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Crankshaft グラス・ウイングス Glass Wings・例え翼は砕けても

 私は、自分の腐敗した日々に、突然終止符を打った。

 それから始まるはずだった不安な日常は、帰り道で出会った彼女の、暴力的な馬力に全て持っていかれた。

 そこから始まった日々は、私の人生で、間違いなく一番輝いていた。

 でもそれは、長くは続かなかった。

 2人が出会って1周年の記念日、それは、突然終りを迎える。

 彼女はあの夜、きっと、シンデレラになろうとしたんだ。

 跨るのは、カボチャの馬車なんかじゃない。

 もっとイカした馬力の、ガラスの靴。

 でも彼女は、王子様とは出会えなかった。

 そして彼女は、お城の塔から真っ逆さま。

 これで、一巻の終わり?

 ううん。そんなの、私は絶対に認めない。

 だってあなたは、私がいる限り、私の大切な、

 決算発表を間近に控えた、5月第1週の木曜日。

 この私立病院の事務室に、ゴールデウィークの振り替え休日なんて物は当然のごとくなかった。

 私はこの日、半強制的に休日出勤させられた挙げ句、昼食も取らず一日中パソコンと睨みあっていた。

 なぜこんな事になっているのか説明しようとすると、話は長くなる。

 まず、決算報告書その物は4月の頭にはAIが完成させていた。

 しかし、その赤字額を見た理事長が激怒して、私たち事務員に経費や備品購入費を水増しした作り直しを命じた。

 戦前から続くこの私立病院は代々一族経営で、今の理事長はその長女。

 そして、そんな彼女に口出しできる人物は、院内どころか、市内を見回しても少なかった。

 その彼女は去年、ジェンダーフリーに対応するとかいう口実で、女性事務員の制服を、スカートタイプから、彼女の知り合いがデザインしたとか言うスラックスタイプに切り替えた。

 それは、私にとってある意味好都合だった。

 そう、あくまである意味。

 スラックスなら、バイクで通勤してから着替えずにそのまま勤務に就けたから。

 でも、その高価な新しい制服の購入費は、当然のごとく給料から天引きされた。

 それでいて、その費用を自己負担から経費を偽造する作業を、自腹を切らされた事務員にやらせる彼女の神経が分からなかった。

 そんなんで能率が上がる訳がなくて、いつの間にか私は、画面上でマウスカーソルを無意味に走らせていたらしい。

 その時、右肩に大きな手が乗った。

 振り向くとそこには、ボタンが弾けそうな位お腹が膨らんだワイシャツを着た係長が立っていた。

 係長は、私の頬に触れそうなくらい顔を寄せながら、臭い息を吹きかけてきた。

 「……茉莉花ちゃぁん。もう子供じゃないんだからさぁ……仕事中に遊んでちゃ駄目でしょ」

 ……お前にだけは、言われたくない。

 この係長と言うのは、理事長が、ニートだった甥っ子を無理やりこの係の管理職にねじ込んできた人だった。

 そんなんで仕事が出来る訳はなくて、彼が来てから、私たち事務員の作業量は以前より遥かに増えていた。

 私が黙っていると、係長は勘違い全開の偉そうな態度で話し続けた。

 「……それにさぁ、茉莉花ちゃぁん。専門卒でも一応社会人なら、もっと時間を見て仕事した方が良いんじゃないかなぁ」

 そう言われて壁掛け時計を見たら、すでに定時の5時半を3分過ぎていた。

 「……茉莉花ちゃんさぁ。みんなはもう、タイムカード切ってるよぉ。レコーダーの音、聞こえなかったのかなぁ?」

 私がタイムカードを切る為に立ち上がると、係長が私の肩に後ろから両腕を廻して、耳元でまた臭い息を吐いてきた。

 「……ねぇ茉莉花ちゃぁん。こんな事してたら、ほんとに首になっちゃうよぉ。でもさぁ……前言ったみたいに僕の家に来くれたら、僕から叔母ちゃんに……」

 そこまで劣悪な空気環境に晒され続けた所で、私は右の踵で係長の爪先を思いきり踏みつけた。

 「ぎゃあああ!!」

 大袈裟な声を上げて、係長は床に転がった。

 彼はサンダル履きだったから、私の柔らかいパンプスでもそれなりに痛かったみたいだ。

 私は首から職員証を外して、それを係長に叩きつけてから言った。

 「……ふざけないでよ。この、コネ採用勘違いパワハラモラハラセクハラクソ上司」

 「……う……うぅ……」

 係長は顔を真っ赤にして、わざとらしく呻きを上げている。

 私はそれから視線を上げて、事務室の中を見回しながら言った。

 「ごめんなさい。私がやめたら、皆さんにはもっと迷惑がかかると思います。でも私、この人と働くのはもう限界だったんです。では皆さん、短い間でしたが、大変お世話になりました」

 そう言って頭を下げた私を、事務室のみんなは、あ然とした表情で見つめていた。

 私は、自分のデスクの足元からリュックサックとヘルメット、ゴーグルを回収すると、普段どおりの早さで事務室を後にした。

 少し歩くと後ろから囁きあう声が聞こえてきたけれど、その時の私には、別に気にならなかった。


 病院を出た私は、駐輪場に停めてある黒い愛車の元へ向かった。

 このバイクは元々私の実のお父さんの物で、その人とお母さんが離婚する時に、慰謝料がわりに譲って貰ったそうだ。

 かなり古いイギリス車だったけれど、空冷 パラレルツインエンジンから伝わってくる鼓動も、ハンドルとサスペンション周りも、腕の良いショップのお陰で至って好調だった。

 ヘルメットを被ってゴーグルを付ける前に、私は腕時計に視線を落とした。

 6時の少し前だった。

 行きつけのバーが始まるまで、後1時間強ある。

 私はそれまで、町外れと海岸線を繋ぐ「灰被り峠」を流す事にした。

 一風変わった名前だけど、昔この峠の途中にガラス工場があった事にあやかって、地元ライダー達がそう名づけたらしい。


 私の身長はお母さんより低かったけれど、それでも160cm後半はあったから、大型バイクでも難なく乗りこなす事が出来た。

 峠の頂上を越えて下りに入って少しすると、ガードレールの向こう側に川があって、昔はよくそこで家族みんなでヤマメやニジマスを釣ったりしていた。

 この日は天気が良かったから、私は夕暮れ時の河原に降りて、昂った気持ちを落かせるつもりでいた。

 でも、峠に入ってすぐ、初めて見るシルバーの大型バイクが私の後ろにピッタリつけて、右ウインカーを出しながら蛇行運転してきた。

 ……勝負しようって事か。

 この峠は、丁度いい全長と攻めがいのあるコーナーで、地元ライダーの間ではちょっとした名所だった。

 普段の私なら、こういう時は左ウインカーを出しながら速度を落として、挑戦を避けただろう。

 でも、この日の私はさっきの事でまだ興奮していた。

 そして、この時間帯、この峠を走る車両がほとんどいない事を私は知っていた。

 もちろん、歩行者もいない。

 だから私は、逆に右ウインカーを出しながら少し速度を上げて、後ろのバイクが追いつくのを待った。

 そのバイクは、すぐに私の左に並んできた。

 私は、目線だけ動かしてそっちを見た。

 私に挑んできたライダーは、体格から見てどうやら女性の様だ。

 夕日を反射してキラキラ輝くそのバイクも、私と同じくらい古そうな、私のより一回り小さい大型だった。

 2台のバイクが並ぶと、彼女はフルスロットルで私を追いこして行った。

 ものすごい加速だった。

 後に残った白煙から、日だまりみたいな、香ばしい匂いがした。

 今どき珍しい、2ストロークエンジンだ。

 当然、パワーは向こうの方が上。

 ならこっちは、ランディングテクニックで勝負するしかない。

 だから、急カーブが多い登りの内に仕掛ける。

 1個目のコーナーと2個目のコーナーを抜けるまで、私は彼女のバイクに何とか付いていった。

 そして、3個目のコーナーはヘアピンカーブだった。

 私はそこで、少し膨らんだ彼女のバイクのインに切り込んで、それを追い抜いた。

 それから峠の頂上に差しかかると、私はサイドミラーに目をやった。

 少し離れた位置に、彼女のバイク

が見えた。

 下りに入ると直線が多くなって、パワーで勝る彼女のバイクは、すぐに私の後ろに付けてきた。

 でもこの場合、先を走っている方が有利だ。

 下りに入って1個目のコーナーと2個目のコーナーを、私は彼女のバイクの進路を塞ぐようにしながら駆け抜けた。

 そして、左周りの3個目のコーナーが目前に迫ってきた。

 このコーナーを抜けてすぐにある落石注意の標識が、ライダー達にとってのゴールの印だった。

 勝利を確信しながら、私はコーナリングに備えてオイルタンクを両足の内腿で強く挟みながら、ブレーキをかけた。

 でも次の瞬間、私は信じられない物を目にした。

 コーナーに差しかかった所で、彼女のバイクは、減速した私のバイクを左側から抜き去った。

 明らかなオーバースピードだった。

 彼女のバイクは、私の前に出ながら、少しスピードを落としただけでコーナーに突っ込んだ。

 ……危ない!!

