表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/11

第5話:呼吸の同期(シンクロ)


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 鏡合わせの二人

「森下、今日は俺の代わりにメトロノームになれ」


事務室の入り口に寄りかかり、一ノ瀬さんはコーヒーの空き缶をゴミ箱へ放り投げながら、事も無げに言った。

「……メトロノーム、ですか?」

「そう。昨日教えただろ。あいつの呼吸を盗めって。今日は一歩進んで、お前があいつの『基準』になれ。……もし失敗してリズムが狂ったら、あいつのパニックをお前一人で止めろよ。俺は昼寝してるからな」


一ノ瀬さんの言葉に、私の背中を冷たい汗が伝った。

パニックを一人で止める。あの、自分の頭を床に叩きつけるほどの激しい自傷を、私一人で? 冗談ではない。けれど、一ノ瀬さんの死んだ魚のような目は、それが冗談ではないことを物語っていた。


私は覚悟を決め、工房の隅にあるヒロくんの席へと向かった。

窓から差し込む光が、空気中に舞うわずかな小麦粉の粒子をキラキラと反射させている。ヒロくんは今日も、完璧な秩序の中にいた。三回こね、二回叩き、窓の外の木を三秒見る。


私は、彼の視界の端――彼が決して不快に感じない、けれど存在を無視できない絶妙な距離に腰を下ろした。

昨日の修行で得た感覚を総動員する。

まずは、耳を澄ます。工房の喧騒を脳内でフィルタリングし、ヒロくんの肺が空気を吸い込み、吐き出す音だけを抽出する。


(……吸って、吐いて。吸って、吐いて)


最初は、私が彼の速度に合わせていた。

彼の浅く、けれど規則正しい呼吸に、自分の肺の動きを重ねていく。

数分が経過した頃、奇妙な感覚が私を包み込んだ。

境界線が、溶けていくのだ。

私の体とヒロくんの体の間にあった「空気」という壁が消え、一つの大きな生き物が呼吸をしているような錯覚。


ヒロくんが息を吸う。私も、自分の肺が膨らむのを鮮明に感じる。

ヒロくんが吐く。私の口からも、熱を持った空気が滑り出していく。


言葉は一言も交わさない。視線すら合わせない。

ただ、肺の中の空気が入れ替わる音だけを共有する。

すると、不思議なことが起きた。

工房のガヤガヤとした話し声や、オーブンの低い唸り、誰かが引きずった椅子の音。それらがすべて、遠い宇宙の出来事のように後退していった。

世界には今、私とヒロくん、そして彼が捏ねているパン生地の、しっとりとした柔らかい感触だけが残されている。


(……これが、一ノ瀬さんの言っていた『同期』?)


私は確信した。今、ヒロくんは私を「異物」としてではなく、自分の世界を構成する「心地よい一部」として受け入れている。

私の呼吸がわずかに深くなると、それに引かれるようにヒロくんの呼吸も深く、安定したものに変わっていった。

鏡合わせの二人。私たちは、沈黙という名の透明な糸で、硬く結ばれていた。


2. 「出口」という名の四角い壁

「……合格だ」


不意に背後でストップウォッチの音が響き、魔法が解けた。

振り返ると、いつの間にか一ノ瀬さんが私の後ろに立っていた。

「心拍数まで合ってたんじゃないか? お前、意外と才能あるな」

一ノ瀬さんはニヤリと笑い、私に事務室へ戻るよう顎でしゃくった。


私は足元がふわふわするような高揚感を感じながら、事務室のパイプ椅子に座った。

「一ノ瀬さん、私、分かりました。彼と同じリズムになることで、彼を安心させられるんですね」

「ああ、そうだ。お前は今、あいつの世界の『部品』になった。……でもな、森下。同調するだけじゃ、支援としては半分なんだよ」


一ノ瀬さんの声が、急にトーンを落とした。

彼はデスクの引き出しから、ずっしりと重そうな金属製の物体を取り出し、私の前に置いた。

それは、見たこともない「四角いパンの型」だった。


「これ……何ですか?」

「あおぞら工房の新しい試作品だ。今まではずっと丸いパンだったろ。でも、これからはこの型を使って、四角い山型パンを作らせる」


私は思わず身を乗り出した。

「無理ですよ! ヒロくんは『三、二、窓』のリズムで、丸いパンを作ることに全神経を注いでいるんです。そんな、全く違う工程を入れたら、またパニックになります!」


一ノ瀬さんは、椅子に深く背をもたれ、冷めた目で私を見た。

「支援員の仕事はな、相手に共感して、一緒にその場で止まることじゃない。共感した後に、あいつの世界に『出口』を作ってやることだ」


「出口……?」

「そう。自閉症の奴らは、放っておけば自分の作った『完璧な檻』の中に閉じこもっちまう。変化のない、同じことの繰り返し。それは確かに安心だけどな、それだけじゃあいつらは一生、ここから一歩も外に出られない」


一ノ瀬さんは、四角い型を指先で弾いた。

「あいつが自分一人で新しいルールを受け入れるのは不可能だ。だから、お前が導くんだよ。お前の呼吸に信頼を置いてる今なら、お前が『新しいリズム』を提示すれば、あいつはそれを受け入れられるかもしれない」


私は、自分の手が小さく震えているのに気づいた。

今まで私がやってきたのは、ただヒロくんの機嫌を損ねないように、彼の世界に色を合わせる作業だった。

けれど、一ノ瀬さんが求めているのは、その完成された美しい世界に、あえて「変化」という異物を投げ込むことだ。


「怖いか?」

「……怖いです。もし失敗して、ヒロくんがまた自分を傷つけたらって思うと」

「怖くて当たり前だ。他人の人生に土足で踏み込むんだからな。でも、それをやらないなら、お前はただの『観察者』でしかない。支援員を名乗るなら、あいつの隣に座って、あいつの手を引いて、新しいドアを開けてやれ」


一ノ瀬さんはそう言って、再びスマホを取り出した。

画面には、何かのパズルゲームではなく、ヒロくんが過去に起こしたパニックの記録や、彼の得意な作業時間が細かく記されたデータシートが表示されていた。


「この型を使わせるタイミングは、お前に任せる。……あいつを『檻』から出すのか、それとも今のまま安全な場所に閉じ込めておくのか。決めるのは、メトロノームのお前だ」


一ノ瀬さんはそれだけ言うと、またいつものようにデスクに突っ伏した。

私は、目の前の冷たく光る四角い型を見つめた。

パン生地のような柔らかい共感。

そして、この金属のような、硬くて重い責任。


支援員の仕事は、ただ優しいだけでは務まらない。

相手を信じ、あえて変化を強いる「勇気」が必要なのだ。

私は四角い型を両手で包み込んだ。その冷たさが、私の迷いを切り裂くように、掌に深く刻まれた。


明日の朝、私はヒロくんにこの型を差し出す。

新しいリズム、新しい形、そして、新しい世界への出口を見せるために。


(第5話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

↓下記の評価ボタンをいただけると嬉しいです。よろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