Left Cylinder トゥワード・ザット・サマーデイズ Toward That Summerdays・もう一度、あの夏へ
彼は、もうすぐあの娘と再開する事になる。
山と海に囲まれたこの町で、七夕に出会い、セミ取りをして、夜釣りをしたあの娘に。
そして、中学校2年生の夏、海水浴場で、あんな別れ方をしたあの娘に。
……ドッドッドッ、という音で、僕は目を覚ました。
カーテンを少し開けてみると、朝焼けに染まった海原を、漁船が排気音を立てて通り過ぎて行った。
開けっ放しだった窓から吹き込んで来た潮風が、僕の頬を優しく撫ぜた。
お盆を間近に控えた8月のある日、町役場の食堂でざる蕎麦をすすりながら、幼馴染の圭介が言った。
「なあ奏汰、知ってるか? 向かいの家の花純ちゃん、2番目の旦那とも最近離婚して、来年こっちに帰ってくるんだって」
僕も一口素麺をすすってから、圭介の方に身を乗り出した。
「いや、今はじめて聞いたよ」
「今は花純ちゃん、前の旦那との女の娘が1人いるだろ」
「うん。確か、その前の旦那さんって、中古バイクの事業に失敗して離婚したんだっけ?」
「ああ。それで花純ちゃん、その娘と2人で、布袋の町営住宅に入るんだって」
「町営住宅? 向いのあの家じゃなくて?」
「ああ、そうらしい。ほら、花純ちゃんのお母さん、実家とあんまり仲良くなかっただろ」
そんな噂は前から聞いていた。
彼女のお母さんに、何ていうか、ちょっと放蕩癖がある事は、近所では有名だった。
「ああ、だから、花純ちゃんと子どもも、あの家には居づらいって事ね」
「まあ、そんな所だろ」
そこで僕は立ち上がって、新しい麦茶を注ぎにいって、コップを圭介の前に置きながら言った。
「じゃあさ、圭介の家に呼んであげたら?」
「バーカ。家には奥さんと子どもも2人いるし、もうすぐ3人目も出きるんだぞ」
「あ、そっか」
「”あっ、そっか”じゃないだろ。 大体、つい最近新車買ったし、今の
家にそんな余裕ある訳……」
その日の帰り道。
家の玄関を開ける前に、僕はちょっと振りむいて、花純ちゃんが住んでいた家の玄関先を覗いてみた。
沢山の向日葵が、西日に照らされて、夕暮れ時の生暖かい潮風にそよいでいた。
もうすぐ僕は、向日葵みたいに笑う彼女に、また会う事になるだろう。
あの夏、あんな分かれ方をした彼女に。
僕は、東京の大学に進学してから一昨年まで、そのまま東京の食品工場で働いていた。
そして一昨年、祖父の認知症が悪化し始めると、祖父と同居している両親から、僕に、この町の会計年度任用職員の試験を受けてみないかと声がかかった。
その頃の僕は都会の暮らしに疲れてきていたし、何より家族の力になりたいと思って、すぐにその提案に乗る事にした。
人口減少に悩まされるこの町でも、結構倍率は高かった。
でも、もしかしたら祖父の築き上げた人脈が物を言ったのかもしれない。
僕は、一発で町の子ども政策課に採用された。
その祖父は、鮭とばの加工場でちょっとした財を築き上げた人だ。
祖父が町の水産加工協同組合の組合長を3度やっていた事もあって、町には今でも、祖父を慕う人が多い。
そしてこの春、僕は1年ごとの再任用のタイミングで、子ども政策課の正職員に採用された。
その子ども政策課の目下の課題は、漁業の繁忙期における、日中の子どもの居場所を確保する事だった。
多くの漁師さんの家庭では、夫婦は日中、ともに漁業に携わっている事が多い。
そうでなくても、夫は日中漁に出ていて、奥さんはその間、アルバイトやパートをしている事が多かった。
だから、幼稚園や保育園、学校が終わった後の子ども達は、日中のほとんどの時間を大人と離れて過ごす事になる。
そして最近は子どもの数が減っているから、子ども達はその間、家に独りでいる事が多かった。
以前から子ども政策課はその対策を考えていたけれど、中々妙案が浮かばないのが現状だった。
僕は子ども食堂を開設する事を提案していたけれど、町の判断では、ただでさえ財政状況が厳しいこの町で、子ども政策課がその為の予算を獲得するためには、他の課と連携して行う様な、なにか複合的なプランが必要になると言う事だった。
8月の頭から、この町では、春から水揚げされていたブリが更に豊漁になっていた。
この現象は10数年前から続いていて、その代わり、以前は主力の水産品だったサケはほとんどとれなくなってしまった。