 私は、彼女がバイクごとガードレールに激突すると思った。

 でも次の瞬間、彼女は右膝が地面に擦りそうなくらいバイクと身体を傾けて、道幅を目一杯使ってコーナーを抜けた。

 私がコーナーを抜けた時には、すでに彼女のバイクは落石注意の標識を通りすぎていた。

 彼女はそこでバイクを少し減速させて、後ろを走る私に向けてウインカーを左右2回ずつ点灯させた。

 今日は、付き合ってくれてありがとうって意味だ。

 それから彼女は、私にまた香ばしい白煙を浴びせながら、素晴らしい加速で遠ざかって行った。

 日だまりみたいなその匂いが、元上司の息で腐食した私の鼻腔を洗い流してくれた気がした。


 私の行きつけのバーは、街の繁華街から少し外れた場所の雑居ビルの3階にあった。

 店主は多分私よりかなり歳上の女性で、ママと呼ばれるのを嫌がってバーメイドと呼ぶように客に言っていたけど、結局みんなにマダムと呼ばれていた。

 私は雑居ビルの裏にバイクを停めて、表の階段を駆け上がった。

 重い木のドアを押し開けると、店内にはまだ、マダム一人しかいなかった。

 「いらっしゃい。茉莉花」

 私を見て、マダムが声をかけてきた。

 私は、店の奥の方のカウンターチェアに腰かけた。

 「どうしたの茉莉花。今日は早いね」

 「うん……ちょっと」

 「それにあんた、なんかあったのかい? 酷い顔してるよ」

 「え、ほんと……。恥ずかしっ」

 「ああ、後で鏡で見てみな」

 「えー、嫌だなぁ……」

 「何だい? また、例のキモデブ若ハゲこどおじ上司に何か言われたのかい?」

 「ははは。さすがに私、そこまで言ってないよ。まずはいつものウイスキー、ストレート、ダブルでお願い」

 「バカかいあんた。そんな強い酒、1杯目から飲むもんじゃないよ」

 「えー、だって、今日は職場ですっごい嫌な事あったんだもん」

 「それじゃあ益々、あんたには、いきなりそんな強い酒は出せないね。また救急車呼ぶのは御免だよ」

 「えぇ、マダムは根にもつなぁ」

 「当たり前だろ」

 「うーん、じゃあ、ジントニックで」

 「はいよ」

 そう言いながら、マダムはバックバーに向き直って、ボトルに手を伸ばした。

 私は、その背中に声をかけた。

 「ねぇマダム、聞いてよ。私今日、あの病院辞めたんだ」

 手早くジントニックを作ったマダムは、グラスを私の前に置きながら応えた。

 「ふぅん。また何で?」

 彼女は、人の話に大げさに反応したり、その内容に口を出したりはしない。

 その態度が私には却って心地よくて、私がこの店の常連になった、一番の理由がそこにあった。

 それから私は、溜まりに溜まった例の元上司への鬱憤を吐き出しながら、2杯、3杯とグラスを重ねていった。

 この日は連休中という事もあって、仕事帰りの客がいない店にいるのは、マダム以外に私一人だけだった。

 そして遂に、私がこよなく愛するウイスキーに手が伸びた頃には、元上司への愚痴も尽きてきた。

 「……うぅ……あの口臭公害クソ上司ぃ……女の娘を誘いたいなら、まずは歯を磨けよぉ……」

 私がそこまで言った時、マダムが呆れた様な声を発した。

 「……はぁ、もうやめときな茉莉花。あんたもう、3回同じ話ししてるし。これ以上飲むと帰れなくなるよ」

 「……えぇ……ほんとですかぁ……でも大丈夫だよぉ……後でまた、ウコン……」

 その時、世界が回転して、私は多分、バーカウンターに突っ伏したのだと思う。

 「……!! ちょっと茉莉花……!!」


 顔を上げると、私はテーブル席に座っていて、向かいには知らない女性がいた。

 私の世界は、まだグラグラしていた。

 揺らぐ世界の中で、私は何とか彼女の淡い瞳を見つめた。

 視線が交わると、彼女は私に、日だまりみたいに暖かかい笑みを向けてきた。

 私は、何も言えなかった。

 ショートボブの金髪をかき上げて、彼女は口を開いた。

 「はじめまして、国見茉莉花ちゃん。私は三好花音」

 「は、はじめまして……」

 何が何だか分からなくて、私はただそう返事をした。

 そしたら彼女は、バーカウンターに向けて声を発した。

 「マダムー! 茉莉花、起きたみたい! タクシー呼んでー!!」

 「はいよ」

 マダムの声がそれに応えた。

 「そう言えば花音さん。何で私の名前……」

 「えへへ。さっきマダムから聞いちゃた。後、私の事は呼び捨てで良いよ。同い年だし」

 そう言って、花音はどこか淋しげに微笑んだ。

 厚い化粧に覆われて分かりづらかったけれど、言われてみれば確かに、彼女は私と同年代かもしれない。

 「あのぅ、花音さんは何で私を……」

 「だーかーらー、花音で良いって!」

 「あっ、すんません」

 「えへへ、敬語も禁止ー」

 花音はそう言いながら立ち上がって、バーカウンターから、水の入ったグラスと酔い醒まし薬が乗ったトレーを持ってきた。

 私は、マダムに不満の声をかけた。

 「えー、マダム。飲んだシメは、お父さんのブリラーメン……」

 そしたらマダムは、また呆れた様な声で私に応えた。

 「茉莉花……あんた、よくそう言うけどね。うちはバーだよ、そんな物ある訳ないだろ」

 「えー、でも今は、個人宅配とか……」

 その時、店内の電話が鳴った。

 「あ、茉莉花。タクシー来たみたい」

 「タクシー……?」

 「えへへ。私が呼んで貰ったの。じゃあ茉莉花、早くそれ飲んじゃって、一緒に帰ろ」

 「……あ、はい。……じゃなくて、うん」

 それから私は、水と酔い醒まし薬を飲んで、花音に支えられながら雑居ビルの階段を降りると、待っていたタクシーの後部座席に彼女と一緒に乗りこんだ。

 タクシーが走り出すと、花音は私の身体を支える様に寄りそってくれた。

 その身体からは、化粧品と香水に混じって、微かに日だまりみたいな匂いがした。


 次に目を開けた時、私が最初に見たのは、瞳を閉じた花音の寝顔だった。

 私達は、1枚の布団で向かい合って寝ていた。

 化粧を落としても花音は色白で、鼻筋がすらりと通っていて、誰かに似ている様な気がした。

 でも、それが誰だかは思い出せなかった。

 まだ重だるい頭を巡らせて何とか周りを見回すと、どうやらそこは、四畳半くらいの和室の様だった。

 室内はやけに雑然としていて、花音の頭のすぐ上に、カップ焼きそばのカラが転がっていた。

 私がそれをぼんやり見ていると、花音が淡い瞳を開いた。

 「……あ、茉莉花、起きた?」

 「……うん、花音さん……じゃなくて花音」

 「えへへ。茉莉花、具合はどう? 起きれそう?」

 「あ……多分」

 「じゃあ、お布団上げちゃおっか」

 「うん」

 私が起き上がると、花音は布団を押し入れにしまって、部屋に折りたたみテーブルを広げた。

 私がテーブルの側に座ると、花音はその辺りのゴミを拾いながら声を発した。

 「ねぇ茉莉花。深酒した後は軽くでも何か食べた方がいいよ。……ブリラーメンはないけど」

 そう言いながら、花音は瞳を細めて、いたずらっぽく微笑んだ。

 「え、あ、はい。……うん。ありがと、花音」

 私がそう応えると、花音は立ちあがって、ガラス戸を開けて台所に出ていった。

 そこで、私は改めて室内を見回した。

 室内には至る所にコンビニ弁当やカップ麺のカラが散らばっていて、ガラス戸の脇にはドレッサーがあった。

 そして、その脇には擦りむけた膝が補修された黒い革つなぎが掛けてあって、その他の壁には、一面に夜景や漁火の写真が掲けられていた。

 私がそれを見ていると、花音が両手にコップと食パンを持ってやって来た。

 「はい。どうぞ」

 「うん。ありがと」

 体調がまだ本調子ではない私でも、それならすんなり食べられた。

 私はすぐにそれを食べ終えて、花音に声をかけた。

 「きれいな写真だね」

 「えへへ、ありがと。私が撮ったんだ」

 「へぇ、すごいね」

 「私こういう、暗闇の中で何かが輝いてる景色が好きなの。見てると安心する気がして」

 「うん。分かる気がする」

 私がそう言った時、突然玄関のドアが開いて、派手な色のスーツ姿の茶髪の男が土足のまま部屋に上がって来た。

 花音は平然としている。

 私が何も言えずにいると、男はドレッサーにあった財布を手に取りながら言った。

 「花音、悪りぃけど、また2、3万貸してくれ」

 花音は、さっきまでと変わらない調子で男に応えた。

 「えー、ひーくん。こないだの3万円、もう使っちゃったの?」

 「あぁ、やっぱし本町はだめだ。今度は港南で打つから」

 「えへへ。次に出たら、なんか奢ってね」

 「おう。期待しとけ」

 男はそれだけ言いおいて、先の尖った靴で床のゴミを蹴散らしながら、部屋を後にした。

 男が出ていってしばらくすると、花音は独り言の様に呟いた。

 「えへへ。でも私、わかってるんの。だって、あの人に奢って貰った事なんて、一回もないから」

 「じゃあ何で、花音はあんな……」

 何であんな男に、と言いかけて私は言葉を呑み込んだ。

 例えどんな男だったとしても、二人が本当に好き合っているなら、それは、私が口を挟む事じゃない気がした。

 そしたら花音は、淋しそうに微笑みながら言った。

 「ううん、いいの。私、分かってるんだ。多分あの人には、ここ以外にも沢山顔を出す所があるの。私の部屋は、その中の都合が良い一つなだけ」

 「………」

 私は何も言えなかった。

 雰囲気を変えたくて、私は壁にかかった黒い革つなぎを指さして言った。

 「あれ、レーシングスーツだよね。花音もバイク乗るの?」

 「えへへ。一応」

 「一応って、あれはかなり乗りこんでる人のスーツだよね。何に乗ってるの?」

 「うーん。車名を言っても、多分分かんないと思うなぁ。えっとね、かなり古い車種だよ。タンクはシルバーで、500ccで……」

 「それで、2スト?」

 「えっ? 何で分かったの?」

 「昨日灰被り峠で、そのバイクに乗った娘にコテンパンにやられたから」

 「えぇっ!? 茉莉花のバイクは!?」

 「うん。私のも車名言っても分かんないと思うけど、71年式の大型で、タンクは黒」

 「えー!! すっごい偶然!」

