第11話 中嶋さん
「味がしねえ……」
俺は箸を止め、目の前の牛丼を見下ろした。
大量の紅ショウガと七味唐辛子で、もはや原型を留めていない。
「その食べ方は許せない。神に対する侮辱」
シオンが、心底軽蔑したような目を向けてくる。
またしても初めて見る表情だった。
……そこまで言うか?
「何も考えたくないときは、こうするのが一番なんだよ。まあ、今日はどっちみち、味なんて分からないんだけどな」
原因は、先ほどの出来事だ。
間宮時雨。
あまりにも予想外すぎる来客だった。
正直に言えば、彼女の相手をするくらいなら、裏社会の能力者を全員まとめて相手にした方が、まだ勝機がある。
それほどまでに、圧倒的な存在。
先週、運を使いすぎたのかもしれない。
だからこそ、あの人が来た。
そう考えると、妙に納得できてしまう。
「逃げられないよな……予約、取っちゃったし。しかも明後日かよ……」
本当なら、明日にでもまた来そうな勢いだった。
間宮は笑顔で『できるだけ直近で』と言っていた。
そもそも俺の相談所に、厳密な営業時間はない。
仕事終わりに立ち寄る客も多いから、だいたい十八時以降、予約分がすべて終わったら閉店、という形を取っている。
「それにしても、二十時は遅すぎだろ……」
紅ショウガをちびちびつまみながら、俺は先の展開を予測する。
彼女は、特別能力捜査官として来るわけじゃない。
それだけは断言できる。
それにしても、日本の優秀な警察組織が、いまだに俺を見つけ出していないのは不思議だった。
防犯カメラの位置に気を配り、血痕を拭き取り、証拠を残さないようにはしてきたが、それでも尻尾の一つくらい掴まれてもおかしくない。
何かが、働いている。
偶然か、運か。あるいは、別の力か。
先週の一件も片がついてない。
あれ以来、接触はないが、本気で身を隠すべきか……
「あー……考えすぎて頭がごちゃごちゃしてきた。俺は味原ほど頭が良くないんだよ……」
定期的に拠点を変えてはいるが、今は目立つシオンもいる。
別の地域で、俺が“ただのレイジ”として馴染むことは、もう難しいだろう。
とりあえず、落ち着け。
俺には、明日やるべきことがある。
「シオン。明日は別についてこなくていいぞ」
「暇だから」
「……そうか」
明日は、俺の幼馴染の命日だ。
思い出そうとしても、輪郭がぼやける。
名前も、顔も、性別すら分からない。
それでも確かに、親友だった。
そして、その親友が死んだ日だ。
昼食をかき込み、午後の準備に取りかかる。
今日の午後の予約は一人だけ。中嶋さんだ。
ここ、志町七丁目で相談所を開いた当初から通ってくれている、数少ない常連客でもある。
「久しぶりだな、中嶋さん」
「誰?」
いつの間にか食事を終えていたシオンが、俺の隣に立っていた。
「小さな会社で製造部長をしてる人だよ。俺のことを息子みたいに気にかけてくれてさ。本当にいい人なんだ。自分の視覚情報を拡張する能力を持っていて、その力を使って、精密部品を作ってるらしい」
「レイジ、嬉しそう」
「そうか? まあ……中嶋さんは、俺にとっての癒しだからな。正直、どっちが相談してるのか分からなくなる時もある」
茶菓子を用意しながら、思わず頬が緩んでいた。
ほどなくして、ドアが開く。
鈴の音が、控えめに鳴った。
俺は小走りで入口へ向かう。
「レイジくん、久しぶりだね」
「中嶋さんこそ、二か月ぶりですね。立ち話もなんですし、どうぞ中へ」
中肉中背の体型に、落ち着いたスーツ。
髪には少し白いものが混じり、どこか疲れも見えるが――その優しい笑顔は、何にも代えがたい。
俺は中嶋さんを、勝手に尊敬している。
能力を社会のために使い、目立つことなく働き続ける彼は、俺にとって理想の大人だった。
「おや、可愛いお嬢ちゃんだね」
事務所の中。
向かい合うソファの片方には、すでにシオンが座っていた。
「……本当に、中嶋さんだ」
シオンは、手にしていたカウンセリングカルテから視線を上げて、そう言った。
「何を言ってるんだ、シオン。あ、すみません、中嶋さん。彼女、海外に住んでいる遠い親戚でして。ここで助手をしながら、日本の文化を勉強しているんです」
慌てて、俺は頭を下げる。
「いいよいいよ。そうだよ。私が中嶋さんだ」
中嶋さんは、まるで子供のおままごとに付き合う父親のように、胸を張った。
「そう。あなたは中嶋さん。……想像と同じ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「シオン、今日は休んでいいぞ」
朝から、どうにも様子がおかしい。
「大丈夫。中嶋さんは、いい人だよ」
シオンは、そう断言した。
「ははは。それは嬉しいね」
中嶋さんは、ただ穏やかに笑っていた。
*
相談所を出たあと、中嶋は、そのまま会社へ戻った。
本来なら、今日は直帰の予定だった。
だが、どうしても片付けておきたい案件があったのだ。
「レイジ君と話すために、少し無茶をしてしまったな」
時間を作ったしわ寄せは、当然仕事へ回る。
精密部品の最終確認。
視覚拡張の能力を使えば早いが、老眼の負担は大きい。
それでも、手は抜かない。
気づけば、日付が変わっていた。
工具を片付け、深く息を吐く。
疲労はあるが、不思議と気分は軽い。
「いい時間だったな」
ただ話をしただけだ。
悩みが消えたわけではない。
それでも、前を向ける。
更衣室を出て、夜の外気に触れる。
町工場の並ぶ通りは静まり返り、人の気配はほとんどない。
終電も、もうない時間だ。
「次は、お土産を二人分用意しないといけないね」
小さく笑い、住宅街へ向かう裏道に入る。
足音だけが、規則正しく夜に響いた。
――その時だった。
路地の奥に、人影が立っている。
「なあ、おっさん。金、持ってるだろ」
背後でも、靴底が擦れる音。
挟まれている。
中嶋は、足を止めた。
「……分かりました。お金は差し上げますので」
抵抗するつもりはない。
鞄へ手を伸ばす。
そのとき、一枚の紙が落ちた。
鉛筆で描かれた、自分の姿。
冷たい目をした、別人。
『中嶋さん改』
少女の声が、思い出される。
――私が想像できない中嶋さんの姿。
紙が踏みつけられた。
「はっ。下手な絵だな」
中嶋の呼吸が、止まる。
静かに息を吐いた。
「……私は、中嶋さんです」
「は? さっさと金出せって――」
中嶋は、ゆっくりと視線を上げた。
表情が消える。
「今だけは」
姿勢が変わる。
重心が落ちる。
「中嶋さん改、ですね」
背後の腕が伸びる。
その前に、肘が“置かれていた”。
顎がぶつかり、男が崩れる。
ナイフが振られる。
中嶋は半歩ずれ、掌底を添える。
それだけで、相手は倒れた。
最後の一人が後ずさる。
「な、なんだよ……」
中嶋は一歩近づく。
「明日も仕事です」
静かな声。
「家に帰って、ゆっくり眠りましょう」
男は逃げた。
中嶋は追わない。
紙を拾い、汚れを払う。
丁寧に折り、胸ポケットへ入れた。
呼吸を整える。
顔に、穏やかな表情が戻る。
歩き出す足取りは、ただの会社員のものだった。
明日も、いつも通り会社へ行く。
それが、中嶋という人間だった。




