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第6話:嵐の予報と不穏な影


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 宣告

「……明日は、公園での移動販売だ」


その言葉は、午後の穏やかな陽光が差し込む事務室に、場違いなほど冷たく響いた。

一ノ瀬さんは、デスクに散らばったパンの納品書を面倒そうに束ねながら、私をチラリとも見ずに続けた。


「森下、お前がヒロのメイン担当をやれ。現場の設営から、客の対応、あいつのケアまで全部だ」


私は手に持っていたお茶の湯呑みを、危うく落としそうになった。

「……え? 私が、ヒロくんの……メイン?」

「そう言っただろ。耳掃除してねえのか?」

「冗談じゃないです! 一ノ瀬さん、外はノイズだらけですよ!? 昨日の換気扇の音だけで、あんなにパニックになりかけたんです。公園なんて、子供の叫び声や犬の声、車の音……ヒロくんには地獄です! 酷すぎます!」


私はたまらず声を荒らげた。

この一週間、私はヒロくんの「世界の繊細さ」を、皮膚が擦り切れるほど感じてきた。言葉を使わない、呼吸を合わせる、静寂を守る。そうやって積み上げてきたガラスの城のような平穏が、外の世界の濁流に晒されれば、一瞬で粉々に砕け散ることは目に見えている。


一ノ瀬さんは、ようやくスマホをポケットにしまい、椅子をゆっくりと回転させた。

その目は、いつになく鋭く、私を射抜いていた。


「だからこそ、お前が『壁』になれって言ってんだよ」

「壁……?」

「そうだ。外の世界は変えられねえ。ノイズをゼロにすることもできねえ。だったら、お前があいつと世界の間に立って、余計な刺激を遮断するフィルターになれ。……それがあいつの『出口』への第一歩だ」


「でも、私にはまだ……」

「できないなら辞めろ。あいつを一生、この四方の壁に囲まれた工房の中に閉じ込めておくつもりか? それが支援か? 笑わせるな」


一ノ瀬さんは吐き捨てるように言うと、そのまま事務室を出て行ってしまった。

私は、自分の手が震えていることに気づいた。怒りなのか、恐怖なのか。それとも、彼が言った「壁」という言葉の重さに、圧倒されているのか。


2. 「シュンくん」という名の影

一ノ瀬さんが去った後、事務室には私と、ベテラン事務員の松本さんだけが残された。

松本さんは、老眼鏡をずらして深く溜息をつき、私の元へ歩み寄ってきた。


「森下さん、あまり一ノ瀬くんを責めないであげてね。……彼、ああ見えて、誰よりも怖がっているのは自分自身なのよ」


「一ノ瀬さんが、怖がっている? あの、やる気のない態度の裏でですか?」

私は信じられなかった。一ノ瀬さんはいつだって冷淡で、他人の感情に無頓着に見える。


松本さんは少し躊躇うように視線を泳がせたが、やがて声を潜めて話し始めた。

「……五年前のことよ。一ノ瀬くんがまだ、今のあなたみたいに情熱に溢れた支援員だった頃の話。彼、ある一人の男の子の担当をしてたの。名前はシュンくん。ヒロくんと同じくらい繊細で、でも、もっともっと外の世界に憧れていた子だったわ」


松本さんの語る過去は、私の想像を絶するものだった。

当時の指導方針は、今よりもずっと「訓練」に重きを置いていたという。一ノ瀬さんはシュンくんを自立させたい一心で、あえて過酷な環境での実習を繰り返した。けれど、ある夏の移動販売の日、予期せぬトラブルが重なった。


「お祭りの太鼓の音と、花火の予行演習の音。それに酔っ払った客がシュンくんに絡んで……。シュンくんは、今まで見たこともないような激しいパニックを起こしたわ。一ノ瀬くんが必死に押さえようとしたけれど、シュンくんは自分の頭をコンクリートに打ち付けて……。結局、彼は大怪我をして、そのまま施設を去ることになったの。ご家族からも激しく責められてね」


私は、一ノ瀬さんの腕にある古い、蚯蚓腫みみずばれのような傷跡を思い出した。

あれは、利用者に噛まれた痕だと言っていた。けれど、本当は、暴れるシュンくんを最後まで放さなかった時に負った、痛ましい「後悔」の証だったのではないか。


「……それからよ。一ノ瀬くんが『何もしない』、極力『介入しない』支援スタイルに変えたのは。自分が何かをすることで、誰かの人生を壊してしまうのが、彼は何より怖いのかもね」


松本さんの言葉が、私の胸に深く突き刺さった。

一ノ瀬さんのあの怠惰な態度は、情熱が枯れた結果ではなく、溢れすぎる情熱を封じ込めるための、彼なりの「安全装置」だったのだ。

「壁になれ」という言葉も。

それは、かつて自分がなれなかった「壁」に、私を導こうとしているのだろうか。


3. 嵐の予報

夕暮れ時。

私は一人、工房に残って明日の準備をしていた。

窓の外では、空が不気味な紫色に染まり、湿った風がカーテンを揺らしている。

天気予報では、明日の午後は「局地的な激しい雨」と「雷」の可能性を告げていた。


(……雷)


ヒロくんの最大の天敵。

私は、一ノ瀬さんが用意した「四角い型」を手に取った。

ずっしりと重い金属の冷たさが、掌から心臓へと伝わってくる。

明日の移動販売で、私はヒロくんを守り抜けるだろうか。一ノ瀬さんのように、静寂の中に確固たる基準を持てるだろうか。


ふと、工房の隅に、一ノ瀬さんの飲みかけの缶コーヒーが置かれているのが見えた。

その横には、使い込まれたストップウォッチ。

彼はもういないはずなのに、その場所には、彼の「観察の気配」が色濃く残っている。


私は、ヒロくんがいつも座っている椅子に、そっと座ってみた。

ここからは、ハナミズキの枝がよく見える。

ヒロくんは毎日、ここから世界を見て、自分なりに調和を保っている。

明日、その調和が壊される場所へ、彼は私の手で連れて行かれる。


「……怖がらせないよ、ヒロくん」


私は自分に言い聞かせるように呟いた。

けれど、窓の外で遠く光った稲光が、私の不安をあざ笑うかのように、一瞬だけ工房を白く照らし出した。

不穏な影は、刻一刻と近づいている。

それは、明日の嵐だけではない。

一ノ瀬さんが抱え続けている過去の影。そして、私が明日直面するであろう、社会という名の残酷な現実の影。


私は、四角い型をカバンの中に深くしまい込んだ。

この金属の塊が、明日、ヒロくんにとっての「出口」の鍵になるのか。

それとも、すべてを壊す「凶器」になるのか。

答えは、嵐の中にしかない。


私は工房の電気を消し、重い足取りで扉を閉めた。

背後で、ガタガタと換気扇が風に煽られて鳴っていた。

まるであの日のシュンくんの、叫び声の残響のように。


(第6話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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