 そう言いながら、花音は両手で口を覆った。

 「ね」

 「茉莉花のバイク、すっごくかっこよかったよ」

 「うん、ありがと。でも結局、花音の方が速かったじゃん」

 「えへへ、そりゃあ、私のより速いバイクは滅多にいませんから」

 そう言いながら、花音はおどけた表情で私を見つめてきた。

 私は、わざと冷たい声でそれに応えた。

 「ふーん。つまり花音は、最初から私を散々負かすつもりで仕掛けてきたんだ」

 「えー、違うよー。あの時は見慣れないバイクだから取りあえず誘ってみたけど、登りで抜かれた時は、正直焦ったもん」

 「うん。仕掛けるならあそこしかないと思ったから」

 「いやー、あの時は、今日はもう負けたと思いましたよ」

 「でも、勝ったのは花音だよね。 あんなハングオン初めて見たよ。  怖くないの?」

 「うーん。怖い事は怖いけど、あれには、ちょっとしたコツがあるんだよね」

 「へー」

 「えへへ。ねえ茉莉花、今度はそのコツを教えて上げるから、また一緒に、灰被り峠に行かない?」

 そう言って花音は、淡い視線を私に投げてきた。

 私は、すぐにそれに応えた。

 「うん。良いよ」

 「やったー、じゃあ茉莉花、連絡先交換しよ」

 「うん」

 花音はこれから仕事があると言うので、私はそこで帰宅することにした。

 私は、この時間から始まる仕事とは一体何なのか花音に聞いたけど、彼女ははにかむだけで、結局、どんな仕事なのかは教えてくれなかった。

 それから私は、昨日飲んだ雑居ビルまで歩いて行って、そこでバイクを拾うとそのまま帰宅した。


 花音と出会ったあの日から、私の人生で一番輝いていた1年が始まった。

 それが、翌年の5月にあんな形で終わりを迎えるなんて、その頃の私は想像もしていなかった。

 

 私が辞めた病院は紛う事なきブラックだったけど、出勤日数が多い分だけそこそこの給料は貰えていたから、私はそれで大型バイクを維持して、少しだけれど貯金を作ることも出来ていた。

 仕事を辞めた次の日、私は両親にその事を報告した。

 二人はすごく心配してくれたけど、私の職場環境は知らせてあったから、辞めた経緯を説明したらすぐに理解してくれた。

 もちろん、クソ上司の爪先を踏みつけた事は伏せたけど。

 それから一週間、私は貯金を切り崩しながら、何もせずに生活する事にした。

 病院を辞めた次の週の月曜日、花音から、また灰被り峠を一緒に走ろうと連絡が来た。

 約束の時間は正午で、集合場所は峠の麓の道路標識。

 峠を攻めるライダー達にとっては、そこが峠の始まりで、スタートの印だった。

 私は、約束の時間の5分前にそこに行って、花音を待つことにした。

 市街地を抜けて峠に近づくと、道路標識の下にシルバーの大型バイクが止まってるのが見えた。

 私はその後ろに停車して、バイクに寄りかかっていたライダーに声をかけた。

 「お待たませ、花音。約束の時間までまだあるのに、早いね」

 花音は、フルフェイスのシールドを上げて私に答えた。

 「えへへ。茉莉花とまた走るのが楽しみで、ちょっと早めに来ちゃった」

 「そっか」

 「茉莉花、こういうのって逆に重くてウザい?」

 「ううん、全然。私と会うのをそんなに楽しみにしてくれてるなんて、こっちも嬉しいよ」

 「えへへ、ありがと。じゃあ、さっそく行こっか」

 「うん」

 それから私達は、二人でまた灰被り峠を攻めた。

 でもその日の花音は、前回の反省を踏まえてだろう、上りの3個目のコーナーで私の進路を徹底的にブロックしてきたから、私はそこで彼女を追い抜く事が出来なかった。

 パワーはやっぱり花音のバイクの方が上で、私は香ばしい白煙を浴びながら、彼女に追いすがるしかなかった。

 そして、私が下りの2個目のコーナーを抜けた時に見えたのは、3個目のコーナーに進入する花音の後ろ姿だった。

 そこから花音は、また派手にバイクをハングオンさせて、コーナーを抜けて行った。

 私がゴールを示す落石注意の標識を通りすぎた時には、花音はもうずっと先に行っていた。

 それから花音は、減速しながら左ウインカーを上げた。

 私が追いつくと、花音はそのまま左折して、縁石の切れ目から土手に入ると、砂利道にバイクを停めた。

 私がその後ろに停車すると、花音は、フルフェイスを外してバイクに寄りかかった。

 私もバイクを降りると、花音は革つなぎの胸ポケットからタバコとオイルライターを取りだした。

 「花音、煙草吸うの? なんか意外だね」

 「えへへ。まあ、ちょっとね」

 「てゆーか花音、私と同い年なのに、こんなすごいバイク維持して、タバコまで吸えるなんて、結構余裕あるんだね」

 「あ、それは、まあ……ね」

 そう言いって、花音ははにかんだ。

 「もしかして、ご両親がお金もちとか?」

 その言葉を聞いて、花音は少し俯いて、小さい声で呟いた。

 「ううん。……私の両親は……」

 ……あ、しまった。

 花音に、両親の話は地雷だったらしい。

 彼女はそのまま口を噤んでしまった。

 その雰囲気を変えるために、私は別の話題を振る事にした。

 「あ、そうだ。花音のハングオン、やっぱり今日もすごかったね。でも、あんな風にバイクにぶら下がるみたいにして、怖くないの?」

 「えへへ、そりゃあ怖いよ。で もねあれはね、コツを掴んじゃえば意外と簡単なんだ」

 「へぇ。でもなんか、やっぱり怖そうだね」

 「ねえ茉莉花、そうやって怖がってたら、いつまでたっても私に勝てないよ。今度はゆっくり走って手本を見せるから、一緒に練習しよ」

 「えぇ……」

 「ふーん。でもまあ、確かにパワーは私の方が上だからね。じゃあ茉莉花は、それを言い訳にしてればいいよ」

 そう言いながら、花音はわざと私を見おろす様にして、にっこりと微笑んだ。

 私は、その淡い瞳を睨み返して言った。

 「……ふざけないでよ。そんな事、思ってないし」

 「えへへ。じゃあ、さっそく行こっか」

 明るい声でそう言いながら、花音はフルフェイスを被った。

 それから私は、花音の後に続いてハングオンの練習をした。

 それでもやっぱり恐怖心が勝ってしまって、私には上手くハングオンが出来なかったし、それを5回も繰り返したらすっかり疲れてしまった。

 私は、自分のバイクより、花音のそれの方がパワーがあって軽量だから、そっちを貸してくれたら私にもハングオンが出来るかもしれないと言ったけれど、彼女はそれを嫌がった。

 花音が言うに、そのバイクは以前大切な人に譲ってもらった物だから、例え私でも、自分以外に乗ってほしくないらしい。

 いつもツーストオイルの香りをまとっていたその人は、花音にとって、とても大切な人だと言う。

 私はそれが誰なのか聞いたけど、花音はただ、大切な人としか教えてくれなかった。

 それからも練習したけれど、結局私にハングオンは出来なかった。

 花音には散々からかわれたけれど、私たちは3時くらいに峠から撤収して、市内のハンバガーショップに行く事にした。

 そして、そこでカレーを食べてから、私達はそれぞれの帰途に付いた。


 あの病院を退職してちょうど一週間目の木曜日、私は就職活動を始めた。

 でも、残念ながら市内の他の病院は医療事務の募集をかけていなかった。

 そうなると、過疎と高齢化が進むこの街で、専門卒、かつ医療事務の経験しかない私が応募できる昼の仕事はほとんどなかった。

 仕方がないから私は、マダムに頼みこんで紹介して貰ったスナックで働いて、当面の間を食いつなぐ事にした。

 花音の方もどうやら夜の仕事をしているみたいで、私が仕事を始めても二人の予定が合わなくなる事はなかった。

 だから私たちは、平日の日中は毎日の様に灰被り峠や海岸線でバイクを走らせた。

 6月に入ると、花音が私の地元に行ってみたいと言いだした。

 私も久々に実家に顔を出したかったから、その誘いに乗る事にした。

 初夏の穏やかな潮風の中を花音と一緒に走るのは、とても心地がよかった。

 私の地元の町に着いて、まず私達は、町役場に勤めているお父さんが開設した子ども食堂に顔を出すことにした。

 そこは私にとって、育ててくれたお父さんと初めて出会った思い出の場所だった。

 対応してくれた実家の3軒隣の和樹さんは、初めてここに来た時と変わらず、優しく丁寧に私達をもてなしてくれた。

 網戸から吹き込んでくる潮風も、あの時と変わらない優しさだった。

 そんな穏やかな時間が流れる子ども食堂で、私はブリのメンチカツをパンズに挟んだチャイニーズブリバーガー、花音はブリで出汁を取った味噌味のブリラーメンを食べた。

 花音は、私が味見させてあげたチャイニーズブリバーガーをとても気に入って、嬉しそうにそれも追加で1つ食べた。

 今でも写真に撮らなかった事を後悔するくらい、幸せそうな顔をしていた。

 食事が済むと、私は実家に顔を出して、花音はその間、町の周りでバイクを走らせる事になった。

 そして夕方、私達は暗くなる前に帰途に付いた。


 7月に、私はスナックを辞めて、電動スクーターを貸し出してくれる宅配サービスに配達員として登録した。

 幕末から港湾都市として栄えたこの街には、今でも細い路地が入り組んだ地区が残っていて、そこには未だにドローンによる配達が出きていなかった。

 だから、それに対応する為に、この街には今でも配達員の働き口がそれなりにあった。

 私は、生活費とバイクの維持費を賄う為に、一日中電動スクーターで市内を駆け回った。

 それでも時間が合えば、花音と二人でバイクを走らせた。

 8月には、2人で隣町にある湖の周りをツーリングした。

 あの時は、私のゴーグルにオニヤンマが激突した上に、花音のフルフェイスのディフューザーにクマゼミが詰まって、2人で大笑いしたっけ。

 花音は夜景や漁火の写真を撮るのが趣味だったから、その頃の私達は、毎週の様に海岸線をナイトライドして、行った先々で二人きりの撮影会を楽しんだ。

 初めの頃は、私もカメラを貸して貰っていた。

 最近のカメラの補正機能は本当に高性能で、私としては結構綺麗な写真が撮れていたつもりだったけど、花音に言わせれば私の撮った写真は今ひとつらしくて、すぐに彼女は私にカメラを貸してくれなくなった。

