『お前みたいな女を愛する者などいない」 』
舞踏大広間は、光で満ちていた。
天井から垂れ下がる無数のシャンデリアが、砕けた星を閉じ込めたように煌めいている。
金糸のドレス。白い手袋。笑い声。香水の甘い匂い。
すべてが混ざり合って、息が詰まりそうだった。
けれど。
その光の中心にいるはずの人が――いない。
リヒト殿下の姿がなかった。
あんなに目立つ人なのだから、見つからないということは、いないということだ。
胸の奥が、ざわつく。
私は人の波を縫うように歩いた。
金色の肩章。深紅の礼服。見知らぬ顔、顔、顔。
違う。
違う。
違う。
どこにも、いない。
「少し、失礼いたします……」
誰にともなく呟き、大広間を抜ける。
扉が閉まった瞬間、音が遠ざかった。
回廊は薄暗く、壁に灯る燭台の火が静かに揺れている。
石の床は冷たく、その冷たさが靴底からまっすぐ胸へと上ってくるようだった。
扉を押す。
夜気が、流れ込む。
庭園は、銀色だった。
月光が白い砂利に降り積もり、薔薇の葉の縁を淡く光らせている。
湿った土の匂い。夜の匂い。遠くの楽団の音が、水の底から聞こえてくるみたいに滲んでいた。
私は一歩、踏み出す。
そのとき。
笑い声がした。
聞き慣れた声。
心臓が、跳ねる。
――殿下。
足が勝手に動く。
止められなかった。
東屋の影。
月明かりの中に、二つの影が溶け合っている。
リヒト殿下だった。
彼の腕の中に、知らない女がいる。
白い首筋に、彼の手が触れている。
指先が、あまりにも自然に、あまりにも慣れた動きで。
女が、甘く笑った。
「殿下……あの方、今夜は随分と装っていらっしゃいましたわね」
リヒト殿下も笑う。
低く、柔らかく。
私が一度も向けられたことのない声で。
「元が元なのだから、いくら金をかけてもあれが限界だったんだろうな」
その言葉が、夜に落ちる。
「あの女の話はやめてくれ。萎えてしまう。モンテリオールの一人娘だから婚約を結んだだけだ」
世界が、傾いた。
それでも、私は立っていた。
立っているはずだった。
「……殿下」
声が、震えた。
リヒト殿下が振り向く。
その瞳にあったのは、驚きではなかった。
苛立ちだった。
「こんなところで一人で何をしている」
冷たい。
何もかもが。
「……殿下のお姿が見えませんでしたので……」
言葉が、零れ落ちる。
彼は私を見た。
頭の先から、足元まで。
値踏みするように。
そして、吐き捨てる。
「侯爵令嬢が護衛も付けずに夜を歩き回るなど、はしたないことだ」
女の笑い声が、針のように刺さる。
息ができない。
胸が、苦しい。
彼は続ける。
「お前みたいな女を愛する者などいない」
その瞬間、
何かが、完全に壊れた。
膝が折れる。
砂利の冷たさが、布越しに伝わる。
指先が震える。視界が滲む。
「興が醒めた。行こう」
隣の女を、美しくエスコートする。
去り際に、リヒト殿下は低く言った。
「いい家紋に生まれたことに、せいぜい感謝することだ」
背中が、遠ざかる。
振り返って。
振り返って。
振り返って――
けれど。
振り返ってくれたとしても、
もう、何も戻らないのだと分かっていた。
二人の姿が消えても、私はそこから動けなかった。
指が痛いほど握りしめられている。
一雫、涙が落ちる。
唇が動く。
止められなかった。
「……私を、見て」
声が零れる。
「……助けて」
誰に向けたのか、自分でも分からない。
ただ、
一人になりたくなかった。
そのとき。
背後で、砂利が鳴った。
ゆっくりとした足音。
そして、
低く、落ち着いた声が夜を裂いた。
「――助けるのは、私でもいいかな」
その声を、
私は知っている気がした。
壊れかけた心を支えるように、
私はゆっくりと――振り返った。