でも、ブリが沢山獲れたからと言って、もともとブリの産地ではないこの町では、漁に出てもほとんど利益が上がらないのが現実だった。
町も近年、ブリ漁の利益率改善を目指した施策をいくつか始めていたけれど、どれも上手くいっていなかった。
それでも、夏休みが始まると、帰郷した家族連れが増えて、町は少し賑わいを取り戻した。
そして8月7日の七夕には、浴衣を着て小さな提灯を下げた子ども達が、夕暮れ時の町を、カランコロンと下駄を鳴らして行き交った。
その姿を見ながら、僕は思い出していた。
忘れもしない、あれは僕が小学校2年生の七夕。
僕はあの日、始めて花純ちゃんと出会った。
その日、祖父の家には僕1人しかいなかった。
夕方にテレビを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。
今、家に大人は誰もいないし、荷物が届く話も聞いていなかった。
多分、近所の人が世間話をしに来たのだろう。
だから僕は、自分が出ても仕方がないと思って、居留守を使う事にした。
そうしたら何と、勝手に玄関を開ける音が聞こえてきた。
僕がびっくりしていると、玄関から子どもたちの歌声が聞こえてきた。
「「「……ことーしゃ豊年七夕祭りよ。ローソク出ーせ出ーせよー。 出さないとかっちゃくぞ。おまけに噛みつくぞ」」」
僕が驚いて玄関に出ると、そこには1人の大人の女の人と、浴衣姿を着て、小さな提灯をぶら下げた5人の子どもが立っていた。
そして子ども達の先頭に、青い浴衣に黄色の帯を締めた花純ちゃんがいた。
あの頃の彼女は僕より背が高くて、すんとすました顔で僕を見つめていたけれど、よく動くその淡い瞳には、どこか茶目っ気も感じられた。
僕がその姿に見とれていると、子ども達はまた同じ歌を歌い始めた。
何がなんだか分からなくて、僕は家のなかに引っこんだ。
それでも、子ども達は歌い続けている。
よく分からないけれど、とにかくローソクを持って来なきゃ。
そう思って、僕は仏間に走っていった。
仏壇の前に大きなローソクが入った箱がある事を、僕は知っていた。
だから僕は、それをそのまま持っていって、子ども達に差しだした。
「……は、はい。ローソクです」
そうしたら子ども達は、一瞬無言になってから、一斉に高い声で叫び始めた。
「えー! ほんとにローソクなんていらないよ!」
「それにそのローソクじゃ、提灯に入らないって!」
「それよりお菓子を頂戴よ!!」
「え? お、お菓子?」
その時、僕は初めて気がついた。
確かにこの辺りの地域には、七夕に、子ども達がお菓子を求めて家々を練り歩く風習があった。
でも、それは僕の街では7月7日だった。
僕が8月7日に祖父の家に居た事はその年が初めてだったから、この町では8月にそれをしている事を知らなかった。
その事に気がついて、僕は慌てて女の人に家の中にお菓子が無いか見てくると申し出た。
そしたら女の人は、それを丁寧に断ってから、優しい声で子ども達を宥めた。
「みんな、わがまま言っちゃいけません。奏汰くんはこっちの人じゃあないんだから、本当にローソクを持ってきてくれても仕方がないでしょう? だからみんな、奏汰くんからはローソクを貰いましょうね」
子ども達はしぶしぶ、女の人に従う事にした様だ。
「……ごめんなさい。ローソクでも下さい」
言われるがままに、僕はローソクが入った箱を子ども達に差しだした。
そうすると、一人の男の子がまた高い声で叫びだした。
「えー! このローソク、3本しか入ってないよ!」
「えっ! あ、す、すみません。 僕、仏壇見てきます」
慌てて仏間に戻ろうとした僕を、女の人が優しい声で呼びとめた。
「あっ、奏汰くん、いいのよ。じゃあみんな、ジャンケンで誰が貰うか決めましょう」
「「「……はーい」」」
子ども達は、渋々女の人に従う事にしたようだ。
子ども達がジャンケンを始めようとすると、花純ちゃんは女の人に何か耳打ちしてから、僕に歩み寄ってきた。
「ねえ奏汰くん。奏汰くんの街では、七夕に、こういう事しなかった?」
「したけど、僕の街じゃ、七夕は7月だよ」
「えへへ、そっか。奏汰くんが8月7日にこの町にいたのは、今年が初めて?」
「うん」
「来年も、この日にこの家に居る?」
「えーと、多分」
「そっか。じゃあ奏汰くん、来年の七夕は、私と一緒に回ろうね」