 それでも、暗闇に輝く光はとても幻想的で、見ているだけで、彼女が言う通りなんだか安心する気分になれた。

 雨の日でも私達は、よく彼女の部屋でお喋りしたり動画を観たりして過ごした。

 そして相変わらず、花音の部屋に男がやって来て、彼女から返すつもりの無いお金を巻き上げていく事もあった。

 私は、花音にその人は何なのか尋ねたけれど、彼女はえへへと笑って誤魔化すだけだった。

 男は、1週間か2週間たつと大体別の人に代わっていた。

 そして、花音はやっぱり夜の仕事をしているみたいだったけれど、いくら私がお金に困っている素振りを見せても、それを勧めてくる事はしなかった。


 11月の終わり頃。

 花音から、本格的に雪が降り始める前の、最後のロングツーリングの誘いが来た。

 目的地は、私達の街から200キロちょっと北上した街にある、大きな吊り橋。

 その街は工場夜景の名所で、花音は以前から、その吊り橋の展望台から写真を撮りたかったらしい。

 私達は、帰りを考えて、朝に出発して寄り道せずに走り続けていたから、街に到着した時には工場の灯りはまだ点っていなかった。

 だから私達は、遅めの昼食をとるために、右手に夕日を眺めながら吊り橋を渡って市街地に入った。

 私達がその街の名物のカレーラーメンを食べて店を出ると、隣の店から焼き鳥のいい匂いが漂ってきた。

 私はラーメンでお腹が一杯で、それを食べたいとは思わなかったけれど、花音は私に少し待つように言うと、そこから豚肉の焼き鳥を3本買ってきて、カラシを付けて3本とも美味しそうに食べた。

 そんな事をしていたらすっかり日が暮れたから、私達は吊り橋の真ん中にある展望台に登って、花音がそこから写真を撮ることになった。

 この展望台からは、どの方向を向いても港と市街地の夜景を見渡す事が出来たから、写真を撮らない私でも来て良かったと思えた。

 私がそれを眺めていると、花音が沢山の写真を撮り終えて、展望台の手すりに背中を預けながら私に声を掛けて来た。

 「よし。撮りたかった写真は撮れたかな。ねえ茉莉花、今日は付きあってくれて、本当にありがとう。お陰で、良さげな写真が一杯撮れたよ」

 「うん。私も、今日は花音と走れて楽しかった」

 「ほんと?」

 「もちろん。ラーメンも美味しかったし、それに、ここの夜景も結構すごいね」

 「えへへ、でしょ」

 「花音は、本当に夜景が好きだよね」

 「うん。前も言ったけど、私、暗い所で輝く光が好きなの。私も暗い所にいるけど、全然輝いてないから、そういう物に憧れてるのかな」

 「え……」

 それに何と応えれば良いのかわからなくて、私は口を噤んだ。

 そんな事ないと言いたかったけれど、軽々しくそう口に出してはいけない気もした。

 私が何も言えずにいると、花音は常夜灯の光の下で、淋しそうに微笑みながら呟いた。

 「そう、私は汚れてる。だから、輝く物に憬れているの」

 私が黙っていると、花音は手すりから背中を離して、はにかみながら言った。

 「えへへ。ごめん、キモい事言って」

 「ううん」

 「ねえ茉莉花、こんな私でも、ずっと一緒にいてくれる?」

 「花音、そんな事言わないでよ。大丈夫、私は、いつまでも花音から離れないから」

 「うん。ありがと」

 「こちらこそ」

 「うん、ありがとう茉莉花。じゃ、寒くなってきたから、もうそろそろ帰ろっか」

 あの時、花音はあんな事を言ったけれど、私には、常夜灯の光に照らされた彼女は、夜景より遥かに確かに輝いて見えた。


 12月に入ると本格的に雪が積もり初めて、バイクには乗れなくなった。

 それでも私達は、暇があれば花音の部屋で二人で過していた。

 年末年始にはマダムのバーで忘年会と新年会が開かれて、その時は二人で大いにはしゃいだ。

 あの時は、バーカウンターの前で二人で踊っていたら、そこに置いてあった高いウイスキーの瓶をどちらかが落として割って、マダムから大いにお叱りを受けた上に、二人で弁償させられた。

 多少雪が積もっていても、よほどの猛吹雪じゃない限り私は問題なくスクーターに乗れたから、ライバルかま少いこの時期は、私にとっての稼ぎ時だった。


 そして、正月明けの1月のある日。

 花音の部屋で二人で寝転がってお喋りしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 そしたら、花音は勢いよく畳から飛び起きて、玄関に向けて声を発した。

 「ユウくん?」

 落ちついた男性の声が、それに応えた。

 「うん、花音さん。ちょと近くまで来たから、顔を見れたらなって思って」

 「そっか、嬉しい。じゃあ、今ちょうど会わせたい人もいるから、上がって行って」

 花音は、嬉しそうにそう言いながら、玄関のドアを開けた。

 ドアの先にいた黒髪の青年は、落ちついた色のブレザーの上に同系色のチェスターコートを羽織っていて、部屋に上がる時も、当然の様に靴を脱いだ。

 明らかに、今まで花音の部屋を訪れた男性とは違うタイプだった。

 私が呆気に取られていると、花音は男性にテーブルを勧めてから、その隣に座って、私にその向かいの席を示した。

 男性が正座したから、私もそうしたら。

 私が座ると、花音が口を開いた。

 「えへへ。こちらは杉浦祐介くん。今は大学3年生で、私達の1個下。6日前、城北のカフェで出会ったんだ」

 杉浦は正座したまま、私に会釈して言った。

 「初めまして、杉浦祐介です。茉莉花さんのお話しは、花音さんからよく聞いていました」

 「あっ、そうでしたか。すみません、私は、花音から杉浦さんの話、聞いてなくて……ねぇ花音、何で教えてくれないの!」

 「えへへ、ごめんね。びっくりさせたくて」

 「もう……」

 私がそう呟くと、杉浦は視線を上げて、私と花音の顔をちょっと見比べる様にした。

 そこで、花音がおどけた様な声を上げた。

 「えへへ。なに畏まってんのさユウくん」

 「いえ……」

 「なに、ユウくん? 茉莉花の方が良いなら、今はまだ乗り換え無料期間だよ?」

 花音はそう言って、杉浦にいたずらっぽい視線を投げかけた。

 「そんな……」

 そう言いながら、杉浦は俯いた。

 彼の態度はとても控え目で、今までの花音の交際相手と比べなくても、とても好印象だった。

 あの時私は、花音はやっと、本当に支えてくれる男性に出会えたんだと思った。

 結局それは間違いだったけれど、あの頃の私は、幸せそうな二人を応援する事しか出来なかった。

 それから、私と杉浦は足を崩してお互いの事を話し合った。

 彼もバイクに興味がある様で、来年大学を卒業して就職したら、お金を貯めてバイクを買って、花音をその後ろに乗せてあげたいと言っていた。

 でも、それが実現する事はなかった。


 私が杉浦を紹介されてから1ヶ月と少しが過ぎた雨の日。

 夕方に、突然花音が私の部屋に訪ねてきた。

 急いで玄関を開けた私の前に立っていた花音は、びしょ濡れになって、左目に白い眼帯をつけていた。

 私がその姿にあ然としていると、花音は、何も言わず部屋に上がって来た。

 私が慌てて花音の濡れたブラウスを脱がせた時、強いアルコールの匂いがした。

 ブラウスを脱いてあらわになった彼女の左手首には、まだ血が滲んだ包帯が痛々しく巻かれていた。

 私は急いでストーブに火を入れると、花音をその前に座らせて、クローゼットにバスタオルを取りにいった。

 花音は、徐々に赤くなっていく燃焼筒を無言で見つめていた。

 取りだしたバスタオルを花音の肩に掛けながら、私はその隣に座った。

 無言のまま私の左肩に預けられた花音の身体は、驚くほど冷え切っていて、小刻みに震えていた。

 眼帯に覆われていない花音の右目から、一筋の涙が頬を伝った。

 沈黙に耐えられなくなって、私は声を発した。

 「……ねぇ、どうしたのその目。バイクで事故った?」

 花音は、はにかんでそれに応えた。

 「ううん」

 その頃には、私は彼女の身に何が起こったのかを薄々感づいていた。

 でも、口に出してしまったらそれが現実になってしまう気がして、正面から彼女を問いただす事が出来なかった。

 「事故ったんじゃないなら、転んでぶつけたの?」

 「えへへ。私、そんな鈍臭く見える?」

 「じゃあ、ものもらいとか?」

 「違うよ」

 「じゃあ……」

 私は、そこで口ごもった。

 でも、花音本人にその言葉を言わせてはいけない気がして、自分でそれを口にする事にした。

 「……殴られた?」

 「……うん。顔だけは止めてって言ったのに、酷いよね」

 「……杉浦さんにやられたの?」

 「うん」

 それを聞いて、私は言葉が出なかった。

 あんなに好青年みたいだった彼が、花音を殴った?

 私があ然としていると、花音は独り言の様に呟いた。

 「……彼も最初は、私が夜の仕事してる事、理解してくれてるはずだったの」

 「……そっか」

 「……でもね、彼の就職が決まって、親御さんに紹介するって話になった時、私に、そういう仕事は辞めろって言い出したんだ」

 「……うん」

 「……だけど私には、夜の仕事を辞められない理由があるの」

 そう言うと、花音は頬を伝う涙を拭って言葉を継いだ。

 「……高卒の私が普通に働いても、あのバイクは維持出来ない」

 花音は、そのために夜の仕事をしている。

 その事に私は薄々気付いていたけれど、彼女とって、あのバイクがとても大切な物である事も分かっていたから、何も言えずにいた。

 私が黙っていると、花音は消えいりそうな声で言葉を継いだ。

 「あれはね、お父さんとお母さんが離婚する時、二人が、私の里親になった人達に託した物なの」

 「………」

 私は何も言えなかった。

 考えてみれば、花音は自分の身の上をほとんど語らなかった。

 だから、彼女の両親が離婚した事も、里親に育てられた事も初耳だった。

 「あのバイクは、私と、私の実の両親とを繋ぐ、最後の宝物なの」

 「……でも……」

 そこまで言って、私は口を噤んだ。

 そんなに辛い思いをするくらいなら、そんな物、手放してしまえばいい。

 そう言いかけたけど、それは、里親に育てられた花音に、実の父親とは離れても、実の母親に育てられた私が言っていい言葉ではない気がした。

 花音は、淋そうな笑みを浮かべて言葉を継いだ。

 「私があのバイクを持ち続ける為には、どうしても、高卒でも沢山お金を貰える仕事をしなきゃいけない」

 「……うん」

 私は、そう応えるだけで精一杯だった。

 もしもあの時、例えバイクがなくても、私が花音と一緒にいるよ。

 ずっと、そばにいるから。

 なんて言えていたら、あんな結末にはならなかっただろうか。

 今でも私は、眠りにつく前に必ずそう考える。

 二人の間に沈黙が流れた。

 やがて花音は、私に向き直って、はにかみながら言った。

 「えへへ、ごめんね。急に来て、変な話しして」

 「ううん。花音が大変な時は、いつでも私を頼ってくれていいから」

 「うん。ありがと、茉莉花」

 そう言いながら、花音は少し私の瞳を覗き込んで、すぐに顔を伏せた。

 もしもあの時、傷ついた彼女を抱きしめる事が出来ていたら。

 その事も、いつも考えている。

 でも、その時の私は、花音にこう言ってあげる事しか出来なかった。

 「花音。もう遅いし、雨も止まないから、今日は家に泊まってきなよ」

 「良いの?」

 「もちろん」

 それから、私達は軽い夕食をとって、初めて出会った時みたいに二人で一つの布団に横になった。

 眠りに落ちかけた時、花音が、冷え切った手を私に差しのべて来た。

 私は、震えるそれを握り返す事しか出来なかった。


 花音が私の部屋を訪れたあの雨の日から、彼女と会う機会はめっきり減った。

 連絡も中々つかなくなって、心配になった私が花音の部屋を訪ねても、彼女は不在の事が多かった。

 もしかしたら、居留守を使われていたのかもしれない。

 多分、あの頃の花音はとっくに限界を超えていたんだと思う。

 それでも、私と花音が出会って一周年の記念日、私が少々強引に企画して、私達は市内の埠頭から出港する遊覧船のレストランで夕食を伴にする事になった。

 そして、その前日。

 雨は降っていなかったけれど、風が強い日で、空は一面厚い雲に覆われていた。

 お昼の少し前、花音から夕方に灰被り峠でタンデムしようと連絡が来た。

 私は、明日の為に今日は今日は止めようと言ったけれど、花音がどうしてもと言うから、仕方がなくその誘いを受ける事にした。

 約束の時間にチャイムが鳴って、私は玄関を開けた。

 花音は、真っ白のワンピースにライダースジャケットを羽織って、玄関先に佇んでいた。

 私は花音に声をかけた。

 「こんばんは、花音。直接会うのは久しぶりだね」

 「こんばんは、茉莉花。ごめんなさい、最近色々忙しくて」

 「ううん、謝らなくて良いよ。花音が忙しいのは知ってたし」

 「うん、ありがと」

 「ねえ花音、何で今日はタンデムなの? 左目がまだ見えづらい? それともバイクの調子が……」

 「ううん。バイクは絶好調だよ。 だから茉莉花、もし良かったら、今日はそっちで行かない?」 

 「え……」

 私は言葉を失った。

 花音はそのバイクをとても大切にしていて、今まではいくら頼んでも乗らてくれなかった。

 それがなぜ、今日は乗らせてくれるのか。

 その意図が分からない私が黙っていると、花音は淋しそうに呟いた。

 「……茉莉花と出会ったときには、私は多分、もう壊れかけていたの。だから最後に……」

 「……え? 何言ってんの……?」

 「ううん。ごめん、何でもない」

 そう言いながら、花音は私の胸に身体を預けてきた。

 私は、慌ててそれを受けとめた。

 花音の身体はあまり軽くて、少しでも力を込めたら、本当に壊れてしまいそうだった。

 私は何も言えなかった。

 「……お願い。今夜だけ」

 私の胸に額をうずめて、花音はそう呟いた。

 「……分かった」

 私には、そう応える事しかできなかった。

 それから私達は、二人で花音のアパートまで歩いた。

 その間、花音は何も言わなかった。

 花音のアパートにつくと、私達はお互いにインカムを付けて、二人で彼女のバイクに跨って灰被り峠に向かった。

 初めて後ろに乗せた花音の身体は今にも消えてしまいそうなくらい軽くて、走りながら私は、何度も後ろを振り返った。

 タンデムであまり攻めた走りは出来なかったけれど、それでも花音のバイクの走りは凄まじかった。

 エンジンは程度の回転数に達すると物凄い咆哮を上げて、バイクもそれを裏切らない加速を見せた。

 素晴らしいマシンだと思ったけれど、少し怖くもあった。

 バイクが灰被り峠の下りの1個目のコーナーを抜けた時、花音が私のインカムに囁いてきた。

 「……ねえ茉莉花。3個目のコーナーで、思いっ切りハングオンして」

 「えっ? 何言ってんの花音、私がハングオン下手くそなこと知ってるでしょ」

 「うん。でも今日だけ、お願い」

 「……ごめん、花音。タンデムするのも久しぶりだし、また今度ね」

 「……そっか」

 それから私は、2個目と3個目のコーナーをニーグリップで慎重にクリアして、落石注意の看板の少し先から土手に入ると、常夜灯の下でバイクを停めた。

 二人がそこでヘルメットを外す

と、花音はライダースジャケットを脱いで、その内ポケットからタバコを取りだした。

 その時見えた花音の左手首には、沢山のリストカットの跡があった。

 常夜灯の青白い光に照らされたその姿はとても痛々しかったけれども、それでもどこか儚げで、美しかった。

 タバコに火が点ると、花音は夜空を見上げながら、バイクを背にした私の胸に頭を預けて来た。

 風の強い日だった。

 厚い雲に覆われた夜空には、星も見えない。

 花音は、煙と一緒に呟いた。

 「……ねえ茉莉花、どうだった? 私のマシン」

 とても弱々しいその声は、煙と一緒に夜風に煽られて、暗い空に溶けて行った。

 私の胸に預けられた花音の身体もやっぱり軽くて、強い夜風に煽られて、煙と一緒に消えてしまいそうな気がした。

 だから私は、彼女の存在を確かめるる様に、その胸に両腕を回して、耳元に囁きかけた。

 「……うん、物凄かったよ。でもやっぱり、私にはちょと怖かったな」

 そう言った私の左頬に、花音の右頬が触れた。

 とても、冷たかった。

 それを少しでも温めてあげたくて、私は花音の頬に自分のそれを押しつけた。

 それでも、伝わってくるのはその冷たさだけだった。

 花音は、そのまま呟いた。

 「……ねえ茉莉花、さっき、何でハングオンしてくれなかったの」

 「ごめん花音。でも、久しぶりのタンデムで、しかもあんなパワフルなマシンで、あれは私には無理だよ」

 私の言葉を聞いて、花音は独り言の様に呟いた。

 「……茉莉花はやっぱり暖かいね。私とは違う」

 「そんな事……」

 そこまで言って、私は言葉に詰まった。

 花音が、私よりはるかに辛い思いをして生きている事は分かりきっていた。

 だからその時の私は、軽々しく慰めの言葉を口にしてはいけない気がした。

 花音は、黙っている私から身体を離して、淡い視線を投げかけて来た。

 二人の視線が交わると、花音は口を開いた。

 「……茉莉花、今まで本当にありがとう」

 「……えっ? どうしたの急に」

 「でも、私はもう、茉莉花とは居られない。あなたには、私とは違う、明るい道を行って欲しいから」

 そう言って、花音は淋しそうに微笑んだ。

 「…………」

 私は、花音に何も応えてあげられなかった。

 私の言葉で、彼女を更に傷つける事が怖かった。

 私が黙っていると、花音は震える声で言葉を継いだ。

 「ねえ茉莉花。私達は似ているね。年も……背も……顔だって……」

 「顔?」

 不意にそう言われて、私は花音の瞳を見つめ返した。

 それは、青白い常夜灯の下でも淡い光を放っていた。

 私は、その時初めて気がついた。

 花音の瞳は、私の母親のそれに似ていた。

