第6話 幸運の信頼性
味原の部屋は、相変わらず妙に静かだった。
紙が、音もなく噛み砕かれていく。
味原は封筒から取り出したそれを、ためらいなく口に放り込み、ゆっくりと咀嚼していた。
歯が紙を断つ感触。
喉を通る異物の重み。
「それで、どうだ?」
俺は、咀嚼を繰り返す味原を見て聞いた。
「んぐ。うーん。まずいね」
「そうか……」
味が、ではないことくらい分かっている。
「僕が食べる未来すら、見通されていたよ。とんでもないことに僕を巻き込んでくれたね、レイジ君」
なぜか、少し嬉しそうにする味原。
「本当に面倒だ……」
俺は天を仰いだ。
──どうしてこうなった。
そう思わずにはいられなかった。
「それにしても。へへへ。零番だって。レイジ君、カッコいいね」
「なんだ、それ?」
「なんでもないよ~。それで、僕が食べることで読み取りたかった情報は二つ。誰が、何のために、だね。だけど、ハズレ。この封筒からは何も感じ取れなかった。対策されていたようだね」
味原は、ゆっくりと首を横に振る。
「問題は、紙の方」
封筒の中に入っていた一枚の紙。
右上の一部分が、噛み切られて欠けている。
「これには、はっきりとしたメッセージが込められていたよ。“僕向け”の、ね」
「すまない。引っ越し費用も、後で請求してくれ」
俺は素直に頭を下げた。
「いや、いいよ。代わりに僕からもお願い」
「なんだ? 元より対価は支払うつもりだった。なんでも言ってくれ」
味原は言い淀む。
不健康そうな肌色の頬を、わずかに赤く染め、もじもじとしていた。
そして、意を決したように言う。
「僕の買い物に、付き合って欲しいな~、なんて……」
「分かった」
俺は即答した。
「え、いいの?」
味原は目を丸くする。
「当たり前だ。いつも言ってるだろ。外に出ろって。今日が終わったら、日程を組む」
「へへへ。やったあ……う、うん。それでね。今日でいいよ、ついでだし」
味原は表情を引き締め、俺の目を真っ直ぐ見てきた。
「僕へのメッセージは、『今日、能比である取引が行われる』。零番……レイジ君には、それを止めて欲しいってことかな」
「面倒だな……」
なんの取引なのか。
なにを知っているのか。
なぜ警察でも、特能でもなく、俺なのか。
相手の意図は読めない。
だが、こちらが後手に回っていることだけは確かだ。
「まあいい。準備してくれ。買い物に行くぞ」
「さすがはレイジ君」
味原が二階へ向かったのを確認して、俺は一人、考える。
──“今日”でよかった。
やっぱり今日は、幸運だ。
味原の準備は、予想以上に長かった。
暇を持て余した俺は、仕方なく家の片付けを始める。
俺が引き金になった引っ越しだ。
少しくらいは手伝おうと思っただけだ。
……それにしても。
やはりというか、味原の生活は不摂生の極みだった。
棚に並んでいるのは、栄養バー。
箱買いされたミネラルウォーター。
用途別に細かく分けられたサプリメント。
飲食に限って言えば、それ以外が存在しない。
ある程度、能力を制御できるようになったとはいえ、
彼女は”食べたものの情報”が、映像や感覚として頭に流れ込んでくるらしい。
味、産地、加工工程、混入物。
下手をすれば、作った人間の感情、そして、生物が死を迎える瞬間まで。
その相談を受けたのも、もう昔の話だ。
「……まだ、普通の食事はしないのか」
ゴミを分別しながら、俺は小さくため息を吐いた。
ちょうどその時、階段を下りる足音がする。
「別に食べられるんだけどね。もう習慣になっちゃって」
そう言って現れた味原は、率直に言って、奇妙な格好をしていた。
ぼさぼさだった長い髪は、腰のあたりで一つにまとめられている。
ただし前髪は切られておらず、目元をすっかり覆ったまま。
さらにマスクで、あの特徴的なギザギザの歯も完全に隠していた。
……顔周りは、徹底して防御している。
なのに、身体は正反対だった。
上半身は、腹部を完全に露出したブラトップ。
鍛え上げられた腹直筋が、はっきりと浮かび上がっている。
下半身は、太腿のラインを隠す気のないレギンス。
隠したいのか、晒したいのか。
判断に困る格好だった。
「……ジムにでも行くのか?」
スポーツウェア姿の味原を見て、俺は率直に聞いた。
どう見ても、普段着ではない。
「反応が薄いなあ。僕の努力、見てもらいたいだけだよ」
「そうか。まあ、いいと思うよ」
