第1話 午後の陽光と小悪魔の訪問
午後の陽射しが静かに街を照らす中、黒いセダンが三階建ての邸宅の前でゆっくりと停まった。
ドアが開き、最初に降り立ったのはセレナ。銀白のロングヘアが陽光を受けて微かに煌めく。サングラスを適当に襟元に掛け、口元にわずかな嫌味を滲ませながら言った。
「……やっぱり、狭いわね」
「王宮じゃあるまいし」
カチャリと鍵の音が響くと同時に、低い声が玄関から聞こえた。
そこに立っていたのはノックス。両手をポケットに突っ込み、翠緑の瞳で三人を一瞥し、いつも通りの冷淡な口調を放つ。
「嫌なら、福祉施設の門はいつでも開いてるぜ」
「あんたね――」
セレナが噛みつこうとした瞬間、アイデンが軽く咳払いし、眼鏡を指先で押し上げる。
水のように静かな声色だが、その一言で二人の火花はあっさりと消えた。
「やめろ、子供じゃないんだから」
彼は教師がクラスの喧嘩を収めるような自然さで、しかし反論を許さない力を孕んだ声で続ける。
「ともかく、これからお前たち三人は一緒に暮らすんだ。仲良くやれ」
そう言って、トランクから荷物を軽く地面に置き、三人を順に見渡す。そして一言添えた。
「じゃあ、俺は学院に戻る。仕事があるからな」
「えっ、アイデン――パパ、もう帰るの?」
「パパ」という言葉はどこかぎこちなく、まだ口にするのに慣れていないようだった。
アイデンは足を止め、口元にわずかな笑みを浮かべる。それは一瞬で消えるほど淡く、それでも妙に優しい。
「心配するな。ここはノックスの家だ。お前は安全だ」
彼の声は静かだが、不思議な安心感を与えるものだった。
アイデンは車のドアを閉め、最後にノックスへと視線を向ける。
「頼んだぞ、ノックス」
「……分かってる」
ノックスは気だるげに答えた。
アイデンは小さく頷き、車は午後の光の中を遠ざかっていく。残されたのは三人と山のような荷物だけ。
庭には、しばしの間、風が木々を揺らす音だけが残った。
――その時、家の中から小さな魔獣が飛び出してきた。
軽やかにノックスの肩に跳び乗り、しなやかな尾を揺らしながら、翠色の瞳で二人を警戒するように低く唸る。
「……ほら」
ノックスは視線を戻し、片手でアリアンのスーツケースを軽々と持ち上げる。
もう片方の手はポケットに突っ込んだまま、冷たい声で言い放った。
「入れ。部屋を案内する」
セレナはその背に続き、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「あんた、口は悪いくせに動きは優しいのね」
ノックスは振り返らず、淡々と吐き捨てた。
「手伝いが欲しいなら、荷物は外に置いておけ。朝までな」
「……ムカつく!」
セレナは白い目を向けながらも、しっかりと荷物を抱えて家に入る。
アリアンも黙ってその後を追うが、胸の鼓動は妙に速まっていた。
――ノックスと一緒に暮らす。同じ屋根の下で。
これからの生活、一体どうなるんだろう……?
