第8話 幸運対幸運
ミツオ裁縫店を出た時点で、空はすっかり夜だった。
思ったより、長話をしていたらしい。
味原もミツオさんも、終始楽しそうだった。
途中からボードゲームを始めたのには少し驚いたが、圧勝した俺に、ミツオさんが今後の情報提供を約束してくれたのだから、やはり幸運だ。
結局のところ、久しぶりに帰省した孫と、その祖父といった光景だった。
それから味原の家に荷物を置き、時刻は午後9時すぎ。
港に着いたのは、それから約1時間後だった。
能比港は、相変わらずだった。
錆びたクレーン。
積み上げられたコンテナ。
海と油と金属が混じった匂い。
人は少ない。
だが、いないわけではない。
作業着姿の男が遠くを歩き、軽トラックのエンジン音が、時折、闇の向こうから聞こえてくる。
「……“端”って、曖昧だね」
味原が、栄養バーを齧りながら言った。
「港の端か。埠頭の端か。あるいは……」
「情報の端、かも」
もごもごと咀嚼しながら、視線を巡らせる。
口にしているのはただの栄養バーだが、彼女は食べながら、同時に情報を整理しているはずだった。
味原の強みは、能力そのものじゃない。
膨大な情報を、適切に処理できる頭脳だ。
「それで、何か分かるか?」
「うーん……」
味原は首を傾げる。
「情報が、薄い。取引の匂いはするけど……焦点が定まらない」
確かに嫌な感覚だ。
通常、取引がある場所は分かりやすい。
人の動き。
視線。
隠しきれない緊張。
だが、今夜は違う。
港全体が、妙に“整っている”。
俺たちは歩く。
コンテナの列を抜け、倉庫を回り、岸壁沿いを進む。
その間、一度も邪魔が入らない。
警備員はいない。
野良の能力者もいない。
巡回の車も、なぜか来ない。
幸運が俺を導いてくれるはず。
それでも、何かがおかしい。
「……レイジ君」
味原が、足を止めた。
「これ、変だよ」
彼女は栄養バーを飲み込み、真剣な顔になる。
「取引があるなら、情報は“濁る”。レイジ君の幸運があれば、なおさら混沌とする」
少し言葉を探してから、続けた。
「……澄みすぎてる」
その瞬間、俺も気づいた。
――静かすぎる。
時刻はすでに、午後11時。
取引が始まっていても、おかしくない時間帯だ。
「これは、動かない方がいいかも」
味原はそう言い、足を止める。
「なぜだ?」
「相手の幸運の発生を待つ方が、自然でしょ」
俺は納得し、港の倉庫近く、点滅する街灯の下で待つことにする。
季節は春だというのに、夜はまだ肌寒い。
自動販売機でホットコーヒーを買い、1本を味原に渡す。
「ホットウォーターはなかった」
味原はそれを受け取り、しばらく、ただ手に持っていた。
そして、俺が一口飲むと、手にしていた新しい缶を差し出してくる。
「交換してほしいなあ」
「なぜだ」
「レイジ君の情報で、上書きしたいから」
「そういうものなのか……」
俺はそのまま交換し、新しい缶を開ける。
苦みが、脳を刺激した。
「シオン……」
急に、味原が呟いた。
俺の唾液から、記憶の一部を読み取ったのだろう。
そもそも彼女になら、すでに知られていてもおかしくはない。
だが、味原の様子が変わる。
目を見開き、音を立てるほどの歯軋りを始めた。
――彼女の思考が、限界を超えて回転している時の癖だ。
しばらくして、音が止まる。
「レイジ君」
「なんだ?」
「……死なないでね」
彼女の頭脳が導き出した答えは、その一言だった。
「当たり前だ」
俺は、それだけを返した。
シオンと関わってから、積み上げてきた平凡が、少しずつ崩れている。
それでも、俺には責任がある。
人助けの、責任が。
「牛丼食ってるだけで、幸せな人生だったのにな……」
夜空を見上げ、白い息を、ゆっくり吐き出した。
時刻は午後11時30分。
「ここからは俺一人でやる。味原、帰ったらすぐに身を隠せ」
俺は立ち上がり、身体を伸ばす。
「そうするよ」
味原は、あくびをしながら軽く手を振った。
俺は振り返らずに歩き出す。
味原は合理的な能力者だ。
俺の幸運が、俺にしか適用されないことくらい、理解している。
そして、俺にとっての幸運が、他人にとっては不運になることも。
港湾を、ぶらぶらと歩く。
本来なら、もう始まっているはずだった。
倉庫の並ぶ一角で、最初の異変に気づく。
ある倉庫の前に、男が倒れていた。
いや――
倒れている、というより。
「……寝てるな」
呼吸は規則正しい。
酒に潰れた様子でもない。
少し進むと、もう一人。
さらに奥に、二人。
全員、生きている。
全員、深い眠りに落ちている。
そして、首元には――
「針か……」
極細。
正確。
だが、雑。
眠らせることだけを目的にした刺し方だ。
後処理を一切考えていない。
「……俺じゃない」
これは、俺の仕事じゃない。
「取引は、あった。でも……」
声が、自然と低くなる。
「終わってる。しかも、ずっと前に」
嫌な予感が、確信に変わる。
誰かが、俺より先にここへ来ている。
拍子抜けするほど、静かな現場。
倉庫の一つ。
半開きのシャッターの向こうから、声が聞こえた。
