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第2話:透明な壁とフローラルの罪


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 「よかれと思って」の地雷

事務室から逃げるように工房へ足を踏み入れた私は、深呼吸をして自分を立て直した。

一ノ瀬さんのあの態度は、きっと「新入りを試している」のだ。あるいは、長く現場に居すぎて心が摩耗してしまったのかもしれない。

「私は違う。私は、彼らの心に一番近い支援員になるんだ」

そう自分に言い聞かせると、ポロシャツの襟元から、朝につけたお気に入りのフローラル系の香水がふんわりと香った。清潔感。第一印象。大学の就職支援セミナーでも「身だしなみはマナーだ」と教わった。この香りは、私のやる気のスイッチでもある。


工房の中は、発酵したパン生地の甘酸っぱい匂いと、オーブンの熱気で満ちていた。

十数人の利用者さんが、慣れた手つきで作業をしている。ある人は黙々と袋詰めをし、ある人は楽しそうに鼻歌を歌いながら天板を運んでいる。

その賑やかな光景の中で、一人だけ、異質な「静寂」を纏っている青年がいた。

広瀬陽太くん――通称、ヒロくん。


部屋の隅、窓際の席。彼は壁に向かって座り、外界との接触を完全に断っているように見えた。

私は実習の時、遠くから彼を見たことを思い出していた。あの時は、ベテランの職員さんが彼の横で静かに寄り添っていた。

(あの子……。今は一人だわ。寂しくないのかな)


ヒロくんの手元を見ると、粘土細工をこねるようにパン生地を扱っていた。

だが、その動きは極めて独特だった。

生地を一度、親指の付け根でぐっと押し込む。

次に、掌で二度、ポンポンと叩く。

最後に、生地を三度、くるくると転がす。

その動作を、寸分の狂いもなく、機械のような正確さで繰り返しているのだ。


私は「チャンスだ」と思った。

孤立しているように見える利用者に、太陽のような笑顔で寄り添い、優しく声をかける。これこそが、私の思い描いていた「理想の支援員」としての第一歩。

私は、今日のために用意した「武装」を確認した。

強すぎない、けれどしっかり香るフローラルの香り。そして、明るく聞き取りやすい、ハキハキとした発声。


私はヒロくんのパーソナルスペースを尊重したつもりで、斜め後ろから、ゆっくりと屈み込んだ。彼と同じ目線に立ち、包み込むような笑顔を作る。


「ヒロくん、おはよう! 私、今日からここで働く森下くるみです。よろしくね!」


私の声が、彼の耳元に届いた瞬間。

ヒロくんの指が、ピタリと止まった。


私は良かれと思って、彼の手元にある生地に、優しく手を添えようとした。

「一緒にやってみてもいいかな?」


「……っ!」


その瞬間、ヒロくんの体が、まるで高電圧の電流を流されたかのように、激しくビクンと跳ねた。

それは、恥ずかしがっているとか、驚いているとかいう次元ではなかった。

獲物を狙う肉食獣に襲われた小動物のような、純粋で、物理的な「恐怖」の反応だった。


彼は手に持っていた生地を床に叩きつけると、椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。そして、両手で自分の耳を、骨がきしむほどの力で激しく塞いだ。


「あ、あ、あああああ!!!」


金切り声のような叫びが、工房に響き渡った。

ヒロくんの瞳は一瞬でパニックの渦に飲み込まれ、焦点が定まらなくなった。私の顔を見ているようで、見ていない。彼は、彼の中にしかない地獄を見ているようだった。


「え、あ、ごめんね! びっくりさせちゃった? 大丈夫、怖くないよ、くるみさんだよ! 仲良くしようね!」


焦った私は、さらになだめようと彼の肩に触れてしまった。

それが、決定的な「爆弾」のスイッチを押し込んだことに、当時の私は気づいていなかった。


「ぎゃあああああああ!!!」


ヒロくんは、のけ反るようにして椅子から転げ落ちた。

コンクリートの硬い床に倒れ込み、あろうことか、自分の後頭部を床に打ち付け始めた。

ゴン、ゴン、と鈍い音が響く。


「やめて! ヒロくん、落ち着いて! 危ないから!」


私は半狂乱になって彼を止めようとしたが、パニックに陥った彼の力は凄まじく、私の腕を細枝のように振り払った。私の理想は、初日の開始数時間で、見るも無残に瓦解した。


2. 冷徹な解説

「どけ、素人」


背後から、低く、そして信じられないほど冷淡な声が響いた。

振り返ると、そこには一ノ瀬さんが立っていた。

彼は私を乱暴に、文字通り邪魔な障害物のように脇へ突き飛ばした。私はバランスを崩し、パンのコンテナの山にぶつかって尻餅をついた。


(……助けてくれるの?)


