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第8話:雷鳴のパニック(移動販売後編)


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 牙を剥く空

その前兆は、あまりにも唐突だった。

つい数分前まで、公園の芝生には穏やかな春の陽光が降り注いでいたはずだった。それなのに、どこからか湿り気を帯びた重苦しい風が吹き抜け、空の青は一瞬にして鉛色に塗りつぶされた。


「……あ、あ、あ……」


ヒロくんの喉から、今まで聞いたこともないような低い、ひび割れた声が漏れた。

彼は陳列棚のメロンパンを掴んだまま、彫像のように硬直している。青いイヤーマフを突き抜けて、彼には「世界の壊れる音」が聞こえているのだ。


ゴロゴロ……。


遠く、地を這うような地響きが鳴った。

私には、それが遠くの工事の音か、あるいはトラックの走行音にしか聞こえなかった。けれど、ヒロくんにとってそれは、自分自身の存在を根底から揺るがす、凶暴な怪物の咆哮だった。


「ヒロくん、大丈夫。すぐに片付けて車に戻ろう。ね?」


私は焦りから、早口でまくしたてた。けれど、私のその「焦った声」自体が、すでにヒロくんにとっては刺激の一種となっていた。

次の瞬間、世界が白く弾けた。


ピカッ!


「ああああああああ!!!」


直後、鼓膜を直接引き裂くような爆音が公園中に響き渡った。

落雷だ。それと同時に、まるで天の底が抜けたかのような激しい雨が、猛烈な勢いで地面を叩きつけ始めた。


「ヒロくん!」


叫んだ私の目の前で、ヒロくんの「世界」が音を立てて崩壊した。

彼は、完璧に並べていたパンの棚を、裏返った叫び声とともに両手でなぎ倒した。ビニール袋に包まれたパンたちが、一瞬にして泥水の中にぶちまけられる。


けれど、彼はパンのことなどもう眼中にない。

彼は自ら泥濘ぬかるみの中に膝をつき、自分の頭を、狂ったような速さで両拳で殴り始めた。


ゴン、ゴン、と鈍い音が、激しい雨音に混じって聞こえてくる。

「やめて! ヒロくん、自分を叩かないで!」

私は泥まみれになりながら、彼の腕を掴もうとした。パニックの渦中にいる彼を止めるには、物理的に拘束するしかない――大学の教科書の片隅にあった「不適切な対応」という言葉が脳裏をかすめたが、今の私には他に手段が思いつかなかった。


「落ち着いて、ヒロくん! お願い!」


私は背後から彼を抱きしめるようにして、その細い腕を必死に抑え込んだ。

けれど、それは火に油を注ぐだけの結果に終わった。


「ぎゃあああああああ!!!」


ヒロくんの体から、信じられないほどの膂力が爆発した。

彼はのけ反るようにして私を撥ね飛ばした。私は無様に尻餅をつき、冷たい泥水の中に沈んだ。

泥が口に入り、視界は雨で白く霞む。

目の前では、愛用していた青いイヤーマフさえもかなぐり捨てたヒロくんが、自分の額を地面のコンクリートの縁に打ち付けようとしていた。


額から流れた血が、雨水に溶けて赤く泥を染める。

「ダメ……死んじゃう……誰か、誰か助けて……!」


私は声を上げたが、公園にはもう誰もいなかった。家族連れも、犬を散歩させていた人も、あんなに私たちを冷たい目で見ていた人々も、皆「安全な場所」へと逃げ去ってしまった。

