第12話 夢
がたんごとん、と電車が揺れる。
昨夜の寝不足が、まだ頭の奥に残っていた。
相談所を閉めたあとも、どうにも落ち着かず、結局ほとんど眠れなかったせいだ。
車内は空いていて、窓の外には田んぼがどこまでも広がっていた。
地平線まで続く緑の中を、電車はのんびり進んでいく。
今日は、ちょっとした遠足だ。
「……まあ、気分は最悪なんだけど」
思わず独り言が漏れる。
自分で言って、自分でため息をついた。
どうやら、思っていた以上に疲れているらしい。
今日は親友の命日だ。
関東県の端っこにある墓地まで、墓参りに行く予定だった。
「いい景色だよな。なあ、シオン」
気を紛らわせるように向かいの席を見る。
シオンは駅弁を両手で持ち、真剣な顔でそれを睨んでいた。
「うまい」
ひと口食べた瞬間、目を輝かせる。
「炭の苦み、焦げの苦み。それを米と玉ねぎの甘みが受け止めている。苦みがあるからこそ、この牛丼は新たな世界を見せてくれる」
「そんなに語るほどか……」
シオンは炭火焼牛丼に、完全に心を掴まれていた。
感動しすぎて、いつもより饒舌だ。
「それは良かったよ……はあ」
今日くらい、何も考えずに過ごしたかった。
けれど俺の頭の中では、考え事が勝手に積み上がっていく。
まず、シオンの記憶のこと。
彼女を待っている人間が、どこかにいるかもしれない。
早く手を打つべきなんだろう。
もっとも、方法自体は分かっている。
味原しずく。
シオンの一部を、彼女に食べてもらえばいい。
理屈の上では、それで解決する。
でも――
シオンは、記憶を取り戻したがっていない。
それだけは、はっきりと感じていた。
だから、この問題は保留だ。
シオンが自分から望む、その時まで。
次に、裏からの接触。
これは完全に、俺の過去のツケだ。
昔の俺は、自分の能力を過信していた。
その清算を、今になって求められているだけの話。
「いつかやる、が、今やるに変わっただけか……」
そして最後。
特能――特に、間宮時雨。
これが一番まずい。
俺の正体が知られた瞬間、即終了だ。
文字どおり、瞬殺される。
「間宮さんが俺に惚れてくれたら、全部解決なんだけどな……」
疲れ切った頭が、ありえない妄想を口にさせる。
間宮時雨が味方。
それだけで……それだけで?
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
馬鹿馬鹿しい。
「うまい。うますぎる」
俺の内心などお構いなしに、シオンは今日二度目の感動をしている。
その様子を見ているうちに、どうでもよくなってきた。
――まあ、なるようになるか。
俺は、少しだけ肩の力を抜いた。
無人駅で電車を降りる。
改札もなく、時刻表だけがぽつんと立っていた。
人の気配がまったくしない道を、俺たちは歩き出す。
隣には、リュックを背負い、麦わら帽子をかぶったシオン。
どう見ても遠足だ。
「完全にピクニックだな」
「遠足。墓参り付き」
晴れ渡った空の下、額にじんわりと汗が滲む。
それでも山から吹き下ろす風は涼しく、空気は澄んでいた。
不快な暑さではない。
しばらく歩くと、舗装された道が途切れ、山道に入る。
人の手がほとんど入っていない道だ。
小石を踏み、草をかき分け、黙々と進む。
やがて、視界が開けた。
墓地と言うには、あまりにも簡素だ。
山の中、木々を切り開いてできた空き地。
かつて何かの建物があったらしく、コンクリートの基礎だけが雑草に埋もれて残っている。
「……シオン、ここだ」
空き地の中央。
大きな石が、不自然な位置に置かれている。
それが、俺の目的地だった。
石に付いた苔と土を払い、持ってきた花を供える。
そして、両手を合わせた。
俺の知らない、俺の親友に向けて。
「俺は一度、記憶を失っている」
誰に聞かせるでもなく、言葉が口をついて出た。
「推測だけどな。あの日、俺は自分自身の能力で、記憶の一部を消したんだと思う」
その理由は、分からない。
今となっては、確かめようもない。
「十年前の今日、夢を見た。名前も顔も思い出せない親友が、ここで『さよなら』を言う夢だ」
俺は立ち上がり、石を見つめる。
「だから、今日が命日だ。理屈じゃない。そう決めただけだ」
大きく欠伸をして、背筋を伸ばす。
味原ですら辿れなかった、俺の記憶。
まるで、この世のどこからも、その情報だけが消し去られているみたいだった。
そして、あの日の能力は、あの日一度きり。
二度と手に入らなかった。
「まあ、年に一度の恒例行事だよ」
そう言って、俺は歩き出す。
「ここに来ると、落ち着くんだ」
背後で、風が草を揺らす音がした。
「レイジは、知りたい?」
シオンはその場に立ったまま、静かに言った。
風に溶けそうな声だった。
「どうだろうな……」
少し考えてから、肩をすくめる。
「まあ、気にすんな。飯でも食いに行こう。奮発して海鮮丼だ」
「さっき食べたばっかり」
「あー、そうだったな」
駅でねだられて、結局駅弁を買ってやったのを思い出す。
「でも、食べる。腹は減らせるもの」
シオンは軽く屈伸をしていた。
「無理すんなよ」
記憶と向き合っているのは、お互い様だ。
だからこそ――
俺は、彼女の助けになりたいと思っている。
*
風が、山を抜けていく。
草の擦れる音だけが、やけに大きく響いていた。
石の前に立つレイジの背中は、少しだけ丸まっている。
頭を下げ、手を合わせる姿は、ひどく静かだった。
何も起きていないはずなのに、胸の奥がきしりと軋んだ。
ここに来るまで、ずっと違和感があった。
相談所でレイジと“あの来訪者”を同時に見た時、私の中にあるはずの情報が、うまく繋がらなかった。
不自然だった。
不自然すぎた。
レイジは、消している。
確かに、何かを消している。
名前。
関係。
記録。
世界に刻まれていたはずの痕跡だけが、綺麗に抜け落ちている。
けれど、全部は消えていない。
辿ろうとすると空白になる。
だが、完全な無ではない。
空白の周囲だけが、異様に濃く歪んでいる。
残っている。
消せなかったのではない。
消えなかったのだ。
そういう“何か”が、確かに存在している。
背中越しに見えるレイジは、普段よりずっと無防備だった。
曖昧な笑顔も、誤魔化しもない。
何かを手放して、それでも捨てきれていない人間の姿。
レイジが顔を上げる。
「俺は一度、記憶を失っている」
ぽつりと語り出す声を、私は黙って聞いた。
本当は、聞きたいことが山ほどある。
言いたいことも、山ほどある。
「レイジは、知りたい?」
「どうだろうな……」
この人は、まだ歩いている。
過去と向き合う準備が、できていないだけだ。
だから私は、知らないふりをする。
今は、まだ。
風が吹き、花が揺れた。
その向こうで、季節は何事もなかったように進んでいく。
「飯でも食いに行こう」
私は、いつもの顔に戻る。
すべてが交わるとき、この世界はもう少しだけ、真実に近づく。




