第30話 その名前に、意味を
夕食を終え、アリアンはキッチンで皿を洗っていた。
水音とともに小さな鼻歌が流れ、久しぶりに緩んだ空気が漂う。
リビングの灯りは柔らかく、時計の針が「コチ、コチ」と規則正しく刻む音がやけに耳に残った。
ソファに沈み込むセレナは、大きく伸びをして猫のように丸くなり、手元のカップを置く。
「……っはぁー、これぞ至福ってやつ」
彼女はわざと気だるげな笑みを浮かべ、視線を向かいのソファに投げた。
「で、ノックス。そんな顔して……また“片付けしない”って文句言う気?」
ノックスは本を手に、膝元で丸くなったアルの背を軽く撫でながら答える。
視線はページから外れないまま――
「文句じゃない。事実を言ってるだけだ」
「ほぉ、事実ねぇ? じゃあなに、説教でもする? それとも、洗い物――代わってくれるの?」
「しない。家事は“分担”って決めただろ」
ノックスの声は、静かで、淡々としていて――
その平坦さが、逆に胸を締めつける。
セレナのまなざしが、カップから立ちのぼる白い湯気に吸い寄せられた。
――白霧。
記憶の奥底で赤く染まるあの日と、重なった。
血と、あの男の冷笑と、名前。
名前に縛られる鎖が、今も胸をきしませる。
沈黙。
時計の音が「コチ、コチ」と、やけに大きく響く。
やがて――彼女は、ふっと唇を開いた。
まるで大したことじゃないみたいに。
「――今日から、私のこと“ソレイア”って呼んで」
ノックスの指先が、ページをめくる寸前で止まる。
キッチンで皿を洗っていたアリアンが、驚いて手を滑らせ、皿を落としそうになった。
「えっ……ど、どうして……?」
セレナは視線をカップに落とし、指先で縁をなぞった。
笑みは、霧のように淡い。
「“セレナ”って響き……昔を思い出すのよ」
声が、ほんのわずか沈む。
「――もともと、本当の名前じゃないしね」
それが、彼女なりの答えだった。
けれど次の瞬間、ぱっと顔を上げると、今度はアリアンに向けて唇の端を上げる。
「ま、勘違いしないでよ? 名前を変えたからって、あんたとの“縁”が切れるわけじゃない。姉妹であることに、変わりはないんだから」
「っ……!」
アリアンは、ぎゅっと唇を噛みしめ――震える声で笑顔をつくる。
「……うん、わかってる」
胸の奥が、かき回されるみたいに痛んだ。
――その時。
パタン、と乾いた音が部屋に落ちた。
ノックスが、本を閉じた音だった。
視線を上げると、翠の瞳が、まっすぐセレナを射抜いている。
氷のように静かで、なお鋭い光を秘めたまなざし。
「――好きにしろ」
ページの上に指を置いたまま、低く落とす。
「……変えようが変えまいが、俺にとっては同じことだ」
胸が、ちくりと鳴った。
“同じ”――そんなはずない。
(ほんとにそう思ってるなら、なんでそんな顔するのよ)
セレナは深く息を吸い込み、心の奥で荒れ狂うものを押し込める。
――そして、いつもの調子で笑ってみせた。
「へぇ? なら、間違えないでね、ノックス」
言葉を飲み込むような沈黙。
やがてノックスは立ち上がる。
本をテーブルに置き、無造作な足取りで彼女の横へ――
肩越しに、翠の瞳が覗き込む。
「……ソレイア」
囁くような声が、耳に落ちた。
それは、確認でも、からかいでもなかった。
ただひたすら、真っ直ぐな呼びかけ。
――胸が、跳ねた。
心臓を鷲掴みにされたみたいに。
耳の奥が、熱で痺れる。
“ただの名前”じゃない。この瞬間から、彼の言葉で意味を持った。
セレナは顔をそむけ、必死で笑みを保つ。
「……っふん、忘れんなよ」
キッチンのアリアンは、皿を抱えたまま固まっていた。
(な、なにこの空気!? ちょっと待って、これ……告白シーンじゃん!?)
頬が燃えるみたいに熱い。
さっきまで笑い合ってたのに――なんで急に、こんな……っ!
「……どうした?」
ノックスが、不意にアリアンを見やる。
平静を装った声が、逆に心臓を撃った。
「ひゃっ――な、なにも!」
アリアンは慌てて身を翻し、皿をシンクに置くと、小動物みたいに逃げ込んだ。
(……この家、危険すぎる!)
深呼吸をしながら視線を上げると――
冷蔵庫に貼られた一枚のプリクラが目に入った。
三人で無理やり狭いフレームに収まった一枚。
セレナはVサインで満面の笑み、ノックスは無表情……だけど、どこか許してしまっているような顔。
その光景を見た瞬間、胸の奥がじんわり熱を帯びる。
(……家族みたい、だ)
そんな言葉が心に落ちた。
そして――
(もし、できるなら。この時間が、もっと……長く続けばいいのに)
◆ ◆ ◆
――その夜。
窓辺に立つノックスの手元で、スマホが震えた。
画面に浮かぶ短いメッセージ。
【アイデン:魔界から動きあり。明日、学院に来い】
翡翠のまなざしが細められる。
指先で端末を握りしめ、低く吐き捨てた。
「……面倒だ」
画面が暗転し、夜の帳がすべてを飲み込む――
次章、『魔界選挙編』へ。




