確定判決が出て離婚成立です」

「もちろん分かっているわ」

 私は満足して閉廷の合図を待った。


 元夫となるアレクサンドルは口を真一文字にして、どこともなく宙を見つめていた。


 ※ ※ ※


 数ヶ月後。裁判所から確定判決の書簡が届いた。

 私は叔父の養子に入り、リディア・レオディー侯爵令嬢になった。

 領地には水路が整備され、今ではどこにも負けないほど栄えた商業地域となった。おかげで以前に増して領地も自分の懐も潤っている。

 またあれだけ噂されたアレクサンドルとフローリア侯爵令嬢の婚姻はまだ聞こえてこなかった。懇意にしている取引先の貴族の話では、公爵家の夜会でフローリア侯爵令嬢が金切り声を上げてアレクサンドルに結婚を迫り、使用人達に会場から連れ出された騒ぎがあったようだ。

 それからいくつもの季節が移ろってもアレクサンドルが再婚した話は出ず、代わりにウィリアムが学園で問題行動を起こして騒ぎになったと風の噂で聞いた。


「リディア様。そろそろ出航のお時間です」

 アメリアがトランクを手に持って微笑む。甲板の先に立つと潮風が気持ちいい。

「初めての海外なのに不安よりワクワクするわ」

「私もです! リディア様、私はどこまでもついていきますから!」

 元気な声に思わず微笑み返した。

 遠く、空と海が交わる水平線を眺めると胸が高鳴る。私の第二の人生はこれからだ。



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