第2話 夜のバスルーム、そして――
夜の帳が静かに降りるころ、三階の部屋でアリアンはようやく最後の小さな荷物を置き、深く息を吐いた。
「ふぅ……やっと片付いた……」
手を軽く叩き、視線を部屋に巡らせる。
淡いブルーのカーテンが夜風にふわりと揺れ、空気にはまだ洗剤のほのかな香りが残っていた。
午後いっぱい掛けての搬入と掃除――空っぽだった客間にも、ようやく自分の匂いが染み込んだ気がする。
――でも、埃まみれでボロボロだな、私。
アリアンは腕に付いた灰色の粉を見下ろし、頬に貼り付いた髪を指で払いながら、小さくため息を漏らした。
「先にお風呂、入ろうかな……」
そう呟き、三階の小さなバスルームに向かおうとドアに手を掛けた、その時――
「へえ? 三階のあの小さいバスルームで済ませるつもり?」
廊下から聞こえた声に、アリアンは足を止める。
壁にもたれ、腕を組んだセレナがそこにいた。銀白の髪が淡い灯りを受けて輝き、口元には意味深な笑みが浮かんでいる。
「シャワーだけで、立ちっぱなしで洗うのって、刑罰みたいじゃない? 本当にそれでいいの?」
「え、えっと……じゃあ、どうすれば……?」
セレナは肩をすくめ、わざとらしく視線を逸らしながら答える。
「二階のバスルームでしょ。ちゃんと湯船があるし、広々してるわよ」
声は何でもない調子――まるで「今夜の夕飯、何にする?」とでも言っているかのよう。
「ノックスなら、どうせ書斎であの難解な符紋をいじってるだけ。邪魔にならないわ」
「そ、そうなんだ……」
アリアンはまばたきをして、胸の奥にわずかな安堵を覚える。
セレナは以前にもこの家に来たことがある。きっと間違いないはず――そう思い込んだ瞬間、頭に浮かんだのは、湯気と温かな湯船のイメージ。
その誘惑に、少女の心はあっさりと負けた。
下着と着替えを抱きしめ、アリアンは足音を殺して二階へ降りる。
廊下はしんと静まり返り、柔らかな灯りが床に長い影を落としていた。
――胸の鼓動が、早い。
ここはノックスの「領域」だから? それとも……。
唇を結び、服をぎゅっと握りしめ、深呼吸を一つ。
そっとバスルームのドアを押し開けた――
次の瞬間、白い蒸気がふわりと溢れ、熱を帯びた湿気が顔にかかる。
ぼんやりとした視界が徐々に晴れて――
「……え」
見えた。
紅い髪。
そして、水滴を弾く、しなやかな背中のライン。
肩から腰へと流れる筋肉は滑らかで、鎖骨を伝う雫が灯りを反射して煌めいている。
濡れた髪が項に貼り付き、精悍な顎の輪郭が露わになり、肩甲骨が呼吸に合わせてわずかに動く――
……色っぽすぎる。
(ま、待って……これって、ノックス……!?)
「な、なんで……裸――っ!?」
声が喉でつっかえ、アリアンはただ呆然と立ち尽くす。
手にしていた着替えが「パサリ」と床に落ちる。
その時、彼が――ゆっくりと振り返った。
翠緑の瞳が、白い湯気の中で冷ややかに光を放つ。
濡れた髪が頬に張り付き、唇の端にごくわずかな弧が浮かんで――
「……突っ立って、何してんだ?」
低い声。
冷淡なはずなのに、なぜか背筋を撫でるような圧。
アリアンは電流に撃たれたみたいに飛び退き、顔を真っ赤に染めた。
「わ、わ、私は……ちょっと、見学!!!」
――見学!? 何その言い訳!!
ノックスは片眉を上げ、彼女の狼狽ぶりを一瞥し、淡々と返す。
「……バスルームを? それとも――俺を?」
――ど、ど、どっちでもない!!
脳内で爆音のように羞恥心が弾け、息も整わない。
アリアンはほとんど転がるように浴室を飛び出した。
胸に抱えた服をぎゅっと握りしめ、階段を駆け上がりながら――
(終わった……! 私、今……何見たの!?)
頭の中には、あの映像が焼き付いて離れない。
――水滴。鎖骨。肩のライン。
「ダメ、思い出しちゃダメ!!」
心の中で叫びながら、足がもつれて手すりにぶつかりそうになる。
「やあ~」
階段の踊り場で、気だるげな声が落ちてきた。
アリアンは反射的に顔を上げる――そこにいたのはセレナ。
欄干にもたれ、腕を組み、銀白の髪が灯りにきらめき、唇には悪魔的な笑み。
「顔、真っ赤じゃない。まるで熟れたリンゴね」
ゆっくりと近づき、目線を合わせ、声を低くして――
「……さて、何を見ちゃったのかな?」
「な、なにも! 違うから!!」
アリアンは涙目で手をぶんぶん振る。
「私は……ただ、お風呂に入りたかっただけ!!」
「ふぅん。お風呂ね」
セレナはわざと声を引き伸ばし、視線を上下に滑らせながら、悪趣味な笑みをさらに深めた。
「で? サイズはどうだった?」
「えっ?」
アリアンが瞬きをする間もなく、セレナは咳払いをして――
「……お風呂の、サイズよ?」
――ドン!!
アリアンの羞恥ゲージは一気に振り切れ、顔が爆発しそうなほど真っ赤に染まる。
「セ、セレナーーーー!!!」
悲鳴とともに駆け上がる足音。
「バタン!」とドアが閉まり、三階の廊下に振動が走った。
階段に残されたセレナは、腕を組んだまま、愉快そうに笑みを零す。
「ほんと、素直で可愛いわね……」
そして、唇にいたずらっぽい弧を描きながら、ぽつりと呟いた。
「これは、面白くなりそう」