この嵐の中、泥にまみれて絶叫する青年と、ただ泣き叫ぶことしかできない新米指導員。

私たちは、世界から完全に見放されたのだ。


「ヒロくん……お願い……止まって……」


私は這いずりながら、再び彼に手を伸ばそうとした。

指先が、冷たくなった彼の服に触れようとした、その時。


バサッ、という重い音がして、私の頭上の雨が止まった。


2. 鋼の静寂

見上げると、そこには大きな黒い傘があった。

傘を差しているのは、泥だらけの私の姿を、冷徹なまでに見つめる一人の男。


一ノ瀬さんだった。


「……どけ。死にたいのか」


その声は、激しい雷鳴や雨音の中でも、不思議なほどはっきりと私の脳に届いた。

感情を一切排した、刃物のような声。

彼は、リクライニングを倒して寝ていたはずの、あのハイエースから出てきたのだ。


「一ノ瀬さん……! 助けて、ヒロくんが、ヒロくんが死んじゃう!」

私は一ノ瀬さんのズボンの裾を掴み、狂ったように懇願した。


けれど、一ノ瀬さんは私の手を取り払うと、暴れるヒロくんの前に、迷いのない足取りで踏み出した。

彼はヒロくんを抱きしめることも、声をかけることもしなかった。

ただ、狂ったように頭を打ち付けようとするヒロくんの「視界」を遮るように、その大きな背中で壁を作った。


「森下。……離れて見てろ」


一ノ瀬さんは、傘を私の方に放り投げた。

彼は豪雨にその身を晒しながら、泥の上に静かに膝をついた。

ヒロくんは、一ノ瀬さんの存在に気づき、さらに激しく叫び声を上げた。拳が一ノ瀬さんの頬をかすめ、彼の皮膚を裂く。血が流れる。けれど、一ノ瀬さんは瞬き一つしなかった。


彼は、自分のカバンから「何か」を取り出した。

それは、ずっしりと重そうな、分厚い紺色の毛布だった。

一ノ瀬さんはそれを、暴れるヒロくんの背中から、重力を利用するようにして、じわリと包み込んだ。


「あ、あ、あああ……っ!」


ヒロくんの声が、一瞬だけ詰まった。

一ノ瀬さんはさらに、もう一つのデバイスを取り出した。小型のスピーカーだ。

そこから流れてきたのは、心地よい音楽などではなかった。

……ザー、という、テレビの砂嵐のような、無機質で圧倒的な音。


「ホワイトノイズだ」

一ノ瀬さんが、独り言のように呟いた。

「ヒロ。……外の世界は、もう聞こえない。この音だけを聴け。俺の心音だけを聴け」


一ノ瀬さんは、毛布越しにヒロくんを強く、けれど静かに圧迫した。

それは「拘束」ではない。

バラバラに砕け散ろうとするヒロくんの「自己」を、物理的な重みと一定の周波数の音で、無理やり繋ぎ止めるための儀式だった。


私は、息をすることさえ忘れてその光景を見つめていた。

一ノ瀬さんの背中は、激しい雨に打たれて黒く濡れそぼっている。

ヒロくんの叫び声が、次第に低くなり、喘ぎのような声に変わっていった。

一ノ瀬さんの腕にある古い傷跡が、雨に濡れて赤白く浮き上がる。

かつてシュンくんを守れなかったあの日の悔恨が、今、この嵐の中で、ヒロくんを守るための「技術」へと昇華されていた。


「……八分だ」

一ノ瀬さんが言った。

「あと八分で、この雨雲は抜ける。……耐えろ、ヒロ。お前ならできる」


一ノ瀬さんは、泥の中に直接座り込み、ヒロくんの震える体をその大きな体ですべて受け止めた。

私は、傘を握りしめたまま、ただ震えていた。

私が「よかれ」と思って行ってきた「優しさ」がいかに軽薄で、相手を見ていなかったか。

一ノ瀬さんが見せている「厳しさ」の奥に、どれほど深い慈愛と、自己犠牲が秘められているか。


雷鳴は、まだ遠くで鳴り響いていた。

けれど、一ノ瀬さんの周りだけは、この世で最も深い、鋼のような静寂が支配していた。


私は、その背中を一生忘れないだろうと思った。

絶望の豪雨の中で、一人、利用者のために「壁」となり続けた、一人の不器用な支援員の姿を。


(第8話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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