身体づくりの目的は、人それぞれだ。
他人に見せるのがモチベーションなら、それも悪くない。
買い物にその格好はどうなんだ、とは思うが。
人の趣味趣向に口出しするほど、俺は暇じゃない。
「掃除してくれたんだ。ありがと」
「暇だったからな」
俺は玄関へ向かいながら、味原に声をかける。
「それで、どこに行きたい?」
彼女は丈の短いジャケットを着ながら、少し悩んでいた。
「デパートとか、どうかな?」
「どうかな、って……まあ、いいか」
俺はドアを開け、外の空気を吸い込んだ。
運との付き合い方は、もう嫌というほど知っている。
この能力は、一番単純で――
一番扱いづらい。
繁華街まで歩く。
デパートの自動ドアが開いた瞬間、味原の足が止まった。
「……うわ」
小さく漏れた声は、ほとんど悲鳴に近い。
平日の昼間だというのに、人は多い。
子どもの泣き声、エスカレーターの駆動音、店内放送。
香水と食品の匂いが混じり合い、情報が無秩序に流れ込んでくる。
味原は無意識に、俺の半歩後ろに隠れるように立った。
「やっぱり、苦手か」
「うん……視線が多いし、音も多い。食べ物売り場は特にダメだね。情報が、勝手に入ってくる」
彼女はこめかみを押さえながら言う。
口に入れなくても、記憶から情報が呼び出されるらしい。
それでも、逃げ出さない。
それだけで、今日は大進歩だ。
「無理そうなら、すぐ出るぞ」
「……うん。でも、今日は行けそう。たぶん」
“たぶん”がつくあたり、信用はできないが。
俺たちは、とりあえず衣料品フロアへ向かった。
食べ物の匂いが少ない場所を、無意識に選んでいる。
やけに、通路が空いていた。
人の流れが、俺たちの前だけ、不自然に割れていく。
ベビーカーは手前で方向を変え、
立ち止まっていた客は、なぜか同時に動き出す。
エレベーターも同じだ。
ちょうど扉が開き、ちょうど二人分の空き。
しかも、目的の階まで、誰も乗ってこない。
「……ラッキーだね」
味原が、少しだけ表情を緩めた。
「ああ」
俺は短く答える。
幸運だ。
間違いなく。
だが――
胸の奥に、引っかかるものがあった。
これは、本当に“俺の”幸運か?
デパートに入ってから、消えない違和感。
それとなく周囲を確認するが、怪しい気配はない。
それでも、俺が意識していないところで、
誰かが同じように、運を歪めている気がする。
長年、能力を分析してきたからこそ分かる。
根拠はないが、無視できない感覚だった。
衣料品売り場にたどり着くと、味原はしばらく固まっていた。
ラックに並ぶ服を前に、どうしていいか分からないらしい。
「……こういう場所、久しぶりか?」
「久しぶりどころじゃないよ」
指先で布地に触れ、すぐに引っ込める。
「選択肢が多すぎるけど……どれを選んでも、後悔しそう」
「必ず後悔するわけじゃない」
「でも、未来は想像できちゃうからさ」
彼女の身長を考えれば、当たり前の悩みではあった。
俺は適当に、一着のワンピースを手に取る。
「じゃあ、これだ」
「雑!」
「問題ない。俺のせいにしろ」
味原は一瞬きょとんとしてから、吹き出した。
「……ずるいなあ、それ」
「すみません。これ、彼女のサイズってありますか?」
ちょうど通りかかった店員に声をかける。
結局、その服“だけ”大きなサイズがあった。
海外ブランドで、店員の手配ミスにより、たまたま入荷していたらしい。
驚くほど、ぴったりだった。
試着室も待ち時間なし。
会計も、レジが空いた瞬間。
幸運が、連続している。
それ自体は、いい。
問題ない。
だが、セール中の衣料品売り場から、客が全員消えるなど、あり得るだろうか。
「外、出てよかった。ありがと、レイジ君」
俺の警戒をよそに、味原は袋を抱え、満足そうに息を吐いた。
「どういたしまして」
その瞬間、背中がぞわりとした。
視線を感じたわけじゃない。
ただ、運の流れが、一瞬だけ引っかかった。
まるで、別の“幸運”と、すれ違ったような。
「手洗いに行ってくる」
生理現象を感じ、俺はトイレへ向かう。
そこにも、人はいない。
用を済ませ、手を洗おうとした時、かけていた眼鏡が、ずり落ちた。
「ついてないな……」
床に転がる眼鏡。
拾おうと、腰をかがめる。
洗面台の裏。
そこに、一枚のメモ用紙が貼られていた。
『零』
『港』
『端』
三つの単語だけが、無機質に並んでいる。