花純ちゃんはそう言うと、ひらひら手を振って、向日葵みたいに笑いながら玄関を出ていった。
それから彼女は、先に行った大人の人と子ども達を追いかけて、浴衣の前を右手でちょっとつまみながら、下駄を鳴らして駆けていった。
黄色の帯がゆらゆらと揺れて、向日葵みたいで綺麗だった。
さっき僕に向けられた淡い瞳も、向日葵みたいに輝いていた。
そして、その笑顔も。
僕はただ、彼女の姿が見えなくなるまで、玄関先に立ちすくんでいた。
お盆に入って、僕は家族の墓参りを手伝うために、夏季休暇を取得した。
そしてその日の夜、僕は家の裏の磯に、ナガラゾイを釣りに出かけた。
祖父の家からは、裏から防潮堤を乗り越えて磯に降りれば、そこがもう釣り場になっている。
磯に降りた僕は、右手に町を望む、少し入り江の様になった場所に釣り座を構えた。
海面は街灯の光を反射して、橙色にキラキラと揺れていた。
僕はその少し先にウキを投入して、仕掛けを、街灯の光が当たっている所と、暗くなっている所の間に流しこんで行った。
ナガラは、明闇の狭間にいる。
祖父は僕にそう教えてくれたけれど、花純ちゃんは、それを実践するのが僕よりずっと上手だった。
僕と彼女は、祖父に連れられて、よくここにナガラゾイを釣りに来ていた。
そういう時は大抵、祖父がナガラゾイを5、6月匹、花純ちゃんが2、3匹釣っていたけれど、僕は1匹も釣れないことが多かった。
それにあの頃の僕は、餌にする生のチカが怖くて触れなかったから、花純ちゃんに、情けないって散々からかわれた。
あれから10年くらい経って、この日の僕は、3時間粘って何とかナガラゾイを1匹釣りあげる事が出来た。
家に帰ってそれを捌いてみたら、その腹から稚魚が沢山できて、それでまた思い出した。
初めてナガラゾイを釣りに行った夜も、祖父が捌いたソイの腹から稚魚が沢山でてきた。
それを見た僕が、お腹から小さい魚が出てくる魚なんて気持ち悪くて食べられないって嫌がったら、花純ちゃんにまた、情けないって笑われた。
お盆休が明けた頃から、この町でもクマゼミの声が聞こえ始めた。
クマゼミには、懐かしい、ちょっと恥ずかしい思い出がある。
あれは、僕が小学校6年生の夏休み。
花純ちゃんと2人で裏山で遊んでいると、近くの木から、ワシャワシャという聞いたことのないセミの声が聞こえ始めた。
そしたら彼女は、人差し指を唇に当ててから、僕の耳元で囁いてきた。
「……あの鳴き声、クマゼミだね。最近この辺りにもいるようになったって聞いてたけど、本当に鳴き声を聞いたのは初めて。絶対捕まえたいから、奏汰はここでじっとしてて」
僕は、花純ちゃんが急に耳元に唇を寄せてきた事におどろいて、上手く返事が出来なかった。
彼女は、そんな僕なんて目に入らない様子で、ゆっくりと、木に忍び寄って行った。
その時、少し風が吹いて、彼女の黄色いワンピースの裾がはためいた。
「……か、花純ちゃん、木に登るのなんて危ないよ。それにその服じゃ……」
「……しっ……静かにしてて」
そう言われると何も言えなくなってしまって、僕はただ、その背中を見送った。
やがて、花純ちゃんは木に取り付いて、その幹を登り始めた。
そして、彼女が幹の中ほどまで登った時、急に強い風が吹いた。
彼女のワンピースの裾は、それに煽られて、翻って、それで……。
……ここから先は、とても言えない。
お盆が開けて数日後、圭介が、彼が勤める地域振興課が町内の食堂と共同開発したという、ブリの出汁を使った「ブリラーメン」を試食させてくれた。
以前も同じ様な試みはあって、その時はこの地方で一番人気の塩ラーメンをベースにしていたけれど、ブリの臭みが残っている上に、味わいがアッサリしすぎていているという事で不評だったと言う。
今回の試作品は、その反省を踏まえて、出汁に使うブリのアラの下処理を徹底した上で、この地方で2番目に人気の味噌ラーメンをベースにした物だった。
ラーメン自体は可もなく不可もなくといった味だったけれど、チャーシューの代わりに入っていたブリのすり身団子は、味噌味の濃厚なスープと合わさると、中々美味しく感じられた。
そして、そのラーメンを食べながら、また、花純ちゃんの話しになった。
僕は、例え事情がどうあれ、彼女の様にこの町で子育てをしてくれる人が増えるのは、喜ばしい事だと思っている。
