表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/9

第7話:公園の孤独(移動販売前編)


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 社会という名の怪物

「……耳栓、持ったか?」


出発の間際、一ノ瀬さんはハイエースの運転席から気だるげにそう言った。

「耳栓? 私がですか?」

「そうだよ。外はうるせえぞ。お前のその薄っぺらな正義感が粉々に砕ける音がな」


一ノ瀬さんはそれだけ言うと、乱暴にギアをバックに入れた。

あおぞら工房を飛び出し、車で十五分。到着したのは、地域でも有数の大きな総合公園だった。

四月の柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりのチューリップが咲き誇る、一見すれば平和そのものの光景。けれど、車から降りた瞬間に突きつけられたのは、工房という「聖域」では決して味わうことのなかった、暴力的なまでの「音」の濁流だった。


遠くで響く子供たちの甲高い歓声。

アスファルトを蹴るスケートボードの乾いた破裂音。

どこかの飼い犬が、何かに怯えて執拗に吠え立てている。

そして、絶え間なく流れる幹線道路の排気音。


それらは、私にとっては「賑やかな公園の音」に過ぎない。けれど、隣に立つヒロくんにとっては、文字通り「世界が崩壊する轟音」なのだ。


ヒロくんは、車から降りた瞬間から、鮮やかな青色のイヤーマフをこれ以上ないほど深く被っていた。その上からさらに両手で耳を圧迫し、視線は地面の一点に固定されている。

彼の体は、寒風に晒された小鳥のようにガタガタと震えていた。


「ヒロくん、大丈夫。私がついてるから。……さあ、パンを並べよう」


私は努めて穏やかな声で言った。けれど、自分の声さえも、このノイズの海の中ではヒロくんを切り裂く「刃物」の一種になり得ると、心のどこかで恐怖を感じていた。


ヒロくんは、震える手でパンのコンテナを掴んだ。

彼はタープの下に設営された陳列棚に向かうと、取り憑かれたような手つきでパンを並べ始めた。

三、二、窓。

工房でのあのリズムを、彼はここでも必死に再現しようとしていた。パンの袋の端を揃え、隣との間隔をミリ単位で修正する。

けれど、ここでは「窓の外のハナミズキ」はない。彼は代わりに、タープの支柱の影が地面に落とす直線を三秒間見つめることで、辛うじて自分の精神を繋ぎ止めていた。


(……ごめんね、ヒロくん。こんな苦しい場所に連れてきて)


胸が締め付けられる。けれど、一ノ瀬さんは「これもあいつの人生の一部だ」と言って、ハイエースの運転席から一歩も出てこない。彼はリクライニングを深く倒し、スマホの画面に視線を落としたまま、私たちのことなど忘れたかのように振る舞っていた。


2. 透明な壁

「いらっしゃいませ! あおぞら工房の、焼きたてパンです!」


私は精一杯の虚勢を張って、声を張り上げた。

公園を散策する人々が、メロンパンの甘い香りに誘われて足を止める。

「あら、美味しそうね」

年配の女性が手を伸ばしかけた、その時だった。


「あ、あ、あ……。あ、あ、あ……」


ヒロくんの喉から、押し殺したような、けれど奇妙なリズムを刻む声が漏れた。

彼は、自分が完璧に並べたはずのアンパンが、客の視線や微かな風によって「汚された」と感じたのかもしれない。彼は客の手を遮るようにして前に出ると、棚の上のパンを狂ったように並べ直し始めた。


「……えっ?」

女性の手が止まる。彼女の顔から笑顔が消え、困惑と、そしてわずかな「嫌悪」が浮かんだ。

「……なに、この子。ちょっと、怖いんだけど」


「すみません! 彼は、ちょっと音が苦手で、今パニックを抑えようと必死なんです。パンはとても美味しいんですよ、彼が一生懸命こねたんです!」


私は必死に弁解した。けれど、私の言葉は、彼女の心に届く前に霧散してしまった。

彼女は「……いいわ、結構です」と冷たく言い残し、足早に去っていった。


それが、合図だったかのように。

周囲を歩く人々が、私たちのタープを避けるように歩き始めた。

「……なに、あの子。変な声出してる」

「見ちゃダメよ。ああいう人たち、なんでこんな公共の場に出すのかしら」

「不気味よね。せっかくの休日が台無しだわ」


聞こえてくるのは、あからさまな罵倒ではない。

善意を装った同情や、無関心を装った忌避。

それらは「透明な壁」となって、私たちと世界の間に立ちはだかった。

私はヒロくんを守ろうと、彼の前に一歩踏み出した。けれど、私のその「守ろうとする焦り」が、ヒロくんのパーソナルスペースを侵食していることに、当時の私は気づいていなかった。


(……どうして? 彼は何も悪いことをしていない。ただ、一生懸命に生きているだけなのに!)


私の瞳に、悔し涙が滲む。

周囲の冷たい視線に晒されるたびに、私は自分の「正義感」が、一ノ瀬さんの予言通り粉々に砕けていくのを感じていた。

ヒロくんは、もはやパンを並べることさえできなくなっていた。彼はイヤーマフを押し付けたまま、その場に蹲り、左右に激しく体を揺らし始めた。


「ヒロくん、大丈夫よ。私がいる。ねえ、こっちを見て!」


私は焦りから、彼の肩に手を伸ばそうとした。

その瞬間、ハイエースのクラクションが「プッ」と短く鳴った。


振り返ると、運転席の一ノ瀬さんが、冷淡な、けれど射抜くような鋭い目で私を見ていた。

彼は窓を少しだけ開けると、指先でスマホを弄りながら、吐き捨てるように言った。


「森下。お前、今あいつを見てるか? ……それとも、あいつを見てる『世間の目』を気にしてるだけか?」


「え……?」

「お前のその焦りは、あいつを救うためのもんじゃない。お前自身の『居心地の悪さ』を解消するためのもんだ。……そんな偽善、あいつには毒でしかねえよ」


一ノ瀬さんの言葉は、ヒロくんが浴びているどんな視線よりも鋭く、私の胸を貫いた。

私は、伸ばしかけた手を宙で止めた。

確かに、私はヒロくんを見ていなかった。私は、周囲の母親たちに「私はまともな支援員です」と証明したくて、ヒロくんを「まともな状態」に矯正しようとしていただけだったのだ。


一ノ瀬さんは再びスマホに目を戻し、二度とこちらを見ようとはしなかった。

私は、冷たいアスファルトの上に蹲るヒロくんの横に、ゆっくりと腰を下ろした。


周囲にはまだ、無数の「怪物」たちが潜んでいる。

冷ややかな視線、無意識の差別、そして何より、私自身の未熟という名の怪物。

けれど、私は今度は手を伸ばさなかった。

ただ、彼の震えに合わせて、自分も小さく体を揺らした。


「……ごめんね、ヒロくん。隣にいるよ」


その声が届いたのかはわからない。

けれど、ヒロくんの揺れが、ほんのわずかだけ、緩やかになった気がした。

空は、不気味なほど青く澄み渡っていた。

けれど、水平線の向こうからは、さらに大きな「嵐」の気配が忍び寄っていた。


(第7話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

↓下記の評価ボタンをいただけると嬉しいです。よろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