◆ ◆ ◆
ノックスは前を歩きながら、片手でスーツケースを持ち、もう片手はポケットに突っ込んだまま。
一見だらけた動きだが、その足取りは驚くほど安定していた。
「三階に部屋が三つ。二つは広めで、もう一つは書斎だ。好きに選べ」
その声はいつも通り冷たく、交渉の余地は一切ない。
セレナは後ろでサングラスを頭に押し上げ、鼻で笑った。
「ふーん、思ったより狭いわね。でも――」
口元に挑発的な笑みを浮かべる。
「二階の部屋、もらっちゃおうかな? 聞いた話だと、某誰かさんの部屋が一番広いんでしょ」
ノックスは視線をちらりと向け、淡々と返す。
「いいぜ。代わりにアルが夜中に顔を踏みに行くけどな」
そう言い残し、再び荷物を運ぶため階下へと消えた。
「……やっぱりやめとく。二階は開放的すぎるし」
セレナは肩をすくめ、一つの扉を開ける。
「ここにするわ」
アリアンは黙って頷き、その隣の部屋を選ぶ。
「じゃあ、私はここで……」
そう言いながら、胸の前でバッグを抱きしめる。その視線は、つい二階へと向かってしまう。
心に浮かぶ小さな思い――けれど、それを形にする前に、セレナが笑みを浮かべて突っ込んできた。
「ねえ、アリアン」
彼女はドア枠に寄りかかり、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「二階、見に行かないの? ノックスの部屋だよ?」
「えっ、い、いや、無理無理! それはダメでしょ!」
アリアンの顔が一瞬で真っ赤になる。
「男の子の部屋なんて……」
「へえ? でも、これから同じ家で暮らすんだよ? それとも、本当は見たいんじゃない?」
セレナの声には、悪趣味な楽しさが滲む。
「ち、違うってば!」
アリアンは必死に否定するが、その時――階下からノックスが戻ってきた。
手にはもう一つのスーツケース。二人を冷たく見やり、短く言う。
「騒ぐな」
「別にぃ。ただ――誰かさんが、あんたの部屋に興味津々みたいでね」
「セレナ!!」
アリアンの悲鳴が弾ける。耳まで真っ赤に染まって。
ノックスは眉を上げ、アリアンの慌てた顔を一瞬見てから、淡々と呟いた。
「……好きにしろ」
そして、そのまま階下へと消える。
――好きにしろ。
その一言が、妙に大きく響く。アリアンの頭の中で。
気づけば、彼女の足は勝手に二階へ向かっていた。
◆ 二階・ノックスの部屋
扉をそっと開けると、冷たい空気が流れ出る。
整然とした部屋。机の上には整った符術の道具。ベッドには深い色のカバーがピシッと掛けられていて、ほのかな木の香りと――彼の匂いが漂う。
アリアンの心臓が跳ね上がる。
視線がベッドに吸い寄せられる。
頭の中に、あり得ない光景が浮かんだ――
【妄想モードON|少女漫画フィルター】
窓から差し込む夕陽に照らされ、ノックスがベッドに腰掛けて、半眼でこちらを見ている。
低い声で、唇の端をわずかに上げながら――
「ここで寝たいのか?……なら、来いよ」
次の瞬間、強い腕に抱き寄せられて――
「バカ。顔、真っ赤じゃねえか」
――パチン!
アリアンは一気に現実に引き戻される。
顔が熱い。もう沸騰寸前だ。
「な、ないないない!!」
慌てて後ずさるが、足が椅子の脚に当たり――ドサッと転んだ。
耳まで真っ赤、涙目で。
その時、不意に低い声が背後から落ちてくる。
「……何してんだ?」
振り向けば、ドアのところにノックスが立っていた。
片手をドア枠にかけ、その瞳で冷たく見下ろして。
「わ、私は……ただ見てただけ!!」
アリアンは手をバタバタさせながら、まるで泥棒を現行犯で捕まえられたみたいに叫ぶ。
セレナの笑い混じりの声が、階段の下から届く。
「見学? へえ、すっごく熱心だったみたいね――顔、真っ赤よ?」
「セレナぁ!!」
アリアンは床に崩れ落ち、頭を抱えたくなる。
ノックスはそんな彼女を無表情で見下ろし、ただ淡々と一言。
「荷物、全部運んだ。……部屋、片づけとけ」
それだけ言い残し、何事もなかったように階段を下りていく。
背中が、あまりに冷静で。
アリアンはその場に固まったまま、顔の熱が引かない。
胸の奥では、あの一言――「好きにしろ」が、何度も何度もリフレインしていた。