僕が勤めている子ども政策課と彼の地域振興課は、11年前から、彼女の様にUターンしてこの町で子育てをする人や、子育てのために移住して来る人を増やすために、様々な施策を講じていた。
そして、その為に町は、まずは子育て支援制度を整備した上で、この町の過ごしやすい気候をアピールしていた。
この町は、近隣の市町村と比べて夏は涼しく、冬は比較的暖かくて、雪も少なかった。
そして、その他にアピールポイントとして挙げられるのが、豊かな自然環境だった。
この町は、西側を海、東側を豊かな森をたたえた山に囲まれていた。
町の北側には海水浴場もあって、シーズンには、近隣の地域から多くの人が訪れる。
そしてそこは、僕にとって忘れられない、花純ちゃんとの想い出の場所だった。
あれは、僕が中学校2年生の時の8月19日。
僕と花純ちゃんは、二人で町の北側の海水浴場に行った。
僕たちの家から海水浴場に行くには、まず長い坂道を登って、それからまた坂道を降りなければいけない。
去年までは、花純ちゃんが僕を電動アシスト自転車の後ろに乗せて坂を登っていた。
でもこの年は、坂を少し登った所で、花純ちゃんが僕に運転を代わるように言ってきた。
不思議に思って、僕は花純ちゃんに問いかけた。
「どうしたの花純ちゃん? 具合悪い?」
「……良いから、早く代わって」
花純ちゃんは、何だか不機嫌な声でそう応えた。
その意図はよく分からなかったけれど、取りあえず僕は言われた通りにする事にした。
坂の折り返し地点に差しかかると、花純ちゃんが僕にまた運転を代わるように言ってきた。
僕はその理由を聞いたけれど、彼女はまた不機嫌そうな声でそれに応えたから、言われた通りにするしかなかった。
自転車の後ろに乗って、僕は花純ちゃんに声をかけた。
「どうしたの花純ちゃん、具合治ったの?」
「……うるさい」
「……え?」
「だから、うるさいって!」
そう叫びながら、花純ちゃんは下り坂に向かって猛然と自転車を漕ぎだした。
「花純ちゃん! 危ないよ!」
「うるさい!!」
そう叫びながら、彼女はものすごいスピードで坂を下って行った。
そして、そのまま海水浴場につくと、花純ちゃんは何も言わず、海の家の更衣室に入っていった。
何が何だか分からない僕は、取りあえず自分も更衣室で水着に着替える事にした。
僕が着替え終わってしばらくして、花純ちゃんが更衣室から出てきた。
水着に着替えた彼女は、両手に水中メガネとシュノーケル、足ヒレを下げていた。
僕の身長は去年花純ちゃんを抜いたけれど、それでも彼女は、同年代の女子の間では背が高い方だった。
そして、1年ぶりに見た花純ちゃんの水着姿は、よく日に焼けて、やっぱりすらっとしていた。
でも、胸やお尻は、去年よりも、その、何ていうか……。
「……なに見てんよ、変態」
ぼーとその姿を見ていたらそう言われてしまって、僕は慌てて海の方に視線を移した。
この海水浴場の100メートルくらい沖には、「大黒島」と呼ばれる小島があった。
僕が大黒島を見ている間に、花純ちゃんは黙って足ヒレをつけて、波打ち際に進んだ。
そして、水中メガネとシュノーケルをつける前に、僕を振り返って言った。
「奏汰、今日は大黒島まで行くから、ついてきて」
「……えっ!? 花純ちゃん……」
その言葉を聞いて僕が驚いている間に、彼女はさっさと泳ぎだした。
僕もスイミングスクールに通っていて、プールでは100メールくらいはなんなく泳げたけれど、波のないプールと海では、かかる労力が全然違った。
花純ちゃんは、そんな僕を置いてどんどん先に泳いでいく。
僕は波に揉まれながら、何とかそれに付いていくのがやっとだった。
ようやく大黒島の岸にたどり着くと、先に島に登った花純ちゃんが、水中メガネとシュノーケルを外して僕を見下ろしていた。
その角度から彼女を見あげるのはさすがに恥ずかしくて、僕は急いでその足元から島によじ登ろうとした。
けれど、島の波打ち際の岩肌にはフジツボやイガイがびっしりで、どこに手をかければいいのか分からなかった。
僕が波打ち際であたふたしていると、花純ちゃんが、僕をその反対側の、岸が低くなっている所に導いてくれて、それでなんとか、僕は島に登る事が出きた。
島の岩場は真夏の太陽に炙られてとてつもなく熱かったから、2人で海の水をかけて、何とか座れるスペースを作った。
僕が島に登ると、花純ちゃんは僕の横に座り込んで、向日葵みたいに笑いながら、満足そうに言った。
