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第3話:三時間の刑


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 無音の修行

四月の朝の空気は、昨日までの浮かれた春らしさを失い、どこか厳粛な冷たさを帯びていた。

私は洗面台の鏡に向かい、自分の顔を凝視した。昨日まで自分を鼓舞するために纏っていたフローラル系の香水は、クローゼットの最奥、手の届かない場所へ押し込んだ。着ているポロシャツも、昨夜のうちに無香料の洗剤で二度洗いし、部屋干しの匂いがつかないよう細心の注意を払ったものだ。


「……よし」


小さく呟き、私は家を出た。

あおぞら工房の扉を開ける。事務室の空気は、パンの焼ける匂いと、古い紙の匂い、そして一ノ瀬さんが啜る安っぽいカフェラテの香りが混ざり合っていた。


「おはよう、ございます……」


私の声は、自分でも驚くほど小さかった。昨日の元気すぎる挨拶が、ヒロくんにとっての「凶器」だったと知った今、大声を出すことがこれほどまでに恐ろしいとは思わなかった。


デスクには、いつものようにヨレヨレのシャツを着て、スマホのパズルゲームに興じている一ノ瀬さんがいた。彼は画面から目を離さず、鼻で笑った。


「……あ、来たんだ。一晩で泣いて辞めるかと思ってたけど。意外とメンタル強いね、お前」

「辞めません。私は、知りたいんです。どうすれば、彼を壊さずに、同じ世界を見られるのか」


一ノ瀬さんの指が、ピタリと止まった。

彼はゆっくりと顔を上げ、死んだ魚のような、けれどどこか底知れない光を湛えた瞳で私を見た。彼はスマホをデスクに放り出すと、椅子を回して私に正対した。


「知りたい、ねぇ。……じゃあ、三時間だ。今からヒロの横に座ってろ。一言も喋るな。手も出すな。励ますな。笑いかけるな。ただ、あいつの影に徹しろ。……それがお前の今日の業務だ。一分でも動いたり喋ったりしたら、即刻クビ。いいな?」


「……わかりました」


私は頷き、工房へと向かった。

ヒロくんは、今日もいつもの窓際の席に座っていた。

私は彼から一メートル半の距離――近すぎず、けれど気配は感じる絶妙な位置に、無機質なパイプ椅子を置いた。


一分。五分。十分。

沈黙は、これほどまでに重く、鋭いものだったのか。

ヒロくんは、昨日と全く同じ、完璧な秩序の中にいた。

生地を三回こね、二回叩く。窓の外のハナミズキを三秒見つめる。

その一定のサイクルを、私はただ石像のように眺め続ける。


(……何か、何かしたい)


喉の奥がむず痒い。

ヒロくんの生地の形が少し歪めば、「直してあげたい」という衝動が走る。

彼がふと溜息をつけば、「大丈夫だよ」と声をかけたくなる。

「上手だね」「頑張ってるね」――今まで当たり前だと思っていた肯定の言葉たちが、自分の中でどろどろとした塊になって膨れ上がっていく。

それは、相手を救いたいという純粋な気持ちなどではなく、沈黙に耐えられない自分を救いたいという、身勝手な「救済欲メサイアコンプレックス」だった。


(……苦しい。助けないことが、こんなにエネルギーを使うなんて)


指先がピクピクと震える。私はそれを隠すように、膝の上で拳を強く握りしめた。

ふと事務室のガラス越しに視線をやると、一ノ瀬さんがこちらを見ていた。彼は居眠りしているようにも見えたが、その手元には古いストップウォッチがあり、刻一刻と、私が「無言」でいられる時間を計測していた。


2. 観察の向こう側

一時間を過ぎたあたりで、感覚が変質し始めた。

最初は苦痛でしかなかった工房の騒音――他の利用者の笑い声、オーブンのタイマー音、換気扇の唸り――が、薄い膜の向こう側に追いやられたように遠のいていく。

私の意識のピントが、極限までヒロくんに絞られていく。


(……あ)


気づけば、私はヒロくんの「変化」を、皮膚で感じ取っていた。

彼が生地をこねる際、親指に込める力が微妙に強まった。

窓の外を見る時間が、コンマ数秒だけ長くなった。

それは、外から吹いてきた微かな風の冷たさに、彼が反応した証拠だった。

言葉を介さないことで、初めて彼の「言葉」が聞こえてきた気がした。


二時間を過ぎた頃、ヒロくんの動きが、ふと止まった。

彼は生地を置いたまま、ゆっくりと首を傾げた。そして、彼の視線が、床を這うようにして私の足元に向いた。


(……来ないで、って思ってるの?)


心臓が跳ねた。

今までの私なら、ここで焦って「どうしたの? 大丈夫だよ」と、最悪の一言を発していただろう。

だが、今の私は、息を殺して待った。

彼の視線は、私の靴の先で数秒間止まった。

私は、自分がそこに「ただの物」として存在することを意識した。敵でもなければ、味方でもない。ただ、そこにある空気の一部。


ヒロくんは、私の存在が自分を脅かすものではないことを確認するように、深く、深く呼吸をした。

そして、彼は再び生地を掴んだ。

三回こね、二回叩き、窓を見る。

そのリズムに、変化はなかった。けれど、何かが決定的に違っていた。

彼の呼吸と、私の呼吸が、いつの間にか重なっていたのだ。


彼が吸えば、私も吸う。

彼が吐けば、私も吐く。

一メートル半の空間に、目に見えない糸が張られ、私たちは同じ潮の満ち引きの中にいた。


(……今、私たちは、繋がっている?)


それは、言葉を重ねて得られる理解よりも、もっとずっと深い場所にある共鳴だった。


「……三時間経過。合格だ」


背後で、重苦しい沈黙を切り裂く声がした。

一ノ瀬さんが、私の背中をポンと叩いた。

私はその瞬間、憑き物が落ちたように大きく息を吐き出した。全身の力が抜け、椅子からずり落ちそうになる。


「お前、あいつの呼吸と完全に重なってたな。最後の一時間、一回もズレなかった」


一ノ瀬さんは、手元のストップウォッチを止めた。画面には、残酷なまでに正確な「03:00:00」という数字が並んでいた。

彼は事務室の入り口に寄りかかり、ポケットから取り出した煙草を(もちろん火はつけずに)口に咥えた。


「いいか、森下。支援員の仕事ってのはな、相手を引っ張り上げることじゃない。隣に座って、あいつの歩幅を確認することだ。……お前は今日、ようやくあいつの隣に座る資格を得た」


私は、自分の手がまだ小さく震えているのを見つめた。

「……怖かったです。何もしないことが、こんなに怖いなんて思いませんでした」


「だろうな。無能な奴ほど、何かして『仕事をした気』になりたがる。でもな、何もしないで見守るってのは、最大の技術なんだよ」


一ノ瀬さんは、初めて不敵に、けれどどこか温かみのある笑みを浮かべた。


「今日はもう帰れ。泥のように眠れよ。……ヒロも、お前の匂いに慣れたみたいだ。……安っぽい花の匂いじゃなくて、汗をかいて、必死に息をしてる、生身の人間の匂いにな」


一ノ瀬さんの言葉が、胸の奥にじわりと染み込んだ。

私は、窓際の席で再び静かにパンをこね始めたヒロくんの背中に、音を立てずに深く頭を下げた。


あおぞら工房の外に出ると、四月の夕暮れが街をオレンジ色に染めていた。

私は自分の呼吸を意識しながら、家路についた。

明日もまた、あの静寂の中に飛び込むために。


(第3話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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