私は期待を込めて一ノ瀬さんを見上げた。

しかし、彼はヒロくんを抱きしめることも、優しい言葉で安心させることもしなかった。

それどころか、一ノ瀬さんはヒロくんに触れようともせず、ただ二メートルほど離れた場所に、どっかりと胡坐あぐらをかいて座り込んだのだ。


彼は無言でスマホのアラームをセットし、目を閉じた。

まるで、暴風雨が過ぎ去るのを待つ石像のように、静かに、そこに存在しているだけだった。


「あ、あ、あああ……」


ヒロくんの叫びは、数分間続いた。一ノ瀬さんは微動だにしない。

やがて、ヒロくんの呼吸が次第に落ち着きを取り戻し、叩きつけていた頭を止めた。彼は泥のように疲れ果てた様子で、床に丸まった。

すると一ノ瀬さんは、アラームが鳴る前にスマホをしまい、立ち上がった。

彼はヒロくんに一言もかけず、そのまま事務室へと戻っていった。


私は足の震えを抑えながら、ふらふらになって彼を追った。

事務室に戻ると、一ノ瀬さんは何事もなかったかのように、冷めたコーヒーを啜っていた。


「一ノ瀬さん、さっきのは……! なんで助けないんですか! 彼は自分を傷つけていたんですよ!?」


私が声を荒らげると、一ノ瀬さんはカップをデスクに置き、ゆっくりと私を振り返った。その瞳は、やはり「死んだ魚」のように濁っていたが、その奥には、私を射抜くような鋭い光が宿っていた。


「お前、あいつの脳内を想像したことあるか?」

「え……?」

「共感だの寄り添いだの、お前の好きな言葉で答えてみろよ。ヒロにとって、今の時間がどういうものだったか」


私は言葉に詰まった。「びっくりさせただけで……」と言いかけた私の言葉を、一ノ瀬さんは遮った。


「ヒロは、極度の感覚過敏だ。健常者の数百倍の解像度で世界を感じてる。……お前が朝からプンプンさせてるその安っぽい香水は、あいつにとっては腐敗した毒ガスの匂いと同じだ。お前の元気な挨拶は、静かな寝室に突っ込んできたドリルの轟音だ。そして、予測不能なタイミングでの身体接触は……背後から命を狙う敵の襲撃だ」


私は言葉を失った。香水も、明るい声も、親しみを込めた接触も。

私が「良かれと思って」した工夫のすべてが、彼にとっては拷問だったというのか。


「お前の『よかれ』は、あいつにとっての『暴力』なんだよ」


一ノ瀬さんは、吐き捨てるように言った。

「ヒロがパニックを起こした時、一番必要なのは、刺激を遮断することだ。抱きしめる? 囁きかける? バカか。そんなの、火事にガソリンを注ぐようなもんだ。俺があそこに座ったのは、あいつに『今はこれ以上、何の変化も起きない』という基準点を見せるためだ」


一ノ瀬さんは、再びスマホを手に取った。画面には、またあのパズルゲームのアイコンが並んでいた。


「森下。お前は自分の『満足感』のために支援をしてる。相手の立場に立つってのは、自分の心地よさを捨てることだ。……明日もここに来るつもりなら、その香水はドブに捨ててこい。柔軟剤も無香料に変えろ。お前という個性を消して、透明な壁になれ。それができないなら、今すぐリクルートスーツに着替えて帰れ」


私は、自分の手が小さく震えているのに気づいた。

大学で学んだ知識が、教科書に書いてあった「美しい福祉」が、一ノ瀬さんの冷徹な言葉によって、跡形もなく打ち砕かれていく。


事務室の窓の外には、変わらず桜が舞っている。

けれど、その景色はもう、私には輝いては見えなかった。

私は自分の襟元に残るフローラルの香りが、急にひどく不快なものに感じられ、それをかき消すように強く胸元を握りしめた。


一ノ瀬さんはもう、私を見ていなかった。

電子音だけが響く静かな部屋で、私は自分の無知という名の罪を、ただ噛み締めるしかなかった。


(第2話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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