「えへへ。自転車では負けたけど、泳ぎはまだ、私の方が上みたいだね」
初めて波の中で長い距離を泳いだ僕は、息を切らしながらそれに答えた。
「そんなの、僕がいつも泳いでるプールにはこんなに波はないし、花純ちゃんは足ヒレで、僕は素泳ぎなんだから、比べられてもどうしようもないよ」
「ふーん。じゃあ奏汰に私の道具を貸してあげたら、海に潜ってノナを取ってきてくれる?」
ノナと言うのは、この地方の言葉でムラサキウニの事だ。
「えっ、そんなの無理だよ。大体、花純ちゃんのシュノーケルを借りるなんて……。それに、ウニなんて触れないよ。 気持ち悪いし、あのトゲ、指に刺さりそうだし、そもそもそれって密漁……」
僕がぶつぶつ言っていると、花純ちゃんは水中メガネとシュノーケルをつけて、海に飛び込んだ。
それから彼女は、立ち泳ぎしながらシュノーケルを口から外して、僕に声をかけてきた。
「えへへ。奏汰はやっぱり情けないね。あと、アワビとかガンゼをとったら怒られるけど、ノナをちょっととったくらいで密漁なんて言われないよ」
そう言うと花純ちゃんは、シュノーケルを口にはめて、海に潜っていった。
ガンゼと言うのはこの地方の言葉でバフンウニの事で、ムラサキウニよりこっちの方が、ずっと高価だった。
仕方がないから僕は、岩場の上に立って、彼女が潜って行った辺りを眺めていた。
花純ちゃんはかなり深く潜っているみたいで、姿が見えなくなってからしばらくしても、なかなか上がってこなかった。
僕はだんだん心配になって、岩場から身を乗り出した。
そしたら、彼女が潜って行った辺りから、大量の気泡が浮きあがって来た。
……!?
「花純ちゃん!!」
彼女が溺れたかと思った僕が海に飛び込もうと身構えた時、すぐ近くの水面に、シュノーケルを外した花純ちゃんが顔を出した。
「……ぷはぁ!!」
僕は驚いてしまって、言葉が出て来なかった。
僕があ然としていると、彼女は両手にノナを持って、器用に岩場に登ってきた。
それから、犬みたいに勢いよく頭を振って髪についた海水をふるい落とすと、悪戯っぽく僕に言った。
「えへへ。溺れたと思った?」
「………」
僕は何も言えなかった。
それから彼女は、岩場にノナを2つ置くと、僕に向かって胸を張った。
「私が溺れる訳ないじゃん! ほら見て、都会のスーパーなら、この2つで2000円近くするよ」
僕は黙ってそれを見ていたけれど、元気そうな彼女の姿を見ているうちに、段々と怒りが込み上げて来た。
「……か、花純ちゃん、なにしてんのさ! やっていいい悪戯とだめな悪戯があるでしょ!!」
僕は思わず彼女の肩に手を伸ばしそうになったけれど、水着に覆われていない、小麦色のその肌を見て、咄嗟にそれを引っ込めた。
そんな僕を見て、花純ちゃんは笑いをこらえた様な顔をして言った。
「えへへ。ごめんね奏汰、びっくりさせすぎちゃったね」
「謝ってすむことじゃないよ、あんな悪戯。僕がどれだけ心配したか……」
僕がそこまで言った所で、彼女は岩場に座り込んで、2つのノナを手近な尖った所に打ちつけて割った。
「ごめんなさい奏汰。ね、このノナ、2つとも食べていいからさ」
「えっ、いいよそんなの。元々は花純ちゃんがとったんだから」
「うん。じゃあ、一緒に食べよ?」
そう言われて、僕も花純ちゃんの隣の岩場に座った。
彼女は、半分に割ったノナの片方を僕に差し出してきた。
僕はその端っこに口をつけて、中身の卵巣をそのまま啜った。
「どう、美味しい?」
「うん。やっぱり、売ってるウニとは全然違うね」
「でしょ? これで、機嫌直った?」
「別に、最初から怒ってないよ。 ちょっと心配しただけで」
「えへへ。ならよかった」
そう言いながら彼女は、食べ終わったウニの殻を海に放り投げた。
僕も同じ様にした。
それから花純ちゃんは、岩場に寝転がりながら、僕に声をかけてきた。
「ねえ、奏汰もこうしなよ。気持ちいいから」
横になった彼女を上から見下ろすのもやっぱり恥ずかしくて、潮騒の中で、僕は言われた通りにした。
花純ちゃんは、空を見上げたたまま、僕に呟いてきた。
「……ねえ奏汰、知ってる? お母さん、今度再婚するんだ」
「……え? 知らない」
「でも、もうその人、家のおじちゃんおばあちゃんと仲悪くてさ、今年中に私、お母さんとその人と3人で、仙台に引っ越す事になると思う」
「……え」
花純ちゃんが、この町から引っ越す?
