第3話 平凡の裏側
朝、7時ちょうどに目が覚める。
目覚ましは鳴っていない。
いつものことだ。
体が勝手に、この時間を覚えている。
外から入り込む微かな音に、まだ眠気の残る頭を起こす。
キッチンに立ち、パンをトースターに放り込む。
ほどなく、焦げ目のつく匂いが広がった。
「……ん」
匂いにつられたのか、奥の部屋から足音がする。
寝起きのままのシオンが、リビングに顔を出した。
「おはよう」
「おはよう」
短いやり取り。
それで十分だ。
テレビをつけると、朝のニュースが流れ始める。
天気、事故、どこかの政治家の失言。
どれも、今日の俺たちには関係のない話だ。
テーブルにパンを並べ、コーヒーを注ぐ。
その間に、昨日聞いた住所をスマホで確認した。
「……意外と遠いな」
郊外。
名前も聞いたことのない地域だ。
俺は車を持っていない。
公共交通機関を調べると、バスは一応ある。
あるにはあるが、本数は少ない。
「シオン、10時には家を出るぞ」
そう言うと、彼女はパンをかじりながら顔を上げた。
「分かった。長旅?」
「長旅だな」
俺の返しに、シオンは小さく息を吐いた。
嫌そうというより、少しだけ楽しそうにも見える。
カリッとしたパンをかじりながら、俺はぼんやりと時計を見た。
いつもと変わらない朝。
ただ、今日は少しだけ、外に出る。
何事もなく終われば、それでいい。
準備をして、ダラダラ過ごした。
家を出たのは、10時ちょうどだった。
最寄り駅まで歩き、電車を一本乗り継ぐ。
そこからさらにバスだ。
車内は空いている。
平日の昼前ということもあり、乗客は年配の夫婦と、買い物袋を抱えた女性が一人いるだけだった。
「静かだな」
俺がそう言うと、シオンは窓の外を見たまま頷いた。
「こういう場所、久しぶり」
「そうか?」
「うん」
それ以上は続かない。
会話がなくても気まずくならないのは、悪くない関係だと思っている。
バスは市街地を離れ、徐々に建物の間隔が広がっていく。
低い住宅と畑。
コンビニの数も減り、信号も少ない。
昨日、夫婦が言っていた通りの場所だった。
「次だな」
降車ボタンを押し、地面に足をつける。
バスが去ると、辺りは驚くほど静かになった。
風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえる。
「……静かすぎないか」
「そう?」
「いや、いい場所だとは思うけどな」
言いながら、指定された住所をもう一度確認する。
少し歩いた先に、二階建ての一軒家があった。
新築ではないが、手入れは行き届いている。
庭もきれいで、生活感がある。
「ここだな」
インターホンを押すと、すぐに音が返ってきた。
『はい』
昨日聞いた声だ。
間違いない。
「レイジです」
『どうぞ、今開けます』
ほどなくして玄関の扉が開き、旦那の方が姿を見せた。
「今日はありがとうございます」
深く頭を下げる。
その仕草は自然で、芝居がかっていない。
「いえいえ。気にしないでください」
靴を脱ぎ、家に上がる。
室内は整っていた。
物が少なすぎるわけでも、多すぎるわけでもない。
普通の家庭だ。
「奥さんは?」
「上で休んでいます。少し疲れたようで」
「そうですか」
案内されるまま、リビングへ向かう。
ソファの横に、ベビーベッドが置かれていた。
「この子です」
布越しに、小さな寝息が聞こえる。
本当に、生まれたばかりだ。
俺は、無意識に距離を取った。
能力を見る。
それ自体は、特別なことじゃない。
だが、相手が赤ん坊となると、話は別だ。
「可愛いでしょう?」
旦那はそう言った。
「そうですね。能力については?」
能力の発動を見ないことには、実態は掴めない。
だが、赤ん坊に『能力を使え』と言うわけにもいかない。
「はい。透明化です」
「それは……」
俺は眉間に皺を寄せた。
透明化。
最も扱いづらい能力のひとつだ。
「今は、どれくらいの頻度で?」
「1日に1回あるかどうかです。ですが将来、能力が強くなったらと考えると……」
旦那は言葉を詰まらせた。
「すみません。結局、相談になってしまいますね」
「私にできることでしたら、お力になりますよ」
俺と旦那はソファに座り、話を続ける。
シオンは赤ん坊を見守ったままだ。
「透明化の難点は、自分で自分が分からなくなることです。特に、能力が強くなると、自分が世界から消えてしまったような感覚を覚えます」
かつて俺が、最強の透明能力を得たときのことが脳裏をよぎる。
「ですが……」
言葉を選ぶ。
「今のお話を聞く限りでは、心配するほどではありません」
「……と、言いますと?」
「1日に1回、しかも短時間。赤ん坊なら、その程度の発現は珍しくないです」
旦那の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「透明化は、派手な能力に見えますが、最初は不安定です。本人の意思とは無関係に、刺激で発動することも多い」
「泣いた時や、眠る直前に……」
「ええ。そのあたりでしょう」
俺が頷くと、旦那はほっとしたような、だが、どこか納得しきれない表情を見せた。
「将来、完全に透明になって戻らなくなる、ということは……」
「まずありません」
きっぱりと言う。
「成長とともに、自分の体を把握する感覚が育ちます。視覚や触覚が戻る限り、自我が消えることはない」
――少なくとも、普通の能力者なら。
「では……」
旦那は、探るような視線を向けてきた。
「もし、例外だった場合は?」
「例外?」
聞き返すと、彼はすぐに首を振った。
「いえ、なんでもありません」
その否定は、少しだけ早すぎた。
だが、俺は深く追及しない。
「今は、様子見でいいでしょう。環境を安定させて、触れること、声をかけること。それが一番です」
「……ありがとうございます」
旦那が、小さく頭を下げた。
その仕草は、感謝というより、安堵に近い。
俺はそれを、親として当然の反応だと受け取った。
*
レイジと旦那の会話が続く、その隣で。
シオンは、赤ん坊をじっと見つめていた。
穏やかな呼吸。
小さな胸が、規則正しく上下している。
問題は、そこではない。
この子の能力は、透明化などではない。
まだ、危険ではない。
敵意もない。
今は。
けれど――
考えかけて、シオンは思考を止めた。
レイジは、気づいていない。
そして、気づかない方がいい。
今日も、言わない。




