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第9話:一ノ瀬の「動」と「静」


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 侵食する静寂

叩きつける雨は、もはやカーテンというよりは、冷たい鉄の塊が空から降り注いでいるかのようだった。

泥濘ぬかるみの中に沈み込み、自分の額をコンクリートに打ち付けようとしていたヒロくん。その狂乱のただ中に、一ノ瀬さんは音もなく踏み込んだ。


私は、傘を握りしめたまま硬直していた。

これまでの私なら、パニックを止めるために「ヒロくん、やめて!」「落ち着いて!」と叫び、力任せにその細い腕を引っ張り上げていただろう。けれど、一ノ瀬さんは違った。


彼は、叫ばなかった。

ヒロくんの名前を呼ぶことさえしなかった。

ただ、暴れるヒロくんの背後、彼の「視界に入らない死角」から、巨大な影のように寄り添った。


一ノ瀬さんは、持ってきた分厚い紺色の毛布――「ウェイトブランケット」を、ヒロくんの肩から背中にかけて、ゆっくりと、けれど確かな重みを持たせて被せた。

「……あ、あ、ああああ!!」

ヒロくんの叫びが、一瞬だけ詰まる。

ブランケットに充填された特殊なビーズの重みが、バラバラに拡散しようとしていたヒロくんの「自己の境界線」を、物理的にぎゅっと繋ぎ止めたのだ。


さらに一ノ瀬さんは、泥だらけの地面に小型のスピーカーを置いた。

スイッチを入れると、そこから流れ出したのは、テレビの砂嵐のような「ザー……」という、感情を一切排したホワイトノイズだった。


「……っ」


ヒロくんの動きが、目に見えて緩やかになった。

雷鳴という「予測不能な爆音」に怯えていた彼の脳に、ホワイトノイズという「予測可能な一定の音」が流れ込む。それは、荒れ狂う嵐の海に投げ込まれた、巨大ないかりのようだった。


「ヒロ。……八分だ。あと八分で、この雨は止む」


一ノ瀬さんの声は、低く、けれど雷鳴を突き抜けるような確信に満ちていた。

彼は泥の中に直接膝をつき、毛布にくるまって震えるヒロくんの正面に回った。そして、けっして目を逸らさず、ヒロくんの視線をその澱みのない瞳で受け止めた。


一ノ瀬さんは、ヒロくんの肩に手を置く代わりに、自分の胸に深く手を当てた。

「吸え。……吐け。……吸え」

一ノ瀬さんの呼吸が、目に見える形となってヒロくんに伝わっていく。

ヒロくんの荒れ狂っていた胸の上下が、一ノ瀬さんの深い、鋼のようなリズムに少しずつ吸い寄せられていった。


鏡合わせの二人。

泥まみれの公園の真ん中で、そこだけが周囲の狂乱から切り離された、神聖な聖域のように見えた。


2. 剥がれ落ちた「怠惰」の仮面

私は、その光景を呆然と見守ることしかできなかった。

冷たい雨が頬を伝い、首筋に入り込む。けれど、私の心を満たしていたのは寒さではなく、耐えがたいほどの「恥」だった。


(……私は、何も見ていなかった)


事務室で、一ノ瀬さんがスマホの画面を凝視していた姿を思い出す。

私はそれを「パズルゲームに興じている」と断じ、軽蔑していた。けれど、今ならわかる。あの時、一ノ瀬さんが見ていたのは、分単位で更新される超高精度の「雨雲レーダー」だったのだ。この公園に、いつ、どの程度の強さの雨が降り、何時に雷が鳴り止むのか。彼は現場に来る前から、すべてのタイムラインを頭に叩き込んでいた。


彼が、工房の椅子で居眠りをするように目を閉じていた姿も。

あれはサボっていたのではない。

ヒロくんの呼吸の乱れ、換気扇の異音、他の利用者の微かな不穏な声。それらを「音」だけで察知するために、視覚というノイズを遮断し、全神経を耳に集中させていたのだ。


一ノ瀬さんの「何もしない」という支援スタイル。

それは、やる気がないからではなかった。

支援者が介入しすぎることで、利用者の持つ「自ら立ち直る力」を削いでしまうことを、彼は誰よりも恐れていたのだ。

最小限の介入で、最大限の安心を与える。

そのためには、利用者の特性、環境の変化、そして何より自分自身の感情を、完璧にコントロールし続けなければならない。


それは、私のような素人が憧れる「優しい支援」などよりも、はるかに過酷で、孤独な「プロの領域」だった。


「……あ、あ……」


ヒロくんの瞳に、わずかながらにハイライトが戻った。

彼は毛布の重みに守られ、ホワイトノイズの静寂の中で、ようやく「自分」という形を取り戻した。

一ノ瀬さんの呼吸に合わせて、ヒロくんの肩の力がふっと抜ける。

その瞬間、一ノ瀬さんは何も言わずに立ち上がり、私の持っていた黒い傘を奪い取ると、それをヒロくんの頭上にかざした。


「……森下。いつまで突っ立ってる。あいつのイヤーマフ、泥から拾い上げろ。拭いてやれ」


ぶっきらぼうな、いつもの一ノ瀬さんの声。

けれど、今の私にはその声が、聖書の言葉よりも尊いものに聞こえた。


「はい……っ!」


私は泥まみれになりながら、地面に落ちていた青いイヤーマフを探し出した。

泥を払い、自分のハンカチで何度も何度も拭く。

ヒロくんにそれを手渡すと、彼は震える手でそれを受け取り、ゆっくりと耳に当てた。

「三、二、窓」のリズムは、まだ戻ってこない。けれど、彼は自分の足で、しっかりと泥の大地を踏みしめていた。


雨は、一ノ瀬さんの予言通り、それから数分で小降りになった。

雲の切れ間から、弱々しい、けれど美しい夕日が公園を照らし始める。


一ノ瀬さんのポロシャツは泥と雨でボロボロになり、頬の傷からはまだ血が滲んでいた。

彼はふーっと長い溜息をつくと、ポケットから(やはり火はつけずに)煙草を咥えた。


「……一ノ瀬さん。私、自分のことしか考えていませんでした。ヒロくんを守るフリをして、自分が傷つきたくないだけだった」


私の告白に、一ノ瀬さんは空を見上げたまま、鼻で笑った。

「……気づくのが遅えよ。でもな、泥を被らなきゃ見えない景色もある。……お前、今日はいい顔してるぞ。さっきまでの、あの薄っぺらな『天使の笑顔』よりはな」


一ノ瀬さんは、濡れた髪を乱暴にかき上げた。

その腕にある傷跡が、夕日に照らされてオレンジ色に光る。

それは、かつて彼が救えなかった誰かへの後悔と、それでもなお、この過酷な現場に立ち続ける決意が刻まれた、勲章のように見えた。


私は、一ノ瀬さんの隣に並んだ。

彼が見ている世界は、まだ私には眩しすぎて、直視できないかもしれない。

けれど、この泥だらけの靴で、一歩ずつ彼の後を追っていきたい。

言葉を捨てた先にある、本当の意味での「寄り添い」を知るために。


公園の向こう、雨上がりの空に、うっすらと虹が架かっていた。

それはヒロくんの、そして私たちの、新しい「出口」を祝福しているかのように見えた。


(第9話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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