急に衝撃的な事を言われて、僕には返す言葉が見つからなかった。
彼女は、空を見上げたまま話し続けた。
「だから、奏汰と一緒にこうしていられるのも、今年で最後かも知れないんだ」
「……そっか」
僕がそう言った時、花純ちゃんは海の方を向いて、僕に背中を見せた。
「ねえ奏汰、さっき水着になったとき、私の体、じろじろ見てたでしょ」
急にそう言われて、僕は心臓を鷲掴みにされた様な気がした。
何も言えずにいると、彼女は独り言の様に言葉を継いだ。
「……でも、奏汰は別にいいんだよ。私と同い年だし、それに……」
花純ちゃんは、そう言って口ごもった。
「それに、何?」
「ううん、何でもない。でも、その人はね、私より30も年上なのに、すっごく嫌らしい視線で、私の体を舐めるみたいに見てくるんだ」
「…………」
僕は、何も言えなかった。
彼女は話し続けた。
「今日、私は自転車で坂を登りきれなかった。さっきはああ言ったけど、泳ぎだって、本当は奏汰が言った通りかもしれないね。私は足ヒレ着けてて、奏汰は素泳ぎだったから私の方が速かったけれど、そうじゃなかったら、奏汰の言った通りだったと思う」
「……そんな事……」
そこまで言いかけて、僕は言葉を呑み込んだ。
そんな事ない、とは言い切れなかった。
「……ねえ奏汰。最近、お母さんがよく言うの。お前は最近、嫌らしい体つきになってきた、まったく誰に似たんだか、とかね。でも、こうも言うのよ。女は、よっぽどの才能がない限り、男に頼らなきゃ生きて行けないって。だから、お前もいい加減、自分の体を武器にして、男に媚びて、甘えて、頼る生き方を身に着けろって」
この頃にはもう、僕は気が遠くなりそうだった。
「私は、そんな生き方をするのは、絶対に嫌。でも今日、はっきり分かっちゃった。私はもう、奏汰と並んでいられないって」
「…………」
「……ねえ奏汰、私の本当のお父さんが会社で大変なとき、お母さん、別の人と不倫してたの」
「……そっか」
僕は、何とか短くそう答えた。
「それでお母さんはその時の不倫相手と結婚したけど、それからすぐに、今度再婚する人と不倫し始めたんだ」
「………」
「だから私、分かってるの。本当は、お母さんが言う生き方が正しいのかもしれないって。だって、私の体には、最初からお母さんと同じ血が流れてるんだもん」
「…………」
「……多分私も、もうすぐ、お母さんみたいな嫌らしい大人になっちゃうんだ」
「…………」
「だから、そうなる前に……」
花純ちゃんは、そう言いながら体を起こして、僕の方を向いた。
僕も同じ様にして、彼女と向き合った。
2人の視線が交わった。
「……奏汰」
彼女のお母さんの言う事は、確かに正しいのかもしれない。
事実、いつも僕の先を行っていると思っていた花純ちゃんは、いつの間にか、僕の後ろにいた。
それに彼女は、去年よりもずっと、何と言うか……魅力的になっていた。
これから僕たちが成長するにつれて、2人の差は、もっと開いて行くんだろう。
花純ちゃんのお母さんは、彼女はこれから先、今までみたいに男と並んでいられなくなるから、それなら自分の強味を活かせって言いたいんだろう。
そのために、男に媚びて、甘えて、頼る生き方を身に着けろって。
僕には、そんな生き方を目指す事は、絶対に間違っている様に思えた。
だけど、それを言った人は僕たちよりずっと大人で、何より、彼女のお母さんだ。
例えその後に不倫をしたとしても、花純ちゃんを産んで、僕と彼女を出会わせてくれた人だ。
そう思うと、僕には、それを真っ向から否定する勇気が出てこなかった。
花純ちゃんは、淡い瞳で僕を僕を見つめていた。
さっきまでうるさいくらいだった潮騒が、聞こえなくなった。
彼女の長いまつ毛から水滴が滴って、強い陽射しに輝いた。
僕は、視線を反らした。