 だけれどそれは、私の瞳とは似ていなかった。

 私の瞳は、父親譲りらしい、黒っぽい色をしていたから。

 でも、花音の瞳がお母さんのそれに似ているという事は、つまり……。

 そこで私は何かに気づきかけたけど、それがはっきりする前に、花音は顔を伏せて、私から目をそらしながら言った。

 「……ごめんなさい、また変な事言って。今のは忘れて」

 「……ううん」

 いつにも増して儚げな花音の雰囲気に飲まれて、私はそう応える事しか出来なかった。

 いっそう消えいりそうな声で、花音は言葉を継いだ。

 「ごめんなさい、茉莉花。こんな駄目な……」

 「駄目な、何?」

 「……ううん、何でもない。ねえ茉莉花。最後にあなたと出会えて、本当に良かった」

 「……何、言いたいのか、分かんないよ」

 「そっか。ごめん、そうだよね。じゃあ、そろそろ帰ろっか」

 「……うん」

 それから私は、花音をバイクの後ろに乗せて、彼女のアパートまで送り届けた。

 後の花音は、行きよりも更に軽くなっている気がした。


 花音の部屋は、アパートの外階段を登った突き当たりにあった。

 そこに差しかかった時、後から花音が声をかけてきた。

 「ねえ茉莉花。家の鍵を開けてくれる?」

 そう言いながら、花音は私に鍵を差し出してきた。

 「うん。いいけど、何で?」

 「いいから、お願い」

 「う、うん」

 花音の意図はよく分からなかったけれど、私はとりあえず言われた通りにした。

 扉を開けて、私は後ろを振り返った。

 花音は、私を向いたまま外廊下の手すりから身を乗りだして、両腕を宙に投げていた。

 私は驚いて花音を抱きとめると、そのまま彼女を部屋に引き込んで、ドアを閉めながら言った。

 「花音、何してんさ! 危ないでしょ!」

 花音は、玄関の上がり口に落ちていたゴミをよけて、そこに座りこんだ。

 部屋のゴミは前に来た時よりずっと増えていて、足の踏み場もない位だった。

 私は、2月に花音が杉浦と別れてから、今日まで彼女と殆ど連絡を取っていなかったから、その変化に気づけていなかった。

 もしもこの時、私にとって花音が、親友以上の、それよりずっと大切な存在である事を知っていたなのら。

 でも、その時の私はその事を分かっていなかったし、多分、その時には、もう遅かったんだと思う。

 花音は上がり口に座って、私に声をかけてきた。

 「……ごめん。私なんかが茉莉花に心配かけてちゃダメだよね」

 その声は震えていて、その身体も、小刻みに揺れている様に見えた。

 さっきの事といい、土手で話した事といい、その時の花音はいつにも増して不安定に見えた。

 少しでも花音の気もちを落ちつかせてあげたくて、私は土間にしゃがみこんで、その右手を両手で包みこんだ。

 花音はそれを解いて、私の左手に右手の指を絡めてきた。

 そうして私達は、暫しのあいだ見つめあった。

 淡い瞳から、涙が零れおちた。

 それを見て、私は言った。

 「花音。今日の花音はいつもより元気なさそうだし、今日はここに泊まっていくよ」

 少し目を伏せて、花音はそれに応えた。

 「……ううん。いいよ」

 「でも、心配だよ」

 「ありがとう茉莉花。でも、本当に大丈夫だから」

 「だけど……」

 私がそこまで言った所で、花音は私の手を振り解きながら、勢いよく立ち上がった。

 私があ然としていると、花音は私の顔に鼻先を寄せて、今まで聞いた事のない、棘のある声を発した。

 「だから、大丈夫だって! 前から言おうと思ってたんだけど、茉莉花のそういうとこ、すっごく鬱陶しいんだよね!!」

 こんな花音は初めて見た。

 何と応えれば良いのか分からなくて、私はただ謝った。

 「ごめん、花音」

 そしたら花音は、玄関のドアを開けて、私を外廊下に押し出した。

 私を部屋から追い出すと、花音はドアを閉める前に冷たく言い放った。

 「茉莉花、今日はもう帰って。もう来ないで、私の事なんか忘れてよ」

 私はなんとか、閉じられたドアに声をかけた。

 「ねえ花音、そんな事言わないでよ。私が花音の事を忘れられる訳ないでしょ」

 でも、返ってきたのは、鍵をかける音だけだった。

 私は、ドアに声をかけた。

 「花音、さっきは余計な事いってごめんなさい。私はただ、花音が心配で……」

 部屋の中から、勢いよくガラス戸を閉める音が聞こえてきた。

 私にはそれが、花音が完全に心を閉ざした音に聞こえた。

 私は、ドアに背を向けながら呟いた。

 「今日は、誘ってくれありがとう。じゃあ、また明日」

 応えはなかった。

 

 花音はあの日、精神的にとても不安定に見えたけど、そう言うこと自体は以前からよくあった。

 そして、そういう時は大抵、花音は翌日にはケロッとしていた。

 だからその時の私は、花音は明日、平気な顔をして夕食の待ちあわせ場所に姿を見せると信じていた。

 そして、私と花音が出会って一周年の記念日。

 私達は4時に、遊覧船が出港する埠頭に行くための電停で待ちあわせする事になっていた。

 この日私は、普段よりちょっとおめかしして、3時30分に待ちあわせ場所に到着した。

 でも、時間の10分前になっても、5分前になっても、時間を過ぎても、花音はやって来なかった。

 私は不審に思って花音と連絡を取ろうとしたけど、応答はなかった。

 遊覧船の乗り場に電話しても、花音は来ていないという返事だった。

 待ちあわせの時間を30分くらい過ぎた頃、私はだんだん心配になって、花音のアパートを訪ねた。

 彼女は不在だった。

 そしてその時、いつも停車している彼女のバイクがなくなっている事に気がついた。

 私は、警察に電話してバイク事故の情報が入っていないか尋ねたけれど、例え友人でも、親族でもない私にそういう情報は教えられないという返答だった。

 仕方がないから私は、急いでマダムの店に行って、彼女から情報を聞くことにした。

 彼女は仕事柄顔が広くて、こういう情報をキャッチするのも早かった。

 私はタクシーで雑居ビルに行くと、階段を駆け上って、まだ開店準備中の店に飛びこんだ。

 私が店に入るなり、マダムが血相を変えて駆けよって来て、花音が事故にあった事を教えてくれた。

 花音は、灰被り峠の下りの3個目のコーナーから転落して、意識不明の重体らしい。

 マダムの話では、花音は今頃ドクターヘリで札幌の病院に搬送されているとの事だった。

 仕方がないから私は、マダムに花音の情報が入るのを待つために、ソフトドリンクを飲みながら閉店までそこで粘った。

 でも結局、その晩は何の情報も入らなかった。


  ねえ茉莉花。あの時は、酷いこと言って、本当にごめんね。

 いつも茉莉花は、私を助けようとしてくれていたのに。

 あなたといた日々は、私の23年間の人生の中で、間違いなく、一番輝いていた。

 でも、私はあなたに応えてあげられなかった。

 きっと、お父さんとお母さんが離婚して、私があの人達に引き取られた時から、こうなる事は決まってたんだと思う。

 茉莉花、本当にごめんなさい。

 こんな、ダメなお姉ちゃんで。


 初めて出会った時、あなたは気づかなかったけれど、私はすぐに気がついた。

 私の里親になった人達は、私の本当の家族の事を知っていたけど、中々それを私に教えてくれなかった。

 小学校6年生の時、私がお風呂で頭を洗っていると、そこにいきなり裸のあの人が入って来た。

 それまでそんな事はなかったから、私はひたすら怖くて、声もあげられなかった。

 そして、その日の晩。

 私はあの人から、私が2歳の時、お父さんが東京で事業に失敗した事、私の家族は、その時に離れ離れになった事を教えられた。

 その時、お父さんとお母さんと相談して、家族に借金取りの手が伸びる前に離婚する事を決めたそうだ。

 そして、私の双子の妹はお母さんに付いていって、姉の私は、お父さんの地元の資産家の家、つまりあの人の家に里子に出される事になったらしい。

 私は怖くて、あの人が私にした事について誰にも言えなかった。

 そうしたらあの人は、毎晩私の寝室にやって来るようになった。

 私がそれを嫌がる素振りを見せると、あの人は、お父さんが私に残してくれたバイクを処分すると言って、私を脅した。

 私にとってそのバイクは、私と本当の両親の繋がりを教えてくれるほぼ唯一の物だったから、私はそれに逆らえなくて、されるがままになるしかなかった。

 あの人の妻は、多分夫が何をしているのか知っていたけど、何も言わなかった。

 そんな事をしていたらじきに生理が来なくなったけれど、私は怖くて、やっぱり誰にも何も言えなかった。

 でも、だんだんお腹が膨らんでくると、それはすぐにあの人達にバレてしまって、あの人は、私と、お腹の子に、とても酷い事をした。

 それで私の身体の一部は壊れてしまったけれど、皮肉な事に、夜の仕事をする上では、それは都合が良かった。

 あの人達は、私が高校を卒業した後の生活費を出してくれなかったし、バイクの維持費も援助してくれなかった。

 あのバイクは私にとってほぼ唯一の宝物だったから、私はそれを失わないないために、辛い仕事をするしかなかった。

 こんな事になってしまった今なら本当にバカな道を選んだとも思えるけれど、あの頃の私に、他に選択肢はなかった。

 