「……ったく。遅ぇと思ったらこれか」
低く、苛立った男の声。
俺は、無意識に肩を落とした。
「……生き残り、か」
シャッターの隙間から、中を覗く。
倉庫内には裸電球が一つ。
その下に、男が立っていた。
体格は大きい。
腕は太く、拳は不自然に赤い。
熱を帯びているのが、遠目でも分かる。
「ああ? 誰だ、お前」
男がこちらを見た。
「いやあ、すみません。迷ってしまって」
俺は不運な一般人を装いながら、相手を見た。
知っている。
こいつは、受外力多。
武闘派で有名な、裏の能力者だ。
「なら死んでくれや。今夜は調子が良くてよ。全員ぶっ飛ばすつもりだったのに、来てみりゃこのざまだ」
――なるほど。
俺は、状況を正確に理解した。
周囲を見ると、倉庫の奥にも同じように倒れている連中。
全員、首元に針。
完全に、終わっていた。
受外の能力は、受けた物理衝撃を溜め込み、拳から放出するエネルギー保存系だ。
つまり、これをやったのは別の人間。
「溜めに溜めてきたんだ。お前も運がねぇな」
受外は楽しそうに笑う。
俺は、ほんの一瞬だけ考えた。
そして、結論を出す。
「……あのさ」
「あ?」
「それ、溜めすぎじゃないか?」
次の瞬間――
幸運が、仕事をした。
力多が一歩、踏み出す。
「――ッ!」
足元で、乾いた音がした。
カツン。
それだけだ。
ただの金属音。
だが――
「……あ?」
力多の動きが止まる。
――ぷす。
力多の首元に、何かが刺さった。
ほんの一瞬。
彼自身が気づかないほど、軽い感触。
「……え?」
力多は、ゆっくりと瞬きをした。
拳から、熱が抜ける。
赤かった色が、みるみる冷めていく。
「ちょ、待……俺、今――」
そこまで言って、力多は前のめりに倒れた。
ドサッ、という鈍い音。
深い、深い眠りだ。
俺は無言で近づき、床を見下ろす。
原因は、すぐに分かった。
床に落ちている、数本の針。
そのうち一本を力多が踏み、弾き、そして、ちょうどいい角度で跳ね上がった。
「……運が良すぎるのも、考えものだな」
俺は針を拾い上げ、ため息を吐く。
溜めた力も、能力も、すべて発揮される前に終了。
「運も実力の内、か……?」
答えはない。
力多は、幸せそうな顔で眠っている。
「……さて、場所を移すか」
俺は左手首を見て、倉庫を出た。
理由は簡単だ。
現場を、これ以上荒らしたくない。
取引は取引で終わった。
あとは警察や特能の仕事だ。
そして――
これからは、俺の目的が始まる。
少し歩き、今にも崩れそうな倉庫に入る。
「出てこい」
静寂の中、足音が一つ。
拍手が、ゆっくりと響いた。
「いやあ、さすがですね」
闇の向こうから、男の気配が浮かび上がる。
作られたような、軽い口調。
「力多が可哀想ですよ。溜めに溜めて、針一本でおしまいだなんて」
俺は肩をすくめた。
「あいつは、運が悪かった」
「すべて計算の内でしょう? いやはや、デパートでは驚きましたよ。私の動きが、すべて読まれているようでしたから」
何を言っている。
俺は、何もしていない。
「すみません。死んでもらいますね」
その言葉を聞いても、俺は焦らず、ゆっくりと振り返る。
──これからは、時間との勝負だ。
直後、近づいてくる車の音。
銃声。
倉庫の外から、無数の銃弾が撃ち込まれる。
俺は、何もしない。
壁に穴が穿たれ、放置された機械類から埃が舞う。
弾と弾が当たり、火花が散る。
俺は、ただ立っている。
やがて、銃声が止んだ。
「驚いた。本当に不死身だ」
男の姿は、まだ見えない。
――あと、32秒。
「ちゃんと狙え」
俺はそう言って、歩き出す。
土埃の中、男の輪郭だけが見える。
「そうしますよ」
男はそう答え、銃口を俺に向けた。
発射と同時に、天井の照明が落ちる。
火花と同時に弾道は逸れ、俺の頬をかすめた。
俺は、歩を止めない。
もう一発。
胸に、衝撃。
痛い。
めちゃくちゃ痛い。
だが、シャツの胸ポケットには、使っていなかった金属製のケース。
さらにその下には、衝撃吸収用の防弾チョッキ。
呼吸を整え、立ち上がる。
「不死身の零番。噂通りですね」
背筋が、ぞわりとした。
……いや、少しだけ格好いい気もするが。
「俺は、俺に干渉した者を排除するようにしている。対処療法にすぎないのは、分かっているが」
俺は歩き続ける。
「悪いが、消えてもらう」
潰れたケースから、針を一本取り出す。
塗られている麻酔には、直近の記憶を消す効果がある。
どこかの能力者が作った、薬物検査にも引っかからない裏の品だ。
その瞬間、建物が軋んだ。
「やはり、私は運がいいですね」
轟音の中、男の声が聞こえる。
――崩落。
しばらくして。
瓦礫の上で、俺は左手首を見る。
時刻は、午前0時1分2秒。
零時は、すでに超えていた。
俺は右手で銃の形を作り、海面に浮かぶ月の光へと向ける。
「ばーん」
そう言って引き金を引くと、人差し指の先から、水が放出された。
放物線を描き、それは情けなく地面に落ちる。
今日の能力は、外れ。
目的は、未達成。
でも、生きている。
――運がいいのは、俺だ。