そしたら彼女は、海の方を向きながら小さく呟いた。
「……やっぱり……奏汰は情けないね」
それから花純ちゃんは、小さくため息をついて、僕に向き直った。
「……ごめん、急に変なこと言って」
「……ううん」
「今の事、誰にも言わないでいてくれる?」
「言わないよ」
「圭介にも言わない?」
「圭介になんて、なおさら言えないよ」
「うん、そうだね。じゃあ、もうそろそろ帰ろっか」
その日の海岸までの100メートルが、僕には、500メートルにも1000メートルにも感じられた。
帰りの坂道では、僕が自転車を押して、花純ちゃんは、その後ろを何も言わず離れて歩いた。
僕が花純ちゃんと話したのは、あの日が最後だった。
その年の10月、彼女は僕に何も言わず、この町を離れていった。
9月に入って、僕は圭介と一緒に、味噌味の「ブリラーメン」の改良と、それを目玉にした子ども食堂の開設を目指して、町内での様々な交渉や折衝に奔走した。
そして僕は、それと並行して、ラーメンにチャーシューの代わりとして乗せられていたブリのすり身団子を、「ブリのすり身ハンバーク」という単品料理として成り立たせる為に、家の台所で色々な試行錯誤を繰り返した。
11月には、僕が作ったレシピを元に、町内の食堂と共同開発した「ブリのすり身ハンバーク」と、それを油で揚げた「ブリのすり身メンチカツ」、更にそれをスイートチリソース風のソースで味付けしてパンズに挟んだ「チャイニーズブリバーガー」も誕生した。
そして12月には、それらと改良した「ブリラーメン」を目玉メニューした子ども食堂が、新年度から町の漁協の近くに開設される事が決定した。
僕がこの町に引っ越してきて3年目の4月、子ども食堂は、漁協の近くの、今は使われていない漁師さんの番屋を町が譲りうけて、そこに開設された。
僕と圭介が町の人たちと一緒に考案した目玉メニューは中々好評で、ゴールデンウィーク位から、テレビやインターネットで評判を聞いた離れた地域の人たちも、この子ども食堂を訪れる様になった。
そして、8月19日の昼下がり。
子ども食堂の窓際の席でアイスティーを飲んでいると、外から、ドッドッドッという音が聞こえてきた。
窓の外を見ると、1人の女の子を黒い大きなバイクの後に乗せた女性の姿が見えた。
そのとき僕は、子ども食堂の実務をやって貰っているボランティアさん達との打ち合わせを終えて、一息ついていた所だった。
エンジン音が止まってしばらくして、入口のドアベルが鳴った。
「……あのー、えへへ、大人1人、子ども1人なんですけど、私も入って平気ですか?」
「いらっしゃいませ。もちろんです、ここは、どんな人でも利用できるみんなの食堂ですから」
応対したのは、僕の家の3件隣に住んでいる、中学校3年生の和樹くん。
以前は人と話すのが苦手で不登校だったけれど、今ではこんな接客もお手の物だ。
夏休み開けからは、また学校に通に始めるらしい。
女性は「ブリラーメン」、女の子は「チャイニーズブリバーガー」を注文した。
ここの「ブリラーメン」は、店頭の食品サンプルで分かるとおり、結構なボリュームがある。
彼女は子供の頃から、僕よりよく食べる娘だった。
今でも、食べるのが好きなんだな。
僕は、女性と女の子が食事を終えたタイミングで、そのテーブルに歩み寄った。
「花純ちゃん、久しぶり」
彼女は立ち上がって、僕の顔をじっと見つめた。
「……えっ……奏汰?」
「うん。僕も3年前から、こっちで働いてるんだ」
「……久しぶり……えへへ。そっか、もう知ってるよね。えっとね、私は一昨日着いた所」
花純ちゃんはそう言いうと、女の子に声をかけた。
「ほら、茉莉花、ご挨拶しましょうね。この人はね、お母さんの幼馴染で、国見奏汰くん」
僕はしゃがみ込んで、女の子と視線を合わせながら声をかけた。