 ある日の晩、あの人が私に、私には茉莉花という妹がいる事を教えた。

 私は、その日から毎晩、眠りにつく前にその娘の事を思い浮かべた。

 多分、私と同じ位背が高い、私と同じ顔をした私の妹、茉莉花。

 だからあの夜、マダムのバーであなたに出会った時は、本当に嬉しかった。

 お母さんと、新しいお父さんに育てられたあなたは、向日葵みたいに笑う、明るくて、暖かい娘だった。

 もちろん初めは、心の中で、ちょとだけ嫉妬もした。

 もし、お母さんに付いていくのが私だったら、私も、あなた見たいに明るい人になれただろうか。

 そんなふうに思った。

 でも、あなたの明るさは、そんな私の心の強張りもすぐに溶かしてくれた。

 あなたと一緒にいる時の私は、間違いなく、人生で一番幸せだった。

 ずっと暗闇に覆われていた私の人生に、やっと光が差した気がした。

 でも、それは間違いだった。

 あなたと一緒にいても、私はやっぱりどうしようもなくて、やっと自分で見つけたと思った明るい道も、結局は間違いだった。

 私はそれに耐えられなくて、自分で自分を傷つける事しか出来なかった。

 私は、そんな自分のせいで、あなたの人生にまで影がさす事が一番怖かった。

 だから、茉莉花。

 今まで、本当にありがとう。

 でも、もう良いの。

 あなたは、私とは違う、明るくて、暖かい道を行って。

 茉莉花。

 こんな私の事なんて、忘れてください。

 これが、お姉ちゃんからの、最後のお願い。




 ふざけないでよ、花音。

 いつまでも一緒って、約束したじゃない。

 何で、私の行けない所に一人で行っちゃうの。

 私とあなたは違うなんて、勝手に決めつけないでよ。

 いつもみたいに笑って誤魔化そうとしたって、今度だけは許さないから。


 でも、ごめんなさい。

 あの頃のあなたがおかしい事に、私は気づいてあげられたはずなのに。

 なのに私は、あなたが余りにも綺麗で、儚げで、触れたら壊れてしまいそうな気がして、何もしてあげられなかった。

 もしもあの時、あなたに、あと一歩踏みだせていたら。

 今でも、私がそう思わない日はないよ。

 それで、毎日そう考えてたら、自分なりに気もちが整理できたと思うんだ。

 だから、今からそれを言うね。

 花音。

 あなたを忘れる事なんて、私には出来ないよ。

 お節介って言われるかもしれないけど、私はあなたから離れない。

 我が儘かもしれないけど、私は、あなたが何をしていたって、何を考えてたって、あなたとずっと一緒にいるよ。

 だからあなたは、私がいる限り、絶対に、駄目なお姉ちゃん何かじゃない。


 「くそっ……ふざけんなよ」

 助手席の和真おじちゃんは、そうぼやきながら窓を開けて、胸ポケットのタバコに手を伸ばした。

 僕は、運転席からそれをたしなめた。

 「おじちゃん。今は屋内だって全面禁煙なんだから、レンタカーで吸える訳ないでしょ」

 「うっせーな慧人。つい最近までガキだったクセに」

 「初心者の僕を免停にしたいの?」

 「バーカ。車内喫煙くらいで免停は喰らわねーよ」

 「そう言う問題じゃないでしょ」

 「……ふざけんなよ」

 そう言いながら、おじちゃんはポケットにタバコを戻して、運転席側の車窓に目を向けながら言った。

 「くそっ、大体自動運転なら、お前なんかついてなくても、俺一人で来れたのによ」

 「だから、何回も言ってるでしょ。おじちゃんは今朝イギリスから帰ったばっかりなんたから、誰かついてた方が良いって」

 「ったく、泰斗も奥さんも、過保護なんだよ」

 「それはそうでしょ。おじちゃんは今、やっと事業を再開して大事な時期なんだから」

 「くそっ……ふざけんなよ。泰斗の奴、俺が勧めた街飲みとかサークルじゃなくて、結局職場の上司に紹介された嫁さんと結婚した上に、こんな生意気なガキまで作りやがって」

 「ははは」

 「てめえ、何笑ってんだよ」

 「いや、何でも……」

 そこでおじちゃんは、助手席側の車窓に視線を移して、崖に面したガードレールを見ながら呟いた。

 「……この辺りか、あいつが落ちたのは」

 「うん、多分。でも今はガードレールも補修されてて、はっきりとは分からないね」

 「まあ、大体でいいんだ」

 「うん」

 そう言って、おじちゃんはしばらく車窓を眺めているたけれど、やがて独り言の様に呟いた。

 「なあ慧人、お前、何で理学療法士になったんだ?」

 その事をおじちゃんに聞かれたのは初めてだったから、僕は少し考えこんだ。

 「え? うーん、何でって言われると……」

 「花音の事があったからか?」

 「ううん。僕が専門学校に入学したのは花音さんが事故に会う前だから、別にそれが理由だった訳じゃないよ」

 「ああ、そうだったな」

 「うん。でもまあ、ちょと運命的な物は感じるかな」

 「おい、ふざけんなよ。花音は今でも俺の娘だ。てめえなんかにやらねぇぞ」

 「ははは、何それ」

 「くそっ……」

 おじちゃんがそうぼやいた時、丁度、落石注意の看板が見えた。

 僕は、自動運転をオフにしながらに声を発した。

 「おじちゃん、次の縁石の切れ目で良いの?」

 「……ああ」


 よく晴れた2月の昼下がり、私はバイクで灰被り峠に向かった。

 その日の私は、バイクのサイドバッグに中古の一眼レフを入れていた。

 花音は暗闇に輝く光が好きだったけれど、私は光に満たされた明るい写真をよく撮った。

 確かに、花音好みの淋しさの中にも暖かさを感じさせる写真を撮るのは、夜の方が簡単に思えた。

 それでも、何千、何万枚も写真を撮る内に、私は気がついた。

 明るい光景の中にも、そういう雰囲気を感じされる瞬間はある。

 まだ少いけれど、私はそれを切りとる事も出来ていた。

 花音に見せたら笑われるかもしれないけど、それでも私は、いつか来るその日の為に、そんな写真を撮りためていた。

 峠を越えると、私は落石注意の看板の少し先から土手の砂利道にバイクを乗りいれて、そこで停車した。

 エンジンが止まると、川のせせらぎが聞こえてきた。

 私は、バイクを押しながら花音が落下した場所に向かった。

 途中、「れ」ナンバーのレンタカーが停まっていたから、その横をすり抜けて進んだ。

 花音が落下した場所の少し手前まで進んだ時、一人の男性が、丁度その辺りの擁壁に右手をついて俯いているのが見えた。

 そこにバイクを置いて、私は彼に歩み寄った。

 私はその時、彼が俯いたまま何か呟いている事に気がついた。

 そして、その中に花音という響きをキャッチした時、川のせせらぎが聞こえなくなった。

 私は、彼に声を掛けることにした。

 「……こんにちは」

 彼は振り向くと、まず私に目をやってから、私の後のバイクに目を留めた。

 それから彼は、大きく目を見開いて私を睨みつけてきた。

 怖い顔だったけれど、なぜだか少し懐かしくもあった。

 彼は、擁壁から手を離して、私に歩みよりながら言葉を発した。

 「……こんにちは」

 「あの、もしかして、花音のお知りあいですか?」

 「お前……じゃねえ、あなたは?」

 「あ、私は彼女の友人です」

 「ふーん……」

 そう言って、彼は川の方を向いた。

 私は、その横顔に向けて言葉を継いだ。

 「えーと、失礼ですが、もし花音のお知りあいなら、彼女の常連さんだったとか……」

 そこまで言った時、彼はものすごい剣幕で私に詰めよって来た。

 「てめぇ!!」

 「……ひっ」

 突然の事に、私は身を縮めた。

 そうしたら彼は、振り上げた右手を下ろして、私の肩を軽く叩きながら言った。

 「悪りぃ。でもあんたも、気もち悪りぃこと言うんじゃねぇぞ」

 「気もち悪い……?」

 言われた意味が良くわからなくて、私はただそう呟いた。

 彼はそれに応えず、あ然としている私の横をすり抜けて、砂利道を歩きだした。

 その体から、日だまり見たいな懐かしい匂いがした。

 それから彼は、私のバイクの横で立ちどまって、少し振りむきながら言葉を発した。

 「これ、君のバイク?」

 「あ、はい」

 「ふーん。いいバイクだね、自分で買ったの?」

 「いえ、母親から譲ってもらいました」

 「へえ。大切なバイクなんだね」

 「はい」

 「じゃあ、大切に乗ってあげてね」

 「はい」

 私がそう言うと、彼は私に向きなおって言った。

 「さっきは、乱暴な真似してごめんね」

 「いえ、気にしてません」

 それを聞いて、彼は私に背を向ける前に少し微笑んだ。

 その表情を見て、私の脳内にある風景が蘇った。

 強い日差しの中、私と花音が、お母さんと一緒にビニールプールで遊んでいる。

 そのすぐ近くには、シルバーと黒の2台の大型バイクが停めてあって、一人の男の人がそこに寄りかかりながら、私達を見て微笑んでいた。

 もしかしてそれは、マダムから事情を聞かされた私の脳が作りだした、都合の良い幻想だったのかもしれない。

 けれど私は、その言葉を口にせずにはいられなかった。

 「……お父さん!!」

 それを聞いて、彼は私に背を向けたまま立ちどまった。

 私は彼の所まで駆けていって、その背中にしがみついた。

 彼は、何も言わなかった。

 私は少し背のびして、その耳元に囁きかけた。

 「……ねえお父さん……どうして、何にも言わないで行っちゃうの」

 そしたら彼は、私の手を振りほどいて、こっちに向きなおりながら言った。

 「何してんだ。俺はあんたの父親じゃねえ」

 私は言った。

 「ううん。私にはわかるよ」

 彼はまた、川の方に視線をやりながらぼやいた。

 「……なんで、わかるんだよ」

 「だってさっき、お父さんからツーストのオイルの匂いがしたもん。私が大好きな、花音の匂い。日だまりみたいに暖かい、懐かしい匂い」

 「だとしても、それだけじゃ………」

 「ううん。それだけじゃないよ。私、思い出したんだ。小さい頃の私と花音が、ビニールプールでお母さんと一緒に遊んでた。そのすぐ近くに花音と私のバイクが停めてあって、お父さんはそこに寄りかかりながら、私達を見て笑ってた」

 私がそこまで言った時、彼は私の両肩をつかんで、真剣な表情で言った。

 「……いいか茉莉花、俺の事なんて忘れろ。今のお前には、俺なんかよりずっと優しくて、きちんとした父親がいるんだから」

 その黒い瞳はあまりに真剣で、それでもどこか優しくて、私は何も言えなかった。

 お父さんは、私の肩を離して、独り言みたいに呟いた。

 「……お前たちを辛い目に合せた俺に、父親の資格はねぇ」

 そう言ったお父さんはどこか淋しげで、私はまた、何も言えなかった。

 しばらく黙ってから、お父さんは口を開いた。

 「花音は明日退院するだろ。でも俺にはもう、あいつに会わせる顔がねぇ」

 そう言ったお父さんの目には、涙が浮かんでいた。

 私は黙っていた。

 お父さんは言葉を継いだ。

 「だから俺は、あいつと会わないために今日ここに来たんだ。茉莉花にも、本当は会うつもりじゃなかった」

 私の瞳を見つめて、お父さんは話し続けた。

 「でも、会っちまったんだから仕方ねぇ。茉莉花、謝って済む事じゃないのは分かってる。でも、最後にこれだけは言わせてくれ。お前達には本当に辛い思いをさせた。済まなかった」

 そう言って、お父さんは深々と頭を下げた。

 私は何も言えなかった。

 お父さんは、頭を上げて言葉を継いだ。

 「茉莉花、お前は昔から明るくて優しい奴だった。今もそうだ。俺は、お前にはこれからも明るい道を行ってほしい。だからもう、俺の事なんか忘れろ」

 そう言って、お父さんは言葉を切った。

 私は、その瞳を見つめ返した。

 私と同じ、黒い瞳を。

 お父さんの気もちが、私には痛いほど良く分かった。

 事業が傾きだした頃、私たち家族はきっと、みんな一杯一杯だった。

 だからその時、お父さんとお母さんは、多少不確かでも、一番よさそうに思える道を選ぶしかなかった。

 お母さんと一緒に行った私は幸せだったと思う。

 でも、違う道を行った花音は、結局こんな事になってしまった。

 だとしても、花音はきっと2人の選択を理解してくれている。

 お父さんを恨んだりしていないよ。

 だってあの娘は、あのバイクを残してくれたあなたの事を、とても慕っていたから。

 なのにお父さん、何でそんな事を言うの?

