第7話:公園の孤独(移動販売前編)
あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします
1. 社会という名の怪物
「……耳栓、持ったか?」
出発の間際、一ノ瀬さんはハイエースの運転席から気だるげにそう言った。
「耳栓? 私がですか?」
「そうだよ。外はうるせえぞ。お前のその薄っぺらな正義感が粉々に砕ける音がな」
一ノ瀬さんはそれだけ言うと、乱暴にギアをバックに入れた。
あおぞら工房を飛び出し、車で十五分。到着したのは、地域でも有数の大きな総合公園だった。
四月の柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりのチューリップが咲き誇る、一見すれば平和そのものの光景。けれど、車から降りた瞬間に突きつけられたのは、工房という「聖域」では決して味わうことのなかった、暴力的なまでの「音」の濁流だった。
遠くで響く子供たちの甲高い歓声。
アスファルトを蹴るスケートボードの乾いた破裂音。
どこかの飼い犬が、何かに怯えて執拗に吠え立てている。
そして、絶え間なく流れる幹線道路の排気音。
それらは、私にとっては「賑やかな公園の音」に過ぎない。けれど、隣に立つヒロくんにとっては、文字通り「世界が崩壊する轟音」なのだ。
ヒロくんは、車から降りた瞬間から、鮮やかな青色のイヤーマフをこれ以上ないほど深く被っていた。その上からさらに両手で耳を圧迫し、視線は地面の一点に固定されている。
彼の体は、寒風に晒された小鳥のようにガタガタと震えていた。
「ヒロくん、大丈夫。私がついてるから。……さあ、パンを並べよう」
私は努めて穏やかな声で言った。けれど、自分の声さえも、このノイズの海の中ではヒロくんを切り裂く「刃物」の一種になり得ると、心のどこかで恐怖を感じていた。
ヒロくんは、震える手でパンのコンテナを掴んだ。
彼はタープの下に設営された陳列棚に向かうと、取り憑かれたような手つきでパンを並べ始めた。
三、二、窓。
工房でのあのリズムを、彼はここでも必死に再現しようとしていた。パンの袋の端を揃え、隣との間隔をミリ単位で修正する。
けれど、ここでは「窓の外のハナミズキ」はない。彼は代わりに、タープの支柱の影が地面に落とす直線を三秒間見つめることで、辛うじて自分の精神を繋ぎ止めていた。
(……ごめんね、ヒロくん。こんな苦しい場所に連れてきて)
胸が締め付けられる。けれど、一ノ瀬さんは「これもあいつの人生の一部だ」と言って、ハイエースの運転席から一歩も出てこない。彼はリクライニングを深く倒し、スマホの画面に視線を落としたまま、私たちのことなど忘れたかのように振る舞っていた。
2. 透明な壁
「いらっしゃいませ! あおぞら工房の、焼きたてパンです!」
私は精一杯の虚勢を張って、声を張り上げた。
公園を散策する人々が、メロンパンの甘い香りに誘われて足を止める。
「あら、美味しそうね」
年配の女性が手を伸ばしかけた、その時だった。
「あ、あ、あ……。あ、あ、あ……」
ヒロくんの喉から、押し殺したような、けれど奇妙なリズムを刻む声が漏れた。
彼は、自分が完璧に並べたはずのアンパンが、客の視線や微かな風によって「汚された」と感じたのかもしれない。彼は客の手を遮るようにして前に出ると、棚の上のパンを狂ったように並べ直し始めた。
「……えっ?」
女性の手が止まる。彼女の顔から笑顔が消え、困惑と、そしてわずかな「嫌悪」が浮かんだ。
「……なに、この子。ちょっと、怖いんだけど」
「すみません! 彼は、ちょっと音が苦手で、今パニックを抑えようと必死なんです。パンはとても美味しいんですよ、彼が一生懸命こねたんです!」
私は必死に弁解した。けれど、私の言葉は、彼女の心に届く前に霧散してしまった。
彼女は「……いいわ、結構です」と冷たく言い残し、足早に去っていった。
それが、合図だったかのように。
周囲を歩く人々が、私たちのタープを避けるように歩き始めた。
「……なに、あの子。変な声出してる」
「見ちゃダメよ。ああいう人たち、なんでこんな公共の場に出すのかしら」
「不気味よね。せっかくの休日が台無しだわ」
聞こえてくるのは、あからさまな罵倒ではない。
善意を装った同情や、無関心を装った忌避。
それらは「透明な壁」となって、私たちと世界の間に立ちはだかった。
私はヒロくんを守ろうと、彼の前に一歩踏み出した。けれど、私のその「守ろうとする焦り」が、ヒロくんのパーソナルスペースを侵食していることに、当時の私は気づいていなかった。
(……どうして? 彼は何も悪いことをしていない。ただ、一生懸命に生きているだけなのに!)
私の瞳に、悔し涙が滲む。
周囲の冷たい視線に晒されるたびに、私は自分の「正義感」が、一ノ瀬さんの予言通り粉々に砕けていくのを感じていた。
ヒロくんは、もはやパンを並べることさえできなくなっていた。彼はイヤーマフを押し付けたまま、その場に蹲り、左右に激しく体を揺らし始めた。
「ヒロくん、大丈夫よ。私がいる。ねえ、こっちを見て!」
私は焦りから、彼の肩に手を伸ばそうとした。
その瞬間、ハイエースのクラクションが「プッ」と短く鳴った。
振り返ると、運転席の一ノ瀬さんが、冷淡な、けれど射抜くような鋭い目で私を見ていた。
彼は窓を少しだけ開けると、指先でスマホを弄りながら、吐き捨てるように言った。
「森下。お前、今あいつを見てるか? ……それとも、あいつを見てる『世間の目』を気にしてるだけか?」
「え……?」
「お前のその焦りは、あいつを救うためのもんじゃない。お前自身の『居心地の悪さ』を解消するためのもんだ。……そんな偽善、あいつには毒でしかねえよ」
一ノ瀬さんの言葉は、ヒロくんが浴びているどんな視線よりも鋭く、私の胸を貫いた。
私は、伸ばしかけた手を宙で止めた。
確かに、私はヒロくんを見ていなかった。私は、周囲の母親たちに「私はまともな支援員です」と証明したくて、ヒロくんを「まともな状態」に矯正しようとしていただけだったのだ。
一ノ瀬さんは再びスマホに目を戻し、二度とこちらを見ようとはしなかった。
私は、冷たいアスファルトの上に蹲るヒロくんの横に、ゆっくりと腰を下ろした。
周囲にはまだ、無数の「怪物」たちが潜んでいる。
冷ややかな視線、無意識の差別、そして何より、私自身の未熟という名の怪物。
けれど、私は今度は手を伸ばさなかった。
ただ、彼の震えに合わせて、自分も小さく体を揺らした。
「……ごめんね、ヒロくん。隣にいるよ」
その声が届いたのかはわからない。
けれど、ヒロくんの揺れが、ほんのわずかだけ、緩やかになった気がした。
空は、不気味なほど青く澄み渡っていた。
けれど、水平線の向こうからは、さらに大きな「嵐」の気配が忍び寄っていた。
(第7話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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