「はじめまして。僕は国見奏汰っ言うんだ。今は町役場で働いてて、君のお母さんとは、昔からの知り合いなんだよ」
「はじめまして、倉敷茉莉花です。小学校4年生です」
「うん。茉莉花ちゃん、きちんと挨拶できて偉いね」
それから僕は立ち上がって、花純ちゃんに声をかけた。
「凄いバイクだね」
彼女は、少しはにかみながらそれに答えた。
「えへへ。恥ずかしいけど、最初の旦那からの慰謝料代わりなんだ」
「ふうん」
「最初は売ろうかと思ったんだけど、中々高く買ってくれる所が見つからなくてね。それなら自分で乗ってみようと思って免許とったら、これが意外と楽しくて」
「花純ちゃんはやっぱり凄いね。あんな大きいバイク、僕なら貰っても、自分で乗ろうなんて思わないよ」
「えー、でも今は私より奏汰の方が大きいし、頑張れば乗れると思うけど」
「いや、それはちょっと……。それよりかすみちゃん、今はどこに住んでるの?」
「えへへ、奏汰は変わらないね。今住んでるのは、布袋の町営住宅だよ」
「荷物は片づいた?」
「あ、大体は片づいたんだけど……」
「なら、今度の日曜日に、僕と圭介で手伝いに行くよ」
「圭介くんって、あの?」
「うん。花純ちゃんの家の向かいに住んでた」
「うん、ありがとう。でも2人共、忙しくないの?」
「大丈夫だよ。圭介も今は役場で働いてて、日曜は空いてるから」
「そっか。じゃあ、お願いしようかな」
その時、茉莉花が不思議そうな声を上げた。
「ねえお母さん、この人がお家に来るの?」
「そうよ。奏汰くんも圭介くんもお母さんの幼馴染で、とってもいい人なのよ」
「ほんとー? また怖い人なんじゃないの?」
それを聞いた花純ちゃんは、また、少しはにかみながら言った。
「えへへ、ごめんね、奏汰」
「ううん」
僕がそう応えると、彼女は茉莉花
にむき直って言った。
「茉莉花、お母さんと奏汰くんと圭介くんはね、ずっと小さい頃から一緒に遊んでたのよ。山で虫取りしたり、海で泳いだり……」
「海ー?」
「そうよ。奏汰くんなんて、お母さんより背が高くなっても、泳ぐのはお母さんの方が上手だったのよ」
「そうなのー?」
「花純ちゃん、やめてよ……」
「えへへ」
「えー、茉莉花も、海行きたい!」
「茉莉花ちゃん、泳げるの?」
「うん! 茉莉花はね、学校のプールで一番速いんだよ!」
「じゃあ花純ちゃん。家の片付けが終わったら、3人で大黒の浜に行ってみない?」
「うん。行ってみたいけど、どうやって行くの? 私は車持ってないし、バイクにも3人は乗れないよ。 バス?」
「ううん。僕も自分の車は持ってないけど、家のはあるよ」
「あ、そっか」
「でもどうせなら、圭介のを借りようよ。圭介、去年3人目が出来て、新車を買ったんだ」
「そうなんだ、凄いね、圭介」
「ね」
「じゃあさ、奏汰にはそういう相手はいないの?」
「それは……花純ちゃんなら分かるでしょ」
「うーん、どうだろ。今の奏汰はきちんと働いてるし、昔から優しいし」
「……そうかな」
「うん」
「でも、花純ちゃんが知ってるのは、あくまで子どもの頃の僕だし、今の僕は思ってるのと違うかも……」
「ううん、そんな事ないよ。 今、ちょっと話しただけで分かったもん。奏汰は昔のまま、優しいままだよ」
「うーん、本当にそう思う?」
「うん、もちろん。だって私も、初めて会った時から、ずっと奏汰の事を見てたんだから」
そう言って彼女は、少しはにかみながら、淡い瞳を僕に向けてきた。
「え……」
その表情を見て、僕は咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
「えへへ。奏汰って、やっぱり情けないね」
花純ちゃんはそう言いながら、昔の様に、向日葵みたいに笑った。
開け放した窓から吹き込んできた潮風が、3人の頬を優しく撫ぜた。




