第18話 その基準、あんただけ
リビングはしんと静まり、柔らかな灯りが部屋を照らしていた。
ノックスはソファに体を預け、厚い本を無表情でめくっている。
アルはその隣で丸くなり、欠伸をひとつ――
穏やかな時間が流れていた。
――階段から、軽い足音が聞こえるまでは。
視線を何気なく上げたノックスの眉が、わずかに動く。
セレナが降りてきた。
大きめのシャツ一枚。
襟元はゆるく開き、鎖骨がのぞく。
濡れた銀髪から水滴がぽたりと落ち、長い脚はほぼむき出し――まるで湯気をまとったままのようだ。
タオルで髪を拭きながら、ソファの背に片肘を預け、にやりと笑う。
「よっ、まだ起きてんの? まさか、あたしのこと待ってた~とか?」
――キッチンの入口でカップを持っていたアリアンは、顔を真っ赤に染めて固まった。
(ま、待ってた!? 今の……絶対危険な空気でしょ!?)
ノックスは目を上げ、ちらとセレナの長い脚を見やり、氷のように冷ややかな声を落とす。
「……前に言ったよな。『さっさと服着ろ』って」
「……は?」
一瞬きょとんとしたセレナは、すぐ口角を上げて、挑発的に近づく。
「なに? 目のやり場に困ってんの?」
ノックスは淡々とページを戻しながら言った。
「いや。ただ――その基準が、自分以外にも当てはまるのか、確認しただけだ」
声音は低く、抑揚はない。
だが、その一言に、妙な圧があった。
(な、なにその言い方……なんか、取り調べみたいじゃない!?)
アリアンはカップを抱えたまま、耳まで真っ赤になる。
セレナは腕を組み、口元に笑みを深く刻む。
「ふぅん? 女だし、アリアンだって見慣れてるでしょ。なにをそんなに……もしかして、気にしてんの?」
わざと甘く伸ばした声が、空気を妙に熱くする。
ノックスは視線を落としたまま、ページをぱたりと閉じずに答えた。
「気にしない。ただ――ここはお前専用のランウェイじゃない。それと……座れ、パンツ見えてる」
「!!!」
アリアンはちょうど水を飲んでいて――
「ぶっ!!!」
派手に噴き出した。顔を真っ赤にして、テーブルを必死で拭きながら心の中で絶叫する。
(この会話、危険度MAXなんだけど!?)
セレナは、心臓がドクンと跳ねたのを必死で隠し、さらに笑みを深くして一歩踏み込む。
「へぇ……じゃ、質問。あんたって普段から裸で家うろつくタイプ? 親の前でも?」
声色に、あからさまな挑発をにじませて。
ノックスはゆっくり顔を上げ、無機質な翠の瞳を向けた。
「母さんが言ってた。風呂上がりは、体が完全に乾くまで服を着るなって。その方が健康にいい」
一拍おいて、衝撃的な一言を、まるで何でもないかのように落とす。
「……何か問題でも?」
「っっっ!?」
セレナの頭の中で、何かが盛大に爆ぜた。
(カルマァァァァァァァ!?!? なに教えてんのこの女!?)
「ひ、ひぃっ――!?」
アリアンはカップを抱きしめ、脳内で非常ベルを鳴らしながらうずくまる。
(『乾くまで服着ない』……ちょ、ちょっと、そんな映像勝手に浮かぶでしょぉぉぉぉ!?)
セレナは息を整え、無理やり笑顔を貼りつけると、さらに声を甘くして――
「ふぅん……じゃ、確認してあげよっか? ちゃんと乾いてるかどうか」
わざとらしいほど近づいて――挑発の笑みを浮かべたまま。
ノックスの指先が、ぴたりと止まる。
次の瞬間――
「パタン」
乾いた音を立てて本を閉じ、すっと立ち上がった。
「……待ってろ」
数学の解き方でも言うような、淡々とした声。
「えっ……なに、動揺?」
セレナは内心ほくそ笑み、勝利を確信しかけた――
だが、ノックスは一言も返さず、廊下へスタスタと歩いていく。
「……は?」
呆然としたセレナの耳に響いたのは、次の瞬間――
ブォォォォ――
低く唸るモーター音。ノックスが手にして戻ってきたのは、ドライヤーだった。
コードを差し込み、カチリとスイッチを押す音が、妙に緊張をはらんで響く。
「座れ。まだ水滴ついてる」
冷静すぎる声音に、有無を言わせぬ圧。
「……っ」
セレナは言葉を飲み込み、思わず腰を下ろした。
ノックスは無言で近づき、ふわりと銀髪を持ち上げる。
指先が後ろ首をなぞり、そのわずかな熱が電流のように肌を走った。
吹き出す温風が耳裏をくすぐり、世界の音が遠ざかる。
「……動くな」
低い声が、耳朶すれすれで落ちる。
セレナの心臓が跳ね、耳まで真っ赤になりながらも、必死に強がる。
「……ふん、誰が動いてるっての」
キッチンの入口で固まったアリアンは、顔が真っ赤に染まり、心臓が破裂しそうな勢いで叫んでいた。
(ムリムリムリ……これ、完全に夫婦の図じゃん!!!)
指先が髪を梳き、時折首筋に触れるたび、息が詰まりそうになる。
ノックスの横顔――鋭い眉、翠の瞳、結ばれた唇。
そのすべてが近すぎて、心臓が苦しい。
(誰が許可した、こんな天然の色気……!)
最後の一房を乾かし終えると、ノックスは髪先を軽く指で梳き、さらりと言った。
「……母さんよりやりやすいな。髪質、悪くない」
「は――っ!?」
セレナの脳内で、再び何かが爆発した。
だが必死に顎を上げ、言葉をしぼり出す。
「……評価すんな、バカ」
アリアンは、クッションに顔を埋めて声を殺しながら絶叫していた。
(無理、こんなの心臓止まるって……!!)