 花音もそうだった。

 最後はあんな酷い事言って私を遠ざけようとしたけれど、私にとってそれは、ただただ痛々しくて、あの娘への想いを強くするだけだった。

 ……ふざけないでよ。

 そんな事して誤魔化そうとしたって、私には通じないから。

 花音も、お父さんだって、私の気もちを、勝手に決めつけないでよ。

 小さくため息をついてから、私は話し始めた。

 「ふざけないでよ。実のお父さん、育ててくれたお父さん、お父さんはその内の一人だけなんて、誰が決めたの? もし誰かがそう言ったって、私はそんなの、絶対に認めない」

 お父さんは、顔を強ばらせて私を見つめている。

 私は言葉を継いだ。

 「花音だって、お父さんを恨んだりしてないよ」

 「……何で、そんな事……」

 「ううん、分かるよ。だって花音は、あのバイクを凄く大切にしてて、それを残してくれた人の事を話す時は、いつも懐かしそうに笑ってたから」

 「………」

 私を見つめる二つの瞳から、涙が零れおちた。

 「ねえお父さん。花音はこれから、しばらく施設で暮らす事になるんだ。だから、あの娘が淋しくないように、二人でいっぱい会いにいこうね」

 「………」

 「それで、花音が施設を出たら一緒に暮らそうよ」

 「……でも、それはあいつが……」

 「ううん、さっきも言ったでしょ。花音は、今でもお父さんを慕ってる。絶対に嫌がらないよ、私が保証する」

 「………」

 お父さんは何も言わなかったけれど、その表情は、少し和らいだ様に見えた。

 私は話し続けた。

 「でね、お父さん。もし花音が嫌じゃなかったら、三人で、いっぱいバイクの話がしたいな」

 そう言いながら、私はお父さんの胸に頭を預けた。

 何も言わず、お父さんはその身体を支えてくれた。

 「……お父さん……会えて良かった……」

 そう呟いた私の瞳からも、涙が零れおちた。

 私の髪を撫でながら、お父さんは呟いた。

 「……お前、ふざけんなよ……」

 その時、さっきまで聞こえなかった川のせせらぎが、急に、うるさい位によみがえった。


  無人タクシーのドアが開いた。  私はまず右手のロフストランドを地面についてから、それを支えにしてアスファルトに降りたった。

 土手に登ると、川のせせらぎが聞こえてきた。

 砂利道を歩くのは退院してから初めてだったけど、思ったより上手く歩けたと思う。

 土手を少し進むと、白いレンタカーと、その側に立っている一人の男性が見えた。

 私が近づくと、彼はこっちに駆けよってきた。

 見た限り私と同年代の彼は、私の前で立ちどまって、声をかけてきた。

 「お姉さん! ロフスト何かで、こんな足場の悪いとこに入ってきたら危ないですよ!」

 私が転んだら直ぐにでも支えられる様に両手を広げたその人は、真剣な表情をしていた。

 それか何だか可笑しくて、私はちょっと笑いながら言った。

 「えへへ、大丈夫だよ。私、今は杖なしでも歩けるの。これは念の為に持ってきただけ」

 「あ、そうでしたか……」

 そう言いながら彼は、少し不思議そうな表情をして私の顔を見つめてきた。

 私がそのまま歩きだそうとしたら、彼は私の左横に立ちながら言った。

 「確かに、見た所歩行はかなり安定していますが、まだ左半身に不安定さが残っていますね。もし嫌じなかったら、僕も一緒に行って良いですか?」

 その真面目な言い方は、やっぱり可笑しかった。

 「えへへ。何だか、リハビリの先生みたいなこと言うね」

 それを聞いて、彼は少し俯くと、照れ臭そうな顔でそれに応えた。

 「はい。一応、理学療法士ですから」

 「うそ、ホントに?」

 「はい」

 「へー、じゃあこれから、私のリハビリもお願いする事になるかもね」

 「はい。多分、そうなるかと思います」

 「え?」

 「ごめんなさい、自己紹介が遅れました。僕は『ロートケツペン』で身体機能に不安がある方のリハビリを担当しています、吉川慧人と言います」

 「『ロートケツペン』って、確か……」

 「はい。三好さんが入所する予定の障がい者支援施設です」

 「……え……。すごい偶然だね」

 「はい。僕も、三好さんは明日退院予定だと聞いていたので、正直驚いてます」

 「えへへ。前の病院の人たちさ、私はもう一人で動ける体になったのに、まだ危ないとか言って、中々退院許可出してくれなくてさ」

 「まあ、確かに三好さんは、単独行動しても問題なく見えますね」

 「でしょ? あと、呼び方は花音で良いよ。私、その名字嫌いだし」

 「あ、ごめんなさい」

 「でさ、さんざんゴネて、何とか1日だけ退院日を早めてもらったの。それで、今日だけホテルに泊まってるんだ」

 「へぇ、それは何というか、すごいですね」

 慧人は、そう言ってはにかんだ。

 その笑みが、また、私のいたずら心にくすぐった。

 「……ねえ、慧人くん。私が事故にあう前、どんな仕事してたか知ってる?」

 そしたら彼は、顔を真っ赤にしながら少し俯いて、小さい声でそれに応えた。

 「は、はい……。一応、聞いてはいます」

 「へぇ……」

 そう言いながら、私は考えた。

 今どき、病院や施設の関係者が、支援対象者のデリケートな情報を職員に伝えるだろうか。

 「それって、誰に……」

 私がそこまで言いかけた時、慧人は、私の目をまっすぐ見て声を発した。

 「僕、僕は、花音さんが、例えどんなお仕事をしていたとても、これからどんなお仕事をしたとしても、あなた事を、精一杯支えます」

 そう言った彼の目は、とても真剣だった。

 それを受けとめきれなくて、私は空を見あげながら呟いた。

 「えへへ。前にもね、そう言ってくれた人がいたよ。でも、結局その人は、こんな私じゃご両親に紹介出来ないって言って、私を殴ったの」

 慧人は、何も言わなかった。

 「あ、ごめんなさい。別に慧人くんが怖い人だって言ってるわけじゃないの」

 「いえ……」

 「別に、男の人全部が怖くなった訳じゃないんだよ。ただ今は、そういうのは、しばらく良いかなって」

 「……はい。花音さんはとても大変な目に遭ったんですから、これからの事は、ゆっくり考えていけばいいと思います」

 「うん、ありがと」

 慧人の控え目な態度は、とても好印象だった。

 そう言えば、私を殴ったあの人も初めは控え目な態度だった。

 彼は、あの人とは違うだろうか。

 私が黙っている間、慧人は、じっと待っていてくれた。

 そんな彼を見つめて、私は微笑みながら言った。

 「ねえ慧人くん。慧人くんが私を精一杯支えてくれるって言うのは、支援者と、支援対象者との関係の話? それとも、もっと個人的な話かな?」

 それを聞いて、慧人は、また俯きながら言った。

 「……あ、いえ……」

 その態度はやっぱり可笑しくて、そして、ちょっぴり可愛くもあった。

 彼は、あの人とは違うかもしれない。

 あの人は控え目だったけど、こんなに初心じゃなかった。

 そして皮肉な事に、夜の仕事をしていた私には、それが演技じゃない事が分かった。

 この人となら、これから……。

 私がそう思った時、背後から、砂利を踏む音が聞こえてきた。

 そして、それに続いて、懐かしい声が、一番聞きたかった声が聞こえてきた。


 「花音!!」

 私はそう叫ぶと、花音に駆けよって、杖をついた彼女の肩にそっと手を回した。

 「茉莉花……」

 花音は、押し殺した様な声でそう呟いた。

 その頬を涙が伝った。

 気がつくと、私も泣いていた。

 私は、花音の肩に手を回したまま、その耳元で囁いた。

 「花音……会いたかった」

 花音も囁き返してきた。

 「うん……私も」

 花音の存在を確かな物にしたくて、私は彼女の頬に自分のそれを押しつけた。

 花音も同じ様にしてきた。

 花音の頬は、あの夜と違って、とても温かかった。

 それが嬉しくて、私は何度もそれに頬ずりをした。

 「えへへ、茉莉花。嬉しいけど、恥ずかしいよ」

 花音はそう言ったけれど、私は何度も何度も頬ずりをした。

 「だって、ずっと会いたかったから」

 「うん」

 花音はそう言いながら、私から頬を離して、その淡い瞳で私を見つめてきた。

 私もそれを見つめ返した。

 花音は微笑んだ。

 その笑顔はやっぱりどこか儚げだったけど、それでも、最後に会った時よりずっと暖かかった。

 私は微笑み返した。

 それを見て、花音は笑みをうかべただまま言った。

 「ねえ茉莉花。こんなダメな私でも、ずっと一緒にいてくれる?」

 今の私の表情は、自分と同じ顔をした彼女の目に、どう映るだろうか。

 その瞳に、少しでも自分の気もちが伝わる事を願いながら、私は精一杯の笑顔でそれに応えた。

 「もちろん。もう絶対離れない。もう絶対、花音を独りにしないから」

 「えへへ。嬉しい」

 そう言いながら、花音は杖を砂利道に置いて、私の肩に両腕を回してきた。

 よく晴れた土手の日だまりは、もう春になったかと思うほど暖かかった。

 私は、花音を抱きしめた。

 「おかえり、花音」

 「ただいま、茉莉花」

 そう応えた花音の身体も、同じくらい暖かかった。

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