第10話 間宮時雨
間宮時雨は、三分ほど前から、その相談所を視界に捉えていた。
「能力の相談とは、珍しいな」
ぽつりと零れた独り言は、誰に聞かれることもなく、街の音に溶けた。
目的もなく歩くのが好きだった。
捜査は足で稼ぐものだ、という信念が私生活にも染みついているらしい。
普段は降りない駅で、できるだけ人気の少ない地域を選び、あてもなく歩く。
それが、休日の過ごし方だった。
私服には、つばの付いた帽子。
サングラスもかけている。
それでも、一部の人間には気づかれてしまう。
——どうやら、自分は思っている以上に目立つらしい。
関東県、志町七丁目。
駅前から少し離れただけで、人通りは驚くほど少なくなる。
時雨は顎に手を添え、立ち止まったまま考え込んでいた。
……相談を、してみたい。
強さゆえに、悩みは増える。
だが、その悩みを職場に持ち込む気にはなれなかった。
公と私は、分けておきたい。
そんな曖昧な理由のまま、視線は自然と目の前の扉へ向いていた。
思考がまとまるより早く、からりと軽い音がして、扉が内側から開いた。
「客? それとも不審者?」
出迎えたのは、可愛いお嬢さんだった。
長く、さらさらとした白い髪。
瞳の色も相まって、外国の人かもしれない、と思う。
「失礼した。私は間宮時雨。不審者ではない」
馬鹿正直に名乗ってしまったことに、言ってから気づいた。
少し遅れて、恥ずかしさがこみ上げてくる。
頬が、わずかに熱い。
「なら、客?」
お嬢さんは首を傾げたまま、こちらを見ている。
「きゃ、客だ! 世話になろう!」
勢いに任せた声は、自分で思っていたよりも大きかった。
「レイジー、客だってー」
棒読みに近い声が、店の奥へと投げられる。
少しして、男が姿を現した。
——普通の男だ。
それだけが、最初の印象だった。
「すみませーん。分かりづらかったですよね。こちらへどうぞ」
彼に招かれるまま、時雨は相談所の奥へと足を踏み入れた
*
「まさか、間宮さんが来てくれるとは」
目の前にいるのは、有名も有名、あの最強だ。
大抵の事件は、この人に任せておけば終わる。
間宮時雨。
黒髪に黒い瞳。
肩口で揃えられた姫カットが、整った輪郭を際立たせている。
切れ長の目は涼しく、感情の揺れをほとんど映さない。
派手さはない。
だが、その場に立っているだけで自然と視線を引き寄せる。
凛とした佇まいに、思わず背筋が伸びた。
「偶然通りかかってな。ぜひ、個人的な相談をしてもらいたい。気にしなくていい。今日は完全なオフだ」
気にしないわけにもいかない。
最近のことと言い、俺は少し目立ち過ぎた。
転職、か……
俺は次の一手を真剣に考え始める。
「承知しました。それでは、本日はどのような相談ですか?」
それでも、今日の仕事は今日の仕事だ。
「そうだな……私は、強いのだ」
「存じていますよ。いつも国の治安維持のために、ありがとうございます」
苦笑交じりに返す。
彼女の能力は公に知られている。
常識の外にある力。それ以上は、深く考えない方がいい類のものだ。
傷つかず、捕まらず、逃さない。
だからこそ、この国の均衡は保たれている。
「うむ。私も、少し目立ち過ぎたみたいだな」
「ははは……」
さすがの俺でも、緊張する。
ふと、隣に座っているシオンへ視線を向けた。
彼女は、俺と間宮さんを、交互に見比べていた。
ほんの一瞬だが、確かに、驚いたような顔をしている。
それは、俺がこれまで一度も見たことのない表情だった。
*
気がつくと、時雨は微笑んでいた。
出されたお茶を口に運びながら、穏やかに談笑している自分がいる。
「それが、公務員の辛いところでだな。私自身、どうすればいいのか分からなくなる時があるんだ」
「間宮さんは、十分すぎるほど頑張っていますよ。私の知り合いに商人がいましてね。彼、こう言っていました。『間宮時雨さんのおかげで、商売が落ち着いた』って」
「そ、そうなのか……それは、素直に嬉しいな」
「ええ。実際、表立った能力がらみの事件は激減しています。自信を持ってください」
胸の奥で、何かがかちりと音を立てた気がした。
自己肯定感が、静かに押し上げられていく。
時雨は、嘘を言わないこの男のことを、すでに気に入っていた。
同僚の輪鈴リナと行動を共にすることが多いせいか、時雨は人の本心を読むことに慣れている。
表情、声色、言葉の選び方。
だから、はっきりと理解した。
この人――レイジさんは、私のことが『好き』なのだ。
「それは違う」
唐突に、隣の少女――シオンが顔を上げた。
「シ、シオン!? どうしたんだ、急に。あ、すみません間宮さん。この子、あの、その……変な子で……」
「変って、なに?」
「……」
「あはは、日本語の勉強中かな? よきよき。気にしてないぞ」
時雨は軽く笑って受け流した。
「それにしても、レイジさんと話していると、不思議と落ち着くな」
「ははは。私も、自分の能力を活かせる仕事ができて何よりです。間宮さんも、気張らず、ゆっくり進んでいけば、自ずと道は見えてきますよ……って、私ごときが何を言っているんだか」
その笑顔は、懐かしさを覚えるほど自然だった。
しかし、長居をして仕事の邪魔をするわけにはいかない。
飛び込みの相談に応じてくれただけで、十分すぎるほどだ。
「今日は、この辺りでお暇させてもらおう。レイジさん、料金はいくらかね」
「いえ、初回のお客さんからは、いただいていないんですよ。気にしないでください。少しでも晴れやかな気分で帰っていただければ、それで嬉しいです」
「そ、そうか……ただ、実は今日は……」
「分かっています」
レイジさんは、先回りするように言った。
「偶然通りかかったところを、シオンに呼ばれて、退くに退けなくなったんですよね。気にしないでください。今日という日は、なかったことにしましょう」
柔らかな声で、続ける。
「もちろん、間宮時雨さんが来たことは、誰にも言いません。私も、間宮さんと話せてよかったですけど……ちゃんと忘れますから」
それは、ありえない。
この人は、もう私のことを忘れられない。
「それは、合っている」
シオンという少女が、即座に同意した。
「シオン? どうしたんだ、今日は?」
レイジさんは照れ隠しなのか、慌てたようにシオンの方を向く。
時雨は立ち上がり、意を決して告げた。
「次の予約を、取りたいのだが」
レイジさんの顔色が変わる。
嬉しさから来たはずの緊張が、わずかに引きつった。




