第29話 結界の下で
符紋装置に指先が触れた瞬間、低い駆動音が庭に響いた。
透明な光の幕が四方に立ち上がり、後庭を丸ごと包み込む。
水面を撫でるような波紋が空気に走り、陽光を反射して淡い青光がきらめいた――
まるで世界が一枚の薄膜で切り取られたようだ。
「……わぁ、まるで学院の訓練場みたい」
アリアンは思わず息を呑み、そっと指で光幕に触れる。
水の膜に触れたかのように、指先がかすかに震えた。
「この結界は軽傷なら自動で治癒できる。安全性は十分、心配はいらない」
ノックスは淡々と告げながら、符紋装置のスケールを手際よく調整する。
立ち昇る光が、その横顔を切り取った。
冷ややかな翡翠の瞳が結界を映し込み、集中の色を宿している――
見ているだけで、胸の奥がざわつくほどに。
(……ただの“やろうか”って話だったのに、ここまで準備する? ほんと、律儀すぎ)
セレナは無意識に笑みを漏らし、どこか言葉にならない熱を胸に押し込めた。
「ふーん、さすがノックス坊ちゃま。用意周到でご立派だこと」
わざとらしく鼻で笑う声に、ノックスは視線を上げる。
「そっちが“やる”って言ったんだろ」
「はいはい、そうでしたねぇ」
セレナは肩をすくめ、指先で髪をまとめ上げ、きゅっとポニーテールを結う。
銀の髪が陽を弾き、しなやかに揺れた。
「アリアン、今日はあんた観客ね」
わざとらしくウィンクを飛ばし、笑みを悪戯に歪める。
「しっかり見てなさいよ。私がこの坊ちゃまを床に転がす瞬間を!」
「み、見たくないから! そういうの!!」
アリアンは慌てふためき、両手をぶんぶん振る。
(で、でも……二人ともジャージ姿で並ぶと……なんか、やたら絵になるんだけど?!)
つい視線が吸い寄せられる。
ノックスの黒い半袖シャツが鍛えられた体躯に沿い、無駄のないラインを描く。
靴紐を結ぶその仕草でさえ、妙に視線を奪う。
翠の瞳は冷静そのもの――風が彼の額の髪をそっと揺らした。
(……や、やば……見てる場合じゃない!!)
アリアンは頬を真っ赤にして、慌てて目をそらした。
「――そろそろいい?」
セレナは肩を回し、鋭い光を宿した瞳で相手を見据える。
「ノックス、準備できた?」
「いつでも」
短く返す声と同時に、結界の内側に張りつめた気配が走った。
空気が一瞬で研ぎ澄まされ、庭の風景が、戦場のそれに変わる――。
◆ ◆ ◆
夕食のテーブル
焼きたての肉が皿で湯気を立て、香ばしい匂いが部屋に広がっていた。
「っはー、今日の勝負、マジで最高!」
セレナは豪快に肉を頬張りながら、にやりと笑ってノックスを睨む。
「でもさ、あんた、弱くない? あんな大振り、新人でも避けるよ?」
ノックスは箸を止め、視線をゆっくり彼女に流す。
「……お前が強すぎるだけだ。俺には、余裕がなかった」
あまりにも素直な返しに、セレナの胸が一瞬だけズキリと鳴る。
だが、すぐに唇を歪め、肩を竦めて笑った。
「へぇ、褒め言葉として受け取っとくわ」
声はいつも通り軽い――けど、その裏で何かが軋むのを、彼女自身がごまかしていた。
「でもさ、その調子じゃ、本番で敵と当たったら即アウトよ?」
冗談めかしながらも、ほんのわずかに真剣さを滲ませる声。
ノックスは何も返さず、ただ黙って箸を動かすだけだった。
その沈黙が、逆に胸の奥をざわつかせる。
場を変えようとするみたいに、セレナはアリアンに笑みを向ける。
「で? 観客さん、感想は?」
「えっ!? あ、あのっ……は、速すぎて、全然……!」
顔から火を噴きそうな勢いで、アリアンはスプーンを握りしめる。
(やだ、何言っても地雷踏みそう……!)
慌ててご飯に目を落とし、震える指でスプーンを口に運ぶ。
(でも……やっぱり、二人ともすごかった)
脳裏に、あの戦場がよみがえる。
――冷静に戦局を制し、全員を守ったノックス。
――その策を一瞬で行動に変えるセレナ。
(……どっちが強いかなんて、比べることすら無意味。別次元の強さだ)
思わず息を詰めた、その時。
「……で、アリアン」
ノックスの低い声が、不意に空気を揺らす。
「前に――デビルハンターになりたいって、言ってたよな」
「っ――!」
スプーンを落としかけ、アリアンは慌てて首を振る。
「ち、違うの! 今は……もう、ないから!」
セレナが片眉を上げ、くすりと笑う。
「へぇ? あっさり諦め?」
「諦めたんじゃなくて……」
アリアンは俯き、声を絞り出す。
「……あのときは、パパ……イアンに、“できる”って証明したくて。でも、今は――もう、いい」
――弱音を吐きたくない。でも、この世界は、あまりにも遠い。
ノックスがさらりと視線を滑らせ、ぽつりと言った。
「アリアンは、父さんを尊敬してるって言ってたな」
「ノックス!!」
耳まで真っ赤にして、アリアンは叫ぶ。
「そ、それ内緒だってば!」
セレナは小さく笑い、肉を一切れ口に放り込む。
「……知ってたけど?」
肩越しに投げられたその声は、軽い。けれど――なぜか胸に、小さな棘を残した。
「炎さんって、本当にすごい人よね」
アリアンが恐る恐る続けると、セレナは肩を竦める。
「まあ……そうね。強いのは確か」
「じゃあ――許したの?」
ノックスの声が、テーブルに落ちた。
静かに、けれど刃のように鋭く。
セレナの手が止まる。
指先がわずかに震え――そして、笑みを浮かべた。
「何の話か、さっぱり。許すとか許さないとか……そんなもん、ない」
椅子を押しのけ、グラスの水を一口。
その紅い瞳は、どこか遠くを見ていた。
――その背中を見送りながら、アリアンは胸を押さえる。
言葉にならない圧が、部屋を満たしていた。
けれど――
「……心配するな」
ふと、ノックスの声が風を切る。
淡く笑みを刻んだ横顔が、アリアンの視線をさらっていった。
(……この人は、いつだって)
胸が痛む。どうして、彼は――
全部、自分で抱え込むんだろう




