第0話 午前零時
時計は、午後11時50分を少し回ったところだった。
廃工場の敷地を、一人の青年が走っている。
眼鏡をかけた、どこにでもいそうな青年だ。
駅前ですれ違っても、記憶に残らないだろう。
だが、この場所にいる時点で、彼は“普通”ではなかった。
使われなくなった工場。
錆びついた機械。
油と鉄が混じった、鼻につく匂い。
背後から足音が響く。
一つではない。複数だ。
距離を保ち、確実に詰めてきている。
青年は振り返らない。
振り返る必要がなかった。
彼は知っている。
この追跡が、いつ終わるのかを。
「逃げ場なんてねえぞ!」
怒鳴り声が、工場内に反響した。
追っているのは、武装した集団だった。
先頭に立つ男――この組織のリーダーは、苛立ちを隠せていない。
相手は一人。
しかも、銃も持たない青年だ。
それなのに、捕まらない。
青年は柱の陰に滑り込み、足を止めた。
左手首を一瞥する。
午後11時55分。
残された時間は、わずかだった。
青年が、両手を前に突き出す。
次の瞬間、手のひらから無数の泡が生まれた。
透明で、丸く、子供向けの玩具のような泡。
それが一気に広がり、通路を塞ぐ。
「毒入りだ」
淡々と告げる。
だが、追手は止まらない。
「はっ。手から泡を出すだけの雑魚が」
銃を構えたまま、歩み寄ってくる。
彼らは気づいていなかった。
青年が、ただ時間を稼いでいるだけだということに。
左手首に視線を落とす。
まだ、足りない。
青年は、ゆっくりと柱の陰から出た。
「降参だ」
両手を上げる。
躊躇はなかった。
引き金が引かれる。
乾いた銃声。
脚に走る衝撃。
血が流れる。
それでも、青年は倒れない。
「商品はどこだ?」
答えはない。
続けて、もう一発。
弾丸が、耳元をかすめる。
青年は逃げない。
ただ、時間に集中する。
秒針が、音を立てて進んでいく。
「彼女には、自由意志がある」
返事は、銃弾だった。
右手のひらを貫通する痛み。
血が滴る。
「次はない。どこに隠した」
沈黙。
青年は、小さく息を吐いた。
「……そうか」
そして、言う。
「ポケットに、地図がある」
紙切れが取り出される。
ただのメモ。
スーパーの買い物リストだ。
意味が分からず、リーダーが眉をひそめた。
そのときだった。
青年が、笑った。
秒針が、最後の一目盛りを越える。
胸の奥で、何かが切り替わる感覚。
針が、重なる。
――午前零時。
「感謝する」
青年の身体から、傷が消える。
撃ち抜かれた脚も、貫通した手のひらも、血の跡すら残っていない。
「な……に……?」
理解できないものを見る目で、リーダーが固まる。
次の瞬間、青年の姿が消えた。
銃声が鳴り響く。
だが、弾丸が当たるものは何もない。
「お前らはハズレだ」
背後から、声がした。
気づいたときには、青年は男の肩に手を置いていた。
「なぜ、だ……」
「さあな」
首元に、針。
麻酔。
男が崩れ落ちる。
他の部下たちも、次々と眠らされた。
数分後。
廃工場に立っているのは、青年一人だけだった。
携帯電話を取り出し、警察に通報する。
「自首したい。場所は――」
用件だけを告げ、通話を切る。
散らばった書類を見下ろし、呟いた。
「……さて」
誰もいない工場で、独り言のように言う。
「今日は、牛丼の気分だ」
午前零時、彼の能力は“初期化”された。
*
青年が去ってから、少し後。
男たちは、傷一つないまま床に転がっていた。
争った形跡はある。それでも、暴力の痕跡だけが不自然なほど薄い。
異様な現場を囲むように、スーツ姿の男女が立っている。
能力犯罪を専門に扱う捜査官たちだった。
「……あの人、ですかね」
最年少の男が呟く。
「今回は、ずいぶん後味がいいというか」
「被害者が全員、生きているからな」
資料を確認していた男が答えた。
倒れ方、配置、残された書類へと視線を走らせる。
「麻酔量は最小限。骨折なし。ついでに、全員分の犯罪記録を残していく」
「相変わらず、やりたい放題ですね」
「違う。あの人は、一定の法則でしか動かない」
男は床に散らばる資料から視線を上げた。
「しかし、最近は姿を現さなかったはずだ」
その視線の先。
少し離れた場所で、二人の女性が並んで立っていた。
一人は静かに資料を読んでいる。
もう一人が、軽い調子で声をかける。
「今回も、ね」
最年少が振り向く。
「やっぱり、そこ引っかかります?」
「ええ。あの人、そこを跨いでる気がするのよ」
資料を見ていた男が、わずかに頷く。
「ただの偶然にしては多すぎる。だが……」
言いかけて、止める。
「能力が変化するというのは、ありえない」
「複数能力持ち、って線は?」
軽い調子の女が首を傾げる。
「否定はできない。ただし、毎回使う能力の性質が違いすぎる」
「条件付き発動型かしら。時間、場所、精神状態……」
「あるいは、能力の切り替え」
「それにしては、無駄がなさすぎる。まるで……」
そのときだった。
空間が、割れた。
文字通り、空気そのものに亀裂が走る。
境界に触れた床材が、抵抗もなく分離した。
「現場を荒らさないでくれ。まだ実況見分中だ」
「……すまない」
裂け目の中心に立つ和装めいた佇まいの女性が、静かに答える。
誰も驚かない。
ただ一瞬だけ、空気が張り詰めた。
「相変わらずね」
軽い声が、その緊張を崩した。
「厄介な相手だが、私に不可能は無い」
凛とした言葉。
それは宣言だった。
彼らは、まだ知らない。
その男の能力が、切り替えでも複数でもないことを。
零時そのものが、力の正体であることを。
次に得る能力が最強か最弱か。
それすら、本人にも